視覚に注がれる花の蜜

「あっ、わぁ……岸くんだ……」

 叫ぶのを堪えて小声でそう呟きながら口元を両手で覆う。
 私の囁き声を聞いた同期――祥夏がひょいと首を伸ばし、本棚の隙間から小説のコーナーに灰色がかったもじゃもじゃ髪の彼を見つけ、同じようなリアクションを同じように小声で返してくれた。そうなの、岸くんがいるんです。

 背が高い岸くんは、私の顔くらいの高さの本棚の間に立っていると肩から上が飛び出して見えた。
 すらりと背筋が伸びて、活力というものが正直ほとんど感じられないいつもの目つきでずらりと並ぶ本の背を眺めている。

 ひそひそ話をしていたら、人の視線や気配に敏感な岸くんがちらりとこちらに目をやった。私と隣にいる祥夏――ついでに周囲にいる同好会メンバーを一巡すると、「うわぁ……」とでも言いたげな眼差しになって目を眇める。
 あれはどういう感情なんだろう。よくわからなくて首を傾げた私の背を同期が押した。約束日以外で会うのは珍しいんだからいってこい、とは言うけど、肝心の岸くんがあれだもんな。

 岸くんはこっちが気後れしてしまうほど変わらない。
 付き合って下さい、ってはっきり言ったのに。

 しかも二度も。

 いいよと断っても許されそうになかったので、肩にかけた鞄の紐を握り締めたままいそいそと岸くんのいる小説コーナーに立ち入った。

「き、奇遇だね岸くん」
「なんで顔引き攣ってんの」
「先に露骨に嫌そうな顔したのはそっちなのに……」

 嫌なのかと思った、と言うと、背の高い彼は丁度顔の高さにある棚に持っていた小説を戻した。細く長い指がその流れで下りてきて、私の左頬を抓る。「ぞろぞろ引き連れてんなぁと思っただけ」はあ、そうですか。
 ちら、と棚に並んだ本の背表紙を見上げる。……知っているタイトルもいくつかあったけど、なんというか全体的に渋い。よく見たら海外文庫だし。岸くんっぽい。

「ここらへん、きみらの大学からはちょっと離れてるだろ。はるばる何しに来たの」
「確かにちょっと遠いけど本が多いでしょ、ここ。ちょうど課題図書を探してる子もいたし、今日は午後からみんな授業なかったから足を伸ばしてみました」
「ふーん」

 訊いてきたくせにあまり興味のなさそうな岸くんが浅く頷いた。その横顔を見上げたまま、なんとなく履いていたスカートの裾を直す。

 お付き合いをはじめ、彼は私を「新詩」と呼ぶようになったけれど、それ以外特段変化したことはなかった。表情筋は相変わらずやる気なさげだし、連絡頻度が若干上がったかな、くらいで。
 その不変さに安堵している自分もいる。だから別に岸くんに何かを求めるつもりはないし、今のところ自分から何かアクションを起こす気もない。たぶん、本当に何かが必要になったときは、流れで何かしら起こるでしょう。

「話したことなかったかもしれないけど、私、手芸部なんだよ。今日はね、レジンやってみたいね〜ってことで、手芸部のみんなとレジンの入門書みたいなのを探しに来たの」
「へえ。マフラーとか編んだりするの?」
「するよ。キーホルダー作ったりとか、マスコット作ったりとかもする」

 マフラー、今年は岸くんに編んでみようかな。手作りは重くて嫌だろうか。……いや、「既製品しか勝たん」とか言われたら流石にへこむ自信があるし、やっぱりやめよう。
 なんだかそういう未来が今はっきり見えた。

 さみしい決意を胸に首を振ると、ふいに岸くんが「ピアス、捩れてる」と独り言のように呟いた。
 私が反応するより先に彼の方が動き出して、親指と人差し指が私の耳元に差し込まれる。ちょっと硬い指先の皮膚が耳朶と、そこからぶら下がっている細いチェーンに触れてくすぐったかった。

