海のほかに溺れるもの

「あ、岸先生! 今スマホ鳴ってましたよ! ワンコールで切れちゃいましたけど……」

 病理部の扉を開けた岸先生は、そう言いながらスマートフォンを指差す私を見て険しい表情を浮かべた。
 デスクに取り残された携帯に目をやり、それから室内にいる人間を順々に見回していく。私・宮崎、森井さん、それから中熊先生。じっくり全員の顔ぶれを見てから、何故か肩を落とした。ように見えた。

 ちなみに岸先生は三十秒ほど前に所用があると言って退室したばかりだった。
 遠ざかっていった足音が急に戻って来たので何事かと扉の方に顔を向けたら、丁度先生のスマホが着信を示すバイブレーションと音を鳴らし――ワンコールで切れた。
 まるで音を鳴らすこと自体が目的で、岸先生が電話に出ることは考えていないかのような、間違い電話とも思えない綺麗な所謂"ワン切り"である。
 岸先生に掛かってくる電話は岸先生が出るまで粘り続ける発信者がほとんどなので、逆に奇妙なくらい潔い切れ方が私達の関心を惹いたのだった。

 扉を押し開いたまま微動だにしなかった岸先生は、やがて溜め息を吐きながらぼそっと「不覚だ……」と呟いて動き出した。

「スマホを携帯しないだなんて、今どきの文明人らしからぬことをしてしまった」
「で? 誰からよ。ワン切りっつったら詐欺電話か?」

 中熊先生が身を乗り出してそう言うと、岸先生は中熊先生が画面を覗き込むより先にサッと大きな手でスマホを回収してしまった。
 岸先生は何も答えないままの姿勢を貫くつもりらしい。訪れる沈黙。

 スマートフォンには個人情報が詰まりに詰まっている。そりゃあ覗かれたくない人がいるのも当然だ。家族間でも、友人でも上司部下でも、そう思う人が大多数を占めるかもしれない。
 けれど岸先生の生態を常人よりはそこそこ理解している私達の目には、岸先生の一連の行動と仕草はスマートフォンを見られたくない』という頑なささえ感じるほどの明らかな意思表示として映った。

 それをみすみす見逃す中熊先生じゃない。
 反社組織の親玉もかくや――という笑みを顔いっぱいに広げ、岸先生が今しがた回収したスマホを狙ってゆらりと立ち上がる。

「岸ィ、ちょいとそれ見せてみな。俺ちゃんとお前の仲だろ」
「いやだな、プライバシーってもんがありますよ。病理医以前に人としてそれくらい弁えてからウチの敷居を跨いでください」
「おーう言葉数がいつもより少な目なところを見るに本気で覗かれたくねェってこったな? 俄然やる気出ちゃったもんね〜〜〜何隠してんだオラ見せろ」
「最悪じゃん……」

 残像を残す勢いで繰り広げられる戦い(ただし岸先生は回避に徹している)を遠巻きにしながら、森井さんと岸先生が隠しているものは一体何なのかの議論に入った。
 仕様上、恐らく画面を開いて最初に表示されるのはロック画面。白字の日付と現在時刻、そして諸々の通知。
 だとすれば、やっぱり岸先生が見られたくないのは着信通知なんだろうか?

「可能性はなくはないけど……でも理由がわかりませんね、通話内容とかならまだしも、着信の履歴だけでしょう?」
「履歴って掛けてきた番号か番号の登録名が出ますよね。それを見られたくないとか」
「う〜〜〜ん……?」

 悩んでいるうちに、伝説の病理医達には決着がついてしまったようだった。
 リーチと機動力が圧倒的な中熊先生が岸先生のスマホを両手で包んでこちらに駆け戻ってくる。勢いが凄すぎて髪と白衣が靡いた。
 「御開帳〜」とご機嫌な中熊先生に続き、示し合わせた訳でもないけど森井さんと一緒に先生のスマホの画面を覗き込んだ。
 先生ごめんなさい。でもロック画面で見られるのはせいぜい着信通知と着信相手の名前くらいだと思います。GPSを経てしまっているので、宮崎は最早この程度のプライバシーの侵害行為には何も感じなくなってしまっています……。

「どれどれ――」

 画面を点灯させれば無機質な……恐らく初期設定のままであろう背景画面。画面上部には日付と現在時刻が表示されている。十九時三十七分。お腹が空いたなぁ。

 中央には予想通り着信を知らせるポップアップ通知。
 着信は二分前。発信元は――沖花。

「沖花……」

 一緒になって画面を覗き込んでいる中熊先生の顔をちらりと見上げる。
 気のせいでなければ、一瞬、驚いたような表情を浮かべていたように見えた。


「もういいでしょ。返して」


 背中を丸めてスマホを覗き込む私達の頭上から岸先生の手が伸びる。
 細く長い指が上部の角を摘み、中熊先生の手を振り払うようにスマホを引き抜いた。そのままスーツのポケットに滑り込ませると、右手をポケットの入口に添えてもう誰にも明け渡さない構えだ。

