本当に空気が読めていないのかはたまた読む気が無いのか、返事が返ってこないことに首を傾げている。
「あっ、そうか。人数が奇数になるから一人あぶれちゃいますね。どうしようかな……」
絶対そういうことじゃない。
全員が心中で首を振ったはずだ。
この人にツッコミを入れられる阿佐部八席は御門を担いで道場を出て行ってしまったので、多分一人残らず祈るような気持ちで八席の帰還を願っていたと思う。
飲み干せば泣いてしまうような毒
結局数秒やそこらで阿佐部八席が戻ることはなく、新人が全員恐る恐る組む相手を近場から探し出す。
俺はと言うと、一番近くにいた阿佐部八席が退室した今では周囲に同期の姿は一人もなく、気が付いた時には――
「ああ、檜佐木くんが余りましたか。じゃあ私と組みましょうね」
「ア……ハイ……」
――こうなっていた。
こういう時、自分の人相が嫌になる。元々目つきが悪いし、顔の右側を縦断する傷跡で益々避けられるようになった。
この場で一番怖いひとに歯向かえとは言わないからせめて助ける素振りくらいは見せてくれ。今は俺より水月三席のが怖いだろ。俺もお前ら側だよ。
……だからと言って、この人と他の奴と組んで、そいつが俺の代わりにこんな思いをするんだと想像したら、やっぱり俺でよかったのかなとも思うけど。
心の中で歯を食いしばりながら「お願いします」と頭を下げると、三席は笑んだまま「はい、お願いします」と頭を下げ返してきた。
「総合成績では、御門くんより檜佐木くんの方が上でしたよね。私、相手になるかしら」
「……いや、相手になるなんてもんじゃ……」
それ御門の時も似たようなこと言ってたけど、むしろ俺が殺されないように必死になるしかないのでは?
ぎゅっと眉を寄せると、水月三席はへらりと顔を緩めた。張り付いた能面じみた微笑みじゃなく、血の通った……さっきの照れ笑いみたいな表情。
なんだか機械と人間の境界を頻繁に行き来しているみたいな人だな。
始まった組手は想像していたよりずっと普通だった。
霊術院でやっていたものと大差なく、これだけなら本当に新人の実力を見るだけの形式的なものだったんだな、と素直に納得出来るくらいには平凡だった。
俺の実力に合わせて動いているだけなんだろうが、御門を容赦なく叩きのめしたとは思えないほど、三席の身体の使い方もゆったりしている。
正直に言って、余裕がある。身体を動かしながらぼんやり考え事を出来るくらいには。
それを見抜かれたのか。
――ふいに、水月三席の身体がゆらりと揺れる。型に則った規則的な動きが突如乱れる。
この動作には覚えがある。
つい先刻、御門に対する決定打となった懐への一撃。
爪先から血液が凍り付いていくような感覚。視界がさっと色彩を失くす。
俺もやられる。あいつのように。
訳も分からず床を這い蹲って、
それで、
「大丈夫、やりませんよ」
小さな掌がぺたり、と俺の胸元を弱く叩く。――何も起こらない。
困ったように眉を下げ、懐に潜り込んできた水月三席は鼻先がぶつかりそうな距離まで接近するだけで身体を止めた。
深い色の瞳に見据えられながら、俺は諸々の感情を処理しきれず喉を鳴らす。自然と息を呑んでいた。
訳の分からない恐怖と激しい警戒の最中、漂ってくる花のような香りに意識が緩みそうになる。その手綱を俺は必死に掴みながら、同時に眼前に迫る彼女の顔を観察した。
滑らかな白い肌に、鮮やかな瞳と唇の色が目を惹く。至近距離にいるせいで、垂らされた長い前髪に隠れた右目が透けて見えた。
心なしか、こちらを真っ直ぐ見る左目と隠れた右目の瞳の色が微妙に違うような……。
「私の顔になにかついていますか?」
「……あっ……いえ、……いや、何も……」
慌てて顔を逸らす。挙動不審だっただろうか。
水月三席は顔を伏せるとくすりと微笑み、俺の胸元をぺちぺちと叩いて身体を離した。助かった。
「ここのあたり、鎖結があるでしょう。ここから内部霊圧に割り込みをかけて、一時的に全身を麻痺させるんです。魄睡でも出来るけど、そちらでやると効きが強すぎて昏倒させてしまうから、さっきの御門くんのは鎖結でやりました」