「初めて見た。この布のやつ」
「うん、この間買ったばっかり……ちょっと、あんまりいじらないで」

 くすぐったい、と首を竦める。私の言葉などお構いなしに、岸くんは金具を指で揺らしたり、短く切っている爪に引っ掛けてみたり、なんだか自由だ。
 ないとは思うけれど万が一チェーンを引っ張られて耳が千切れても事なので(ないとは思うけれど!)、顎を上げ無抵抗の構えをとった。
 む、と唇を引き結んで頭を上げ続ける私の顔を覗き込む、岸くんの細い目が弓なりに歪む。
 耳朶とチェーンを掠めていた指先が予兆なく首筋に触れたときは、流石に「岸くん」と咎めるような声音が飛び出した。

「なに」

 一切悪びれる様子なくこちらを見下ろす岸くんから顔を逸らす。触れられた首筋は手のひらで覆い、じわじわ染み出してくる緊張を誤魔化すように息を吐いた。

「なにじゃないよ。もう……光って揺れるものに釣られるなんてカラスか猫なの?」
「残念ながらヒト亜族ヒト属、ホモ・サピエンス・サピエンスなんですよねぇ」

 眉を寄せると、岸くんはちょっかいを出していた手をパッと引っ込める。にこり、と普段絶対にしない胡散臭い笑みを浮かべると、私の背後――手芸部の面々に視線を向けた。

「お友達がお待ちかねだぜ。戻りなよ」
「引き留めてた人がなにを言うか……」
「目的は達成したんでね」

 目的? とオウム返ししたけど、岸くんの視線がこちらに戻ってくる効果はなく、彼は口角を上げたまま手芸部のみんなの方を向き、あろうことか会釈までしてみせた。
 な、なんなんだ。今まで誰と会ってもそんな風に常識人っぽいことはしなかったのに……。
 うちの祖母と会った時も礼儀正しさはあったけどにこりと笑いはしなかったんだけどな、と思い出したらがっくりきた。別に、岸くんが易々と笑顔を振る舞うような人でないのはわかっていたけど。

 いつもと違う様子に慄いていると、岸くんは「戻んないの?」と私の背中に軽く触れた。私を見下ろす顔はいつの間にかいつもの無表情に戻っている。
 やるせない気持ちを飲みこんで「またね」と踵を返すと、「いつもの子によろしく伝えて」と背中越しに岸くんが答えてくれた。


「――失礼しました。ちょっと、か……彼氏がいたもので」

 部員達のもとに戻ると、よろしく伝えてと言われていた祥夏があからさまに「うわ〜」という顔をしていた。
 よろしくって言ってたよ、と伝えると呆れたようなものに軟化したものの、微妙な表情であるのに変わりはない。

「よろしくって、なにを頼まれたのあたしは」
「わかんないけど……知ってる顔が祥夏しかいなかったからじゃないの」

 なにやら訳知り顔で顎を擦った彼女は、たっぷり溜めてから「まあ甘んじてよろしくされましょう」と肩を落とした。

「あんなおっかない顔されたら従わざるを得ないってもんよね」

 散々な言われようだったけれど、確かに岸くんのにこやかな顔はおっかないと評されても仕方がない。なにせほとんどが純度百パーセントのポジティブ感情からくる笑顔ではないから。
 こう言うと拗ねてしまうだろうから本人の前で口にしたことはないけれど、岸くんは笑顔がだいぶ下手だ。どう頑張っても悪どい感じの笑みになるし、笑顔の使いどころもそうあれかしと自ら望んで相応しくない状況や場面を選んでいるように思う。
 ……そう考えると、さっきの妙なにこやかさは何か別の意味を含んでいたんだろうか?

 さっきまでいた場所を振り返る。
 ちょうど岸くんがこちらに背を向け、別の棚へと移動しようとしているところだった。その背を目で追いながら「なんだったんだ……」と呟いた。
 すると祥夏は「あれはねぇ、馬鹿でもわかる牽制」とげっそりした表情で言った。

「え? 牽制?」
「ほら、あんた色々あったし……女子比率高いとは言え男子もいたからじゃない? よかったじゃん愛されてんね」
「え、えー……そういうこと……?」

 口の端を引き攣らせる私に、「ずっと新詩の頭越しにこっち見てたよ」と祥夏は苦笑を浮かべた。続いて部員達がうんうんと頷き合う。

「新詩の彼氏、普通に怖いじゃん……」
「あれで同い年は嘘だろ」
「ヤクザかと思ったわ」

 と次々言われ、私は肩身の狭い思いで「うちの岸くんがすいません……」とじわじわ熱くなる顔を俯かせたのだった。
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