痛みの種が孵っても

「――はい、沖花です」
『どうも岸です。……今平気か?』
「うん、丁度お昼食べ終わったところだよ。そっちは?」
『今から飯。指導医とちょっと小競り合いしてたから』
「小競り合うなよ研修医〜」

 携帯を肩と耳で挟みながら、更衣室の扉を開ける。片手にはビタミンなんとかが入っていると書いてある果物のパックジュースを持って。
 人気の少ない方を目指して屋上に続く階段まで進み、タイル張りの踏板に腰を下ろした。

「岸くんから掛けてくるの、珍しいね。なにかあった?」
『別に。月替わりして、そういえば新詩と最後に電話したの先々月か、と思って』
「ふふふ。思い出してくれてありがとうね」

 そう言うと、岸くんは感心したように「普通の女だったらここでキレてるところだなぁ」と言った。私がまるで普通の女じゃないみたいな言い方だ。
 友人関係ならいざ知らず、恋人からの連絡が二か月途絶えたら確かに不安感を拗らせてヒステリーを発揮する人もいそうだけど。そこまでストレスを溜めてしまうくらいなら一旦自分から連絡を入れてみる勇気を持ってみてもよかったんじゃないかな、とも思う。
 相手が連絡不精なのを知っているなら余計に。

 私は私のペースで岸くんにメールや電話をしているので、間隔が二か月空いてもそこまで不安には思っていなかった。
 何よりお互い忙しいし。

「気を遣って連絡し合う方が疲れちゃうでしょう、私達の場合」
『違いないね。どう? そっちの具合は』
「いつも通り。でも今月いっぱいは忙しいかも。社内プレゼンのお鉢が回ってきちゃったから。ほとんど毎日残業、残業、ミーティング」
『ははあ。会社員は大変だな』
「いえいえ、お医者さんほどではないですよ」

 パックジュースの背面についていたストローを抜き、頭に刺す。口をつけようとしたところで、側面に「よく振ってからお飲みください」の文字を見つけ、ほんの少しだけやるせない気持ちになった。こういうものを見逃しがちな人生を送っている。

 岸くんが(比較的)マメに連絡をくれることは、正直意外だった。
 多分私ももう少し連絡を自主的に入れるべきなんだろうけど、悩めば悩むほど私よりも恐らく忙しいだろう岸くんの時間をわざわざ「会いたいな」なんていうちっぽけな願望に費やさせることが申し訳なくなってしまうのだ。
 私達の前に平等にそびえたつ忙しさの現実はあまりに大きすぎる。
 やっと仕事に慣れてきたと答えることが出来るようになった社会人二年目と、感染症内科の研修医。街中を行き交うカップル達の真似事に興じる暇があったら、今は仕事をしていたい。
 結局揃ってそういう結論に行き着いてしまうから、私達の繋がりは途切れずに続いているのかもしれない。

『そんなお忙しい沖花さんにお願いがあるんですけど〜……』
「うむ、聞くだけ聞いて進ぜよう」
『聞くだけじゃなくて迷いなく頷けよそこは』
「あは」

 いつものデートのお誘いだ。何月何日空けておいて、みたいな。
 内心わくわくしながらどこに行くの、と訊ねると、岸くんは珍しくちょっと躊躇うような沈黙を挟んでから「植物園」と答えた。

「植物園? えー、珍しい」
『一度くらいはデートスポットと世間に呼ばれる場所にも行っておこうかと』
「一度と言わず二度でも三度でも。岸くんが嫌じゃなければだけど」
『嫌ではないよ。きみがいるから』

 ……流石に、今のは照れる。
 確信犯なのかそうでないのかわからないけど、彼の口から淡々と飛び出してくる"私を許す言葉"は、頻度こそ高くないもののしっかり私の心拍数を上げてくる。
 他人と自分の境界線をしっかり引き、その距離を詰めることはあまりない人なので、こういうことを言われると普通に照れてしまう。

 火照った顔を片手で扇いで冷ましながら、わかった、何日ね、と日付を復唱した。
 声がちょっと上擦ってしまったことには、気付かれてしまっただろうか。

「……うん。わかったよ。他になにか言うことはある?」

 と訊ねると、岸くんはんー、と唸った後、今すごく顔が見たい、と普段絶対に言わないようなことを口走った。思わず紙パックを握り潰しそうになりながら「え!?」と大きな声が出る。
 慌てて周囲をぐるりと見回して他に人がいないことを確かめ、パックを一度そばに置き、携帯に向かって声を潜め「どうしたの?」と訊ねた。

『なにが?』
「いや、そんなこと普段言わないじゃん……我を失うくらい忙しいの?」
『酷い言い様だな。他意はないよ。でも今きみ、絶対照れて顔真っ赤になってるだろ』

 ――バレてる。形容しがたい潰れた声を上げた私の耳元で、いよいよ岸くんが堪えきれず噴き出した。邪気がない。疲れているのは本当みたいだけど、私を揶揄う元気はあるようだ。
 完全に思考を読まれていたことに対する恨めしさと、それでも顔が見たいと言ってくれたよろこびで私も結局笑うことを我慢出来なかった。

