まだ夏本番でもないのに窓を閉めていると肌がべたついてくる。かと言って窓を全開にすると困る場所もあるので、今日の隊士達は自然と窓の開いている場所や廊下へ流れ、詰所や執務室は人気がまばらだ。
詰所なんだから詰めてなきゃ、という冗談も今日は口にすまい。だって暑い。
許されるなら私も風通しがいい廊下で仕事したい。
「はー……暑い……手空いたら午後冷たいもの買いに行こう……」
ぶつぶつ呟きながら死覇装の袖を捲る。
入隊後から席官複数人で様子を見た結果、優秀な新人――主立っては檜佐木くんと皆戸くんに席官の仕事を徐々に指導していくことで概ね意見が一致した。
先日東仙隊長からの許可も下りたので、さっそく毎月行っている(比較的)簡単な事務作業から教えていこう、という話になっている。
ちなみに私は檜佐木くんを主に担当することになった。
私はべつに誰でも……というか適正を見ながら最終的には全員に今私が抱えているすべての業務を大雑把に教えたいと思っているので、誰がいいとかいう希望は特別無かったのだけど、隊長と阿佐部くんが「檜佐木が心に問題を抱えていることに一番早く気付いたから」という理由で檜佐木くんを推して来たせいだ。
本当に誰から始めてもよかったので、特に異議を唱えることもなく受け入れた。
捩じれた言い種
縦桟を軽く叩く音が鳴った。
俯かせていた顔を上げると、少し開けていた戸の隙間から控えめに室内を覗き込む檜佐木くんが見え、背の高さと顔の雰囲気にそぐわない幼げな仕草に笑みが零れた。
眉を下げ笑い「どうぞ」と声をかける。
おずおずと戸を引くのを眺めながら、やはり彼は見た目に反して物静かで遠慮がちな青年なんだろうという認識を強めた。
「ごめんなさい、呼び出すような形になってしまって。迷いませんでしたか?」
「いえ、お気になさらず。迷っても……ないので」
ちょっと迷ったのかな。語尾が頼りない。
私が今いる資料室は隊舎の奥まったところにある部屋なので、入ったばかりの新入りには少し分かりにくかっただろう。一応部屋の外には『資料室』と掛札があるのだけど、まあ、最初の頃は目に入らないよなぁ。
壁際に寄せていた椅子を隣に置き、握っていた筆を一度置いてそちらに身体を向けた。
促され腰を下ろした檜佐木くんと向かい合い、「もしかしたらもう隊長か他の席官から話があったかもしれないけれど」と前置きをする。
「今年度入隊の隊士のなかから、檜佐木くんとほか何名かに、将来席官入りを見込んで現席官隊士による指導を行うことを決めました」
「……はい」
「つまり檜佐木くん達には、今日から少しずつ私の仕事を知ってもらおうと思っています」
今のところ従順に頷く顔をじっと観察するけれど、今のところ浮かぶ緊張の由来が何処の何なのか、はっきり断ずることは出来そうにない。
私が相手だからとか、普通に席官候補と言われて緊張しているとか、そういう感じならいいんだけど。
「もちろん、檜佐木くんにはこれを拒否する権利があります。……拒否と言っても、昇進"見込み"の拒絶なんていうよくわからない話は無いから、ひとまず『現段階ではまだ自分はその域に達していない』みたいな先送りの形にはなるけれど」
「……」
「あとは教育担当。入隊時に説明した通り、今現在九番隊の席次は穴あきなのでまったくの希望通りとはいかないと思うけど、一応希望があれば聞きます。私が嫌、とか誰さんがいい、とかね」
正面の三白眼を反応を窺う。
思いのほか速く「いえ、それはありません」と言われて心の中で少し驚いた。気を遣われているのかもしれない。
「――はじめて修練場で白打を見てもらった時に」
「ええ」
「水月三席は、俺に強くなりたいか、戦う意志はあるかと聞きましたよね」
「はい」
私がその問いをしたことも、檜佐木くんが何と言ったかも克明に記録している。
檜佐木くんはそこで一度言葉を切り、目を伏せ何かを思い出すような素振りを見せた。
きっと、彼の心の底でまだ生々しい傷跡として残る、私には知り得ないいつかの記憶を。
「あの時、答えられなくて……すいません」
いいよ、とも気にしないで、とも言わない。