 中熊先生はと言うと、いつの間にか意地の悪いニヤニヤ顔が親戚の子供におめでたいことでもあったみたいな表情に変わり、じりじり後退する岸先生を追いかけて飛び跳ねていった。
 丸く太い指でツンツン岸先生の脇腹や背中を突きながら、「岸ィ〜〜!」と名状しがたいテンションの高い声を発している。岸先生はすこぶる嫌そうな顔だ。これ以上ないくらい顔を顰めている。

「てめえ、沖花って知ってるぞ、あの子だろ。付き合ってたんか? エ?」
「アンタにゃ関係ないでしょ」
「なんだよ冷てぇこと言うなよぉ〜〜〜」

 中熊先生の声の高さが限界値に達しかけた頃、岸先生がついに痺れを切らしたのか自分のデスクのそばにある鞄を引っ掴み、背を向けていたドアノブに一直線で動き出した。長い脚を活かしてわずか数歩で辿り着くと、躊躇いなくノブを回してしまう。

「えっ、あっ、岸先生帰るんですか!?」
「もともと一本外で吸ったら今日は帰る予定だった。面倒臭くなったからもうこのまま帰る」
「お、お疲れさまでした!」
「お疲れ様でしたー」

 私と森井さんの挨拶は果たして熊をひっつけたまま足早に去って行った岸先生に届いたかどうか。
 やたらハイテンションな中熊先生の賑やかな声が遠ざかっていくのを聞きながら、どちらともなく森井さんと肩を寄せ合った。
 そろりと視線を隣に流すと、森井さんも同じようにこちらを"信じられない"といった眼差しでこちらを見る。

 そうですね、聞き捨てならない言葉が飛び出しましたね。

「……幻聴でなければ、"付き合った"とか聞こえた気がするんですが……」
「大丈夫、俺も聞きました。俄かには信じがたいけど」
「でででですよね!? 岸先生、やっぱり本当はお付き合いされている方が……!!」
「あの人と付き合っていけるなんてさぞかし大物なんでしょうね」

 数分後――大変興奮した様子の中熊先生が「ご祝儀包まにゃ……」とブツブツ言いながら戻って来たことで、私達は事態が想定よりワンステップもツーステップも先に進んだ状態であることを悟ってしまうのだった。


* * *


 テレビ番組がちょうどバラエティからニュースに切り替わった頃、玄関で開錠する音が聞こえてきた。数秒もしないうちに重い扉が開き、革靴を脱ぐ音が無人の廊下に響く。
 ソファに座ったままでそちらに顔を向けると、やけにくたびれた顔をした旦那様が暗い廊下をのそのそ歩いてくるところだった。電気くらい点ければいいのに。

 妖怪不機嫌顔男はこちらには直進せず、一旦途中の洗面所に消えた。
 その間に私は昼間あった事故や事件を淡々と読み上げているニュース番組を切り上げてテレビの電源を切り、握ったままだったリモコンを手放す代わりに放置していたカフェオレをひと啜りする。
 まるで夢のなかで食事をしているみたいに、現実感のない感触だった。ぬるま湯のような温度だった。

 コーヒーのほろ苦さと混ぜた牛乳のまろやかさを舌でなぞっていると、しばらくして妖怪不機嫌顔男がリビングにやってきた。
 ダイニングテーブルに鞄をちょっと投げやりに置くと、十センチ程度の隙間を空けてわたしの隣に腰を下ろす。反動で私のお尻が少し浮いた。
 長い脚を組みソファの背もたれに頭を預け、「あー……」と溜め息なんだか呻き声なんだかわからない声を上げる。相当お疲れのようだった。天井を仰いだまま動かなくなった彼の方に身体を向け、「忙しかったの?」と訊ねる。

「忙しいのはいつものこと。帰り際、熊に付き纏われて撒くのに手間取った。おかげで言わなくてもいいことを吐く羽目になった」
「ああ、えーと……中熊先生だっけ。慶楼大学の先生」
「そう」

 彼はあまり職場の交友関係を私に話さないので、『熊』と呼ばれる敵性生物が中熊先生という教授さんであること以外のことを私は知らない。
 あまり適当なことを言っても毒舌のうえお喋りな彼にぐさぐさ刺されると思ったので、素直にお疲れ様でしたと膝を叩いた。「きみもね」とぐったりしながらネクタイを緩めたので、とりあえず適切な発言を選ぶことが出来たようだ。

「それ飲んだら寝るの?」

 四白眼がおもむろに私の手元に向く。

「そのつもりだけど。なんか用事ある?」
「いや、ないよ」

 「ないよ」と言いながら、隣から降り注ぐ視線はなんだか意味ありげだ。
 口をへの字にして、背もたれに腕を回して寄りかかって、目だけをじっとこちらに向けている。言いたいことがあるなら言えばいいのに。日中はあんなによく回る舌をお持ちのくせに、どうして夜帰ってくると鈍化するんだろう?