 しばらく肩を揺すってくすくす笑っていたら、祖母の作ってくれた総菜の残りを詰め込んだお弁当では埋まらなかった部分が心地よく満たされていくような気がした。
 胸のあたりがぽかぽかしてくるのを感じながら、そうそうこれこれ、と微笑む。
 願わくば、慶楼大学の病院のどこかでお昼を食べようとしている岸くんも、こうして身体のどこかをぽかぽかさせていてくれたらいい。

「……もう、恥ずかしくて堪えられないから、切りたい」

 嘘だ。切りたいのは半分本当。もう半分の私はまだ彼の声を聞いていたいと訴えている。
 でもそろそろ昼休憩が終わる。だからもう、切らなくちゃ。

 へいへい、と適当に返事する声を聞きながら、脳内で次会うときは何を着ていこうかな、とまだひと月も先の予定の段取りをはじめる。電話するまではそうでもなかったけど、声を聞いてしまったら、やっぱりはやく会いたいもんだな。

「じゃあ、切るけど、あのですね」
『ん?』
「私も、はやく、岸くんに会いたい、よ」
『――おい、』

 ぷち、と切った。やってやった。
 これは嘘じゃない。たった今思ったことを、そのまま素直にお届けしただけだ。何も悪いことをしていない。私だってやられてばっかりじゃないんだぜ、と画面に表示された岸くんの名前と通話時間の履歴に溜め息を吐いた。

 ――と、廊下の奥から「沖花さーん」と上司の呼び声が響いてきた。
 慌てて携帯をスカートのポケットに突っ込み、そばに置いていたパックを回収しながら、はーいと返事をして立ち上がった。


* * *


 社内発表とは言え、部署を背負ってのプレゼンということもあって、上司の指導にもかなりの熱がこもっていて、定時を二時間オーバーして電車に乗る頃にはくたくたになっていた。
 面倒見がいい上司に恵まれたおかげで、発表一週間前までにはなんとか資料まで用意出来そうだけど、他の部署のプレゼンには勝てるかどうかわからない。
 もっと頑張ってプレゼンを終えて、すっきりしてから岸くんに会いたいな。

 電車を降り、歩き慣れた道のりを辿り家に着く。
 鍵を開けて「ただいまー」と声を掛けたけれど、反応はなかった。最近、私のお古のヘッドホンを発掘した祖母が「これいいわねぇ」と言って私の音楽プレイヤーを漁っていたから、聞こえていないのかもしれない。
 キッチンからお味噌汁の匂いはしてきているから、晩御飯は作ってくれているようだ。しばらく遅いだろうから先に食べていていいよ、と言っているけど、この時間ならまだ待っていてくれているだろう。

 お腹を空かせながらヘッドホン装備で待っている祖母のために、急いで洗面所で手洗い嗽をして、リビングに駆け込んだ。

「ごめんおばあちゃん、……あれ」

 リビングのソファで音楽を聴きながら本でも読んでいるんだと思っていたのに、ソファは無人のままだった。テレビも消えている。でも電気は点いている。玄関に靴もあったし、出かけている訳ではないだろう。

 だとすれば一階の奥にある祖母の部屋か。
 おばあちゃーん、と呼びかけながらギシギシ軋む廊下を進む。
 何にも根拠はない。ないけれど、なんだか嫌な胸騒ぎがする。廊下の床の冷たさが足元からじんと染み込んでくる、とても嫌な感じだ。
 理由のない不安に昼間感じていた幸福の温もりが掻き消されるのが怖くて早足になる。

 最後はもう走るような勢いで、「おばあちゃん」と悲鳴のように叫んで引き戸を開けた。


 この時――静まり返った夕暮れの家の中を走っているのは私だけで、この家も、においも、空間も、何一つ変わってなどいないのに、その時は何故だか自分以外の全てのものに置いて行かれてしまったような気がした。
 どんなに胸元を掻き毟っても、もう、ぽかぽかしない。

 目の前に映るものが現実で、この瞬間に全ては停止し、動いて生きているのは私だけ。
 そんなことを唐突に思い知らされて、すぐに受け入れられる人が果たしているだろうか。


 ずるずるとその場に座り込む。動かなければ、と藻掻いたけれど、腰が抜けてしまったように立ち上がることが出来なかった。
 仕方がないので、畳張りの床を這って、床に投げ出されている祖母の白い手に触れた。
 それで、それで私は、……もう、そんなに急ぐ必要がないことを理解してしまう。
 祖父が生きていた頃から愛用している文机の上に私のお古のヘッドホンとウォークマンを並べ、膝下にはいつもの桃色のブランケット。――これが突然死というやつなのか。
 呆然と、畳を引っ掻いて項垂れる。

 指先で触れた祖母の手にはもう、温度というものがなかった。
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