口を挟まないことが今私が彼に見せられる誠意だと思った。
「俺、強くなりたいです。――二度とこんな思いしなくて済むように、戦いの最中に後悔しない為に」
「……」
「この隊で貴方は東仙隊長の次に強い死神です。なら俺は、貴方に教わりたい」
以前私は、彼の様子に言い表せない深いところからくる不安を感じていたけれど、いま両の拳で袴を握り締め、こちらを見つめる眼差しから感じ取る感情はうって変わって揺らがぬ静かな決意だった。彼の面持ちは悲愴だった。
暗い川辺で沈む太陽を臨むようなざらついた心地。
燃えるように朱い光が為す術なく忽ち闇のように黒い水面に呑まれ消えていくのを分かっていながら、頬や額を強い光に晒して立ち尽くすような、そんな重苦しい切なさ。
まだ彼のなかでその傷口は湿っている。
何度も何度も己の指で抉っているんだろう。瘡蓋が塞ごうとするたび、掻き毟って痛みを鮮明に思い出しているんだろう。
自ら地獄を心に刻んでいる。
忘れまいとしている。
それはなんて――。
「……そう言われると、ちょっとこっちが不安になっちゃいます」
苦笑すると、檜佐木くんはうなだれたまま微かに肩を震わせた。まだ鍛える余地のある薄い肩。
彼はこれから強くなる。魂を鍛え、強さで心を鎧う。
私はその手伝いをする。
「……すいません……」
「ううん、いいよ。……そっか。ずっと考えてくれていたんですね、あの時の質問の答えを」
俯く檜佐木くんの肩にそっと手を置き、「恐怖を扱う方法はいくつかあります」と呟く。
「ただ、君が今のままでいたくないと思うなら、そうすることで少しでも息がしやすくなるなら――私は出来る限りのことを君に教えましょう」
「……」
「大丈夫。君は戦士になれる」
声も無く、黒いツンツン頭が縦に振られた。
別に心内のすべてを明かす必要は無い。でも、君の口から君の意志で、その言葉が聞けてよかったと思う。
「頑張りましょうね」と囁くと、僅かに顔を上げた檜佐木くんの、困ったような下手くそな笑みが見えて、私も口端に取って付けた笑みを深くした。
「それで……俺は何をすれば?」
問われたことに答えようと口を開いた途端、正午を知らせる鐘が鳴り響いた。
「そうね、とりあえずお昼を食べましょう」
私はそう言い、檜佐木くんは頷いて立ち上がる。
紙が多いので窓や戸を満足に開けることが出来ずいつも薄暗い資料室を出ると、差し込む日差しが全身を焼いた。
外に出るなり目を細めた檜佐木くんに「眩しいねえ」と振り返りながら、戸のそばにある掛札を指差して言った。
「この資料室は、名前の通り九番隊で保管が義務付けられている資料の大体が収められています。本当は詰所か執務室で仕事をしながら、必要な時に資料室から資料を拝借していくのが正しいやり方なんだけど、どちらもちょっと歩かないといけないでしょう。なので隊長に許可をもらって、記録書や報告書の束に埋もれていた机と椅子を発掘して、簡単な仕事場にしてるんです」
私は特に月末月初は此処に籠もっていることが多い。用事があったらまず此処に来てみてね、と言うと、檜佐木くんは素直に頷いた。
資料室を後にし、外廊下を二人で歩きながら、通り道にある部屋を適当に紹介していく。ここら辺の奥まった場所にある部屋は普段使うことは無いだろうけど。
「あ、あと午後一番でついてきてほしい場所があって」
「はい!」
「初瀬って言う甘味屋さんなんですけど」
「……はい?」
キリっと元気よくお返事してくれたところ申し訳無いけど、午後の計画はすでに私のなかで決まっている。
檜佐木くんは隠すことなく困惑の表情を浮かべ半歩先を歩く私を窺った。
「こうも暑いとやる気出ないでしょう。水羊羹好きですか?」
「え、は、……はい」
「よく行くお店なんです。他所の隊に差し入れする時も、甘味は大体初瀬で。せっかくだから檜佐木くんを紹介しに行こうと思って。冷たいものを買ってきて、食べて……真面目な話は涼んでからにしましょう」
言いながら、小さく手を叩いて振り返った。
私より高いところにある顔が、きょとんと目を丸くし口が小さく開いているところが一層幼く見えて、何だか変な心地だった。