 両手で持っていたマグを傾け、「すぐには寝ないよ。まだこんなに残ってますからね」と補足してみる。
 彼は中身を覗き込むと、「淹れて随分経ってるくせに全然減ってないじゃん」と顎をしゃくった。

「手持ち無沙汰で淹れただけじゃないの。もうすっかり冷めてるのに中身が全然減ってない」
「そうなんだよね。いつの間にか冷めててさ」
「目開けたまま寝てんじゃないの」
「あーあー、そんなこと言っていいのかなー」
「なんで」

 ムッと口角をこれでもかと下げた彼の方に身を乗り出す。顔を近付けると、失礼なことに近付いた分だけ彼が仰け反った。本当に失礼だな。

「寝ようと思ってたのに帰りますコール入ったから、寝る前にちょっと京一郎くんのお顔が見たいなーと思って、手持無沙汰にカフェオレ淹れて待ってた健気な妻にそんなこと言っていいのかな〜」
「……自分で健気とか言うタイプだっけ、きみ」
「たった今なったの」
「あらそう」

 こっちは本音を白状するのにちょっと躊躇いと恥ずかしさがあったのに、この男ときたらそれを一瞥するだけで受け流しやがる。思えば彼が照れるところは見たことがないから今更の話ではあったけれど。
 私が項垂れて口を閉ざすと、彼は――京一郎くんは長い腕で大きなテディベアにでも抱き着くように私を抱きすくめた。何も考えちゃいない頭空っぽの抱擁に、私の腕や肩は適当に曲げられたり圧迫されたりするので、普通に苦しくて「ぐえー」と声が出た。

 濃い煙草のにおいが肺を充たす。なんだか今なら眠れるような気がしてきた。
 深く息を吸うと、頭上で京一郎くんが「吸うな吸うな」と言った。

「じゃ、健気な妻に健気な旦那から一言」
「ん? 健気?」
「疑うなよそこは」

 京一郎くんが私の頭に顔を埋めた。自分は吸うなとか言うくせに、音を殺してまで深呼吸してる。
 そうして束の間互いの呼吸を数えていると、やがて満足したのか京一郎くんが顔を上げ、私を抱き締めたまま言った。

「ただいま。新詩」
「……おかえり。京一郎くん」



 私達夫婦の寝室は別で扉には鍵がついている。──それぞれの鍵はスペアをお互いが持っている、という鍵の意味が薄れる使い方をしているけれど。
 これは互いのプライベートを守る、みたいな意思の表れで、家を選ぶ時にふたりで決めたことだ。
 互いがすべてを開示しなければ納得出来ない、みたいな熱い恋や愛とは生憎無縁の私達なので、それによって不都合が起こったことは今のところない。

 鍵を掛けることで意思表示が出来る。
 相手が閉ざした鍵を開ける権利を持っている。
 それが私達にとっての"一緒に生きる"ということだった。


 私の寝室の扉が開く。
 あまり鍵を掛けないので、いつも気まぐれに侵入してくる京一郎くんは「鍵の意味とは……」と元も子もないことを口にする。自分だって鍵はあまり使わないくせにね。

 窓から差し込む月明りだけを頼りに薄目を開くと、扉を開けたまま黙って立っている京一郎くんの影が浮かび上がった。
 とろとろした声で「こっちで寝るの?」と訊ねた。彼は一拍置いて「もう寝てるようなら戻ろうと思ってたよ」と小さく答えた。
 ということは、こっちで寝るつもりなんだろう。

「いーよ、まだ寝てないよ。おいで、私のベッドに」
「おお、きみのベッドに」

 同じ家に住むようになってから、京一郎くんは時たま私のベッドで私と寝る。私が先に入っていてもいなくても、セミダブルのベッドで足首から先をはみ出させて、まるで大きな猫のように。
 反面、私はあまり彼のベッドには侵入しない。小さい頃から一人で寝ることに慣れきって、自分から誰かと寝ようという発想にはならないんだと思う。
 決して京一郎くんと眠ることが嫌なわけではないけれど、逆にそういうことを嫌がりそうな京一郎くんがわざわざ二人で眠るには少し手狭なセミダブルを求めてやってくることが何年経っても奇妙でおかしかった。