「そ……そんなこと、出来るんですか」
「出来ますよ。元々、斬魄刀の能力を応用して出来るいや〜な技だったんですけど、練習したら直接接触する厳しい条件付きではありますが素手でもなんとか。まあ、使いどころってあまりないんですけどね」
そう言って、水月三席は普通に講評を始めた。此処に隙が出来やすいとか、此処がよかったとか、そういうことを真面目に。
これ以上ないほど緊張した状態から一転、静かに羅列される評価の数々に拍子抜けしてしまう。
呆然としながら全てに頷いた俺を無機質な眼で見上げ、三席は「以上です」と締めた。
「あ、ありがとうございました……」
「はい、こちらこそ」
頭を下げ、上げる。
水月三席の瞳は相変わらず俺を見据えていた。それが用件の済んだ人間の眼差しには思えず、まだ何か言いたいことがあるのかと様子を窺う。
きっちり数えて五秒。
三席の唇が動いた。
「……御門くんに腹が立ちましたか」
「はっ、え?」
想定外の質問だった。どもる俺の方に顔を向けたまま、静かな面持ちで水月三席は続ける。
「遅かれ早かれ、彼の『悪癖』は東仙隊長にも知られていたでしょう。ただ、ああいう手合いは真っ向から責められた時に誤魔化すのがひどく上手い。隊長は己の正義に誠実なひとですから、きっと相性が悪いんです」
「……え、えーと……」
「檜佐木くん、ずっと御門くんを見ていたから。何だか睨んでいるように見えて。違いましたか?」
「い、いや」御門との組手中に彼女がこちらを見る素振りなど無かったはずなのに。「違い、ません」知らぬ間に観察されていたのはこちらの方なのだと思い知らされる。
この人はきっと、井の中の蛙が知るべき大海だったのだ。
果てなく広い海を、どうして俺なんかが見知った気になっていたんだろう。これではこの人を心の底で見下していた御門と変わらないじゃないか。
「檜佐木くん」
はい、と応える自分の声が軽く聞こえる。緊張丸出しの乾いた声。
この人はもう迷いなく俺の名を呼ぶ。
他の隊士は皆、まだ新人の区別がついていないって言うのに、この人だけは、一人ひとり確信を持って呼び分ける。
水月乙子が檜佐木修兵に呼びかけているんだと強く意識させられる。
「強くなりたいですか」
「―――」
「私のようにとは言いません。隊長のようにとも言いません。君が、君のまま、君の目指す強さを追い求める気はありますか」
「――俺のまま」
「君が君でなければ意味がありません」
「檜佐木くん。戦う意志はありますか」
即答、出来なかった。
とうに塞がり痕を残すだけの傷跡が鮮明に疼くような錯覚に襲われる。顔を掻き毟りたくなる。
そうだ。強くならなければいけない。そうする必要がある。二度と繰り返さない為に。
戦う為に此処にいる。戦わなければ、戦う為に、
戦って、
戦う、
戦え、
「おれは、」
「檜佐木くん、息をしてください」
ぺちり、と。
胸元ではなく頬を叩かれた。
知らずのうちに青白く明滅しかけていた視界の中央に、濃い色の隻眼がある。俺を見上げている。
頬に感じる温い体温。ああ、汗一つかいていないけどこの白皙の下にも血は通っているのか、とぼんやり思った。
「あの、水月三席……」
「無理に答えなくても結構ですよ。急いて出す回答に自由意思は期待出来ませんし、時間制限もありませんから」
俺が更に言い募ろうとしたとき、頬に触れていた三席の手が少し上にずれた。そのまま皮膚を摘ままれ弱く引っ張られる。
餅を伸ばすみたいな手つきで頬骨のあたりを捏ねられている……。
「……三席?」
「あ、すいません。刺青なんですね、これ。触っても落ちないから」
左目の下に入れた"69"の刺青のことを言っているんだとすぐにわかった。
なんか真剣な話してるっぽかったのに急に関心が逸れて、毒気を抜かれてしまう。やっぱり自由人というかなんというか。とにかく変わり者なんだろう。
でも今は、その変なところに少し、救われた。