 いつものように少し端に寄って掛け布団を持ち上げると、百八十三センチの長身がいそいそと乗り込んでくる。コイルマットを軋ませていい感じのポジションに収まると、わざわざ端に寄った私を真ん中に引き戻して身体を脱力させた。
 ベッドサイドにある置き型の目覚まし時計はちょうど日付変更を知らせていた。

「……帰る前、きみからの帰宅コールを聞かれちゃったんだよねえ」
「あらそう。でも言わなきゃ意味なんてわからないでしょ。帰りの合図をワン切り電話で済ませてる夫婦って多分世界で私達だけだろうし、あなたのスマホ、私の番号登録名が旧姓のままだから」
「熊が君の旧姓で勘付いたんだよ。まさか覚えてるとは思わなかった。下手に下の名前で入れると目立つだろうから苗字にしていたけど、僕が甘かった。絶対明日から喧しいぞ」
「ふふ。"岸先生結婚してたんですか!?"って?」

 私達を一見して夫婦だと見抜ける人はそういないだろう。
 指輪はしていないし、帰宅時間もほぼ合わないから食事を一緒に摂ることもあまりないし、外で仲睦まじく買い物をすることもそうない。
 ついでに結婚式もあげていないし、周りへの報告も互いの匙加減なので、もしかしたら彼は周囲の誰にも結婚していることを告げていないかもしれない。
 私は上司と仲のいい同僚には報告したけど、彼のことを話す機会はないから忘れられているかも。

「でも、メッセージで帰宅報告しても通知は行くでしょ。文章を読まれる方が嫌じゃない?」
「危険度は高いよな」
「じゃあ、帰りますコール、やめる?」
「いや、それは続ける。きみの安寧のために」

 誰に宛てるでもない、彼の呟きはまるで宣誓のようだった。
 私は何も言えなくなって両手を伸ばし、京一郎くんの頭をしっかり抱いた。洗いたてのふわふわの髪に顎を埋め、「そうね、私の安寧のために」と繰り返す。

「僕が本当に五体満足で帰ってくるか、不安で日々不眠気味の健気な妻のためにね」
「……やさしい旦那だこと」

 胸元にふす、と吐息が当たった。京一郎くんがちょっと笑っている。珍しいな、と思った。
 京一郎くんが一体どの辺に笑っているのかはわからないけど、最底辺まで沈下していたご機嫌が少しは浮上したようで何よりだ。
 私が自分以外の生活音がないと上手く眠れないこと――要するに孤独に弱いことを彼は熟知している。そのあたりをしっかり押さえたうえで頭のいい彼に丸め込まれ、数年前に籍だけを入れた。

 挨拶と報告は籍を入れる前に京一郎くんのご両親へ。
 私は片親で、しかも私を女手一つで育て上げた母は私が十六の時に事故で他界しているうえ、引き取ってくれた祖母すらも私が二十代半ばの頃に死んでしまった。
 母と祖母には、籍を入れた後に京一郎くんと墓前にて事後報告を(京一郎くんは籍を入れる前にと言っていたけど、私にお墓を目の当たりにして正気でいられる自信がまだなかったので事後になった)。

 彼が私のどこを気に入ってここまでしてくれているのかは知らない。
 だけどとにかく彼は私をひとりにすまい私を死なせるまいと色々な手を打った。私の苗字を変え、マンションの一室を買い、寝室にそれぞれ鍵をつけ、今日も自分の部屋のベッドを放って私の部屋で眠るのだった。

 あの頃から、自分以外の人間の存在を感じられない空間ではひどく寝苦しくて仕方ない。そういうのをわかって私のベッドに潜り込んでくるのか、それとも単にそういう気分なだけなのか、わからないけど私は彼の小さな行動の逐一にいちいち救われている。
 このベッドは京一郎くんが来ると少し狭いから、少しまとまった時間がとれたらワンサイズ上のものを買いたいな。

「……ね、やさしいついでに、ベッドの買い替えのご相談があるんですけど」
「……いーよ、なに買っても……」

 布団を被ってから寝入るまでがとんでもなく早い。返答の語尾が眠気に負けて掠れているので小さく笑みが零れる。

「そう? じゃあ、そのうち家具屋さん付き合ってね」

 ふわふわの頭が緩慢に動く。たぶん頷いたんだろう。
 唐突に全身のスイッチが切れてしまったかのように、京一郎くんは急速に眠りに落ちていった。それを呼び止める気にもなれなかったので、彼の頭を胸に抱いたまま、腕が痺れるだろうなぁ、とか考えながら私も身体から力を抜いた。
 お互い疲れていたんだなぁ。
 瞼を閉じ、足元から染み込んでくる眠りの波に身を委ねた。
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