静まり返った道場の中央で、そんな場違いに朗らかな声が響き渡る。
まるで「忘れ物をしたかと思って持ち物を確認したら忘れ物などしていなかった」のような、自然体で、本当に純度の高い安堵しか含んでいない声音で。
――対して、観衆は言葉を失くしたまま。
別に黙っていることを強制されている訳では無い。誰も彼も、自主的に口を閉ざしているだけだ。
衣擦れの音でも立てれば、安堵の声がこちらに矛先を向けると信じ切っているから。
「御門くん、白打が得意だって言うから。教えられることがなかったらどうしようって心配していたんです、実は」
頬に手を当て、汗一つかかず、そのままうふふと笑い声さえ上げそうなほどの一部の隙も無い微笑みを称え―――
「よかった。……私、まだ貴方に教えてあげられることが沢山ありそうですよ」
足元でうつ伏せに倒れたまま身動き一つ出来ずにいる男に向かって、その人は言った。
白皙はつめたく燃える
自らを副隊長代理だと名乗った水月三席が、あの御門に一対一の組手を申し出た時は、正直何を考えているのかと不安になった。
確かに御門の行動は目に余る。
白打と剣術――実技、特に他人を叩きのめすことに関しては強い自負があると豪語する癖に、その力を自分より弱いモノに揮って自己の優位を示す。自分より強いと判断した者には滅多に挑まない。
早い話が弱い者いじめ、進んで井の中の蛙状態で胸を張っている、それが御門という男だ。
ついさっき御門に容赦無く投げられた奴は物静かな雰囲気で、体格も華奢だ。恐らく御門に凄まれれば文句も言えまい。
院生の頃から御門はそういう奴ばかりを相手取って評価をもぎ取っていた。
しかも弱い者を相手取りたがる癖に実力自体は確かなものだから始末が悪い。
護廷十三隊に入隊してから初めて訪れた上官達に力を示す機会、しかも上から数えて二番目の三席が来ているとあれば、御門が張り切らないはずがなかった。
「じゃあ、ちょっと私と組んでみましょうか」
――まさかその三席が、直々に御門との一対一を申し出るとは、この場の誰も想像していなかったはずだ。
御門とは同期で、自己顕示欲の強すぎる奴と衝突することには慣れていた。だからこの道場での指導が終わったら、こっそり注意しに行くつもりでいた。
だって言うのに、まさか三席に先を越されてしまうとは。
「これでも一応、貴方の数十年先輩なので。先手をどうぞ。お好きな時に、お好きなところから」
「……本当ですか? 後で問題になったりは……」
「あら、しないしない」
つい最近入隊したばかりの新人が大先輩相手に一体何を言っているんだ、と胃の辺りが痛くなる。こういうやり取りのせいで今年度の入隊隊士全員があんな風だと勘違いされるのは御免だ。
礼儀知らずを優に超え恥知らずの域にまで達している言動に、しかし水月三席は微笑みを絶やさずひらひらと片手を振った。聖人か何かなのかもしれない。
そんなことを考えていると、行儀よく壁際に背筋を伸ばして立っている八席が、ふいに「お前あの御門とか言う奴と親しいのか」と訊ねてきた。
明らかに側にいる俺に宛てた声量だった。まさかそんなことを問われるとは思っていなかったから、勢いよく首を横に振る。
「いえ、同期なだけです。あいつと思想が似るなんて、恥以外の何物でもありません」
「はは、結構言うな。檜佐木……修兵」
阿佐部八席は手元に小さな紙を持っている。恐らく俺達、今年度の入隊者の名前が一覧されているんだろう。それに視線を落としながら、俺の名前を呼んだ八席にどう反応したらいいかわからず、曖昧に顎を引いた。
「なら、心配か?」
「……心配は、しています。恐れ多いのは承知の上ですが」
「御門をか? それとも、水月三席の方か?」
「……」
この場合、沈黙が答えに成り得ることもある。俺が馬鹿正直に黙り込んだのを見ると、八席はフッと口端を歪めた。
恐らくこの一対一の試合は、護廷十三隊に入隊を許された身で自分より弱いモノを選び攻撃することを止めない、そしてそれを恥じることなく上官の前で実行してみせた御門への誅罰の意味が大きいはずだ。
それは理解出来る。むしろ此処がそういう奴を許さない隊であることが早々にわかって安堵した。
問題は、執行人たる水月三席が御門と比べ酷く華奢で、とてもじゃないが白打に秀でているようには見えない点だった。
第三席の位に就いているんだから、死神として優れていることに間違いは無いだろうが、それでも得意不得意くらいはあるはず。何も御門の得意としている分野で挑まなくても、という思いが多少はあった。
八席が微苦笑を浮かべる。
穏やかに微笑んでいる水月三席を見据えるその眼差しには僅かな呆れのようなものが見て取れた。
「俺も心配してるよ。……御門の方をな」
「……え……」
「東仙隊長が此処にいてもまた違う種類の地獄だったが、水月三席もかなりずれてる。御門が明日も出勤してくるか心配でならないよ、俺は」
言葉の真意を俺が訊ねるより早く、道場の中央で板を強く踏む音が響き渡った。
御門の岩のような拳が水月三席目掛け容赦なく揮われる。
まるで矢を射るような速度で放たれたそれが三席の腹に、
ああ――、
「あら、随分一直線」
――軽やかに。
独り言のようにそう言って、三席は無造作に手を差し出す。
次の瞬間には、御門は床に転がっていた。
時が止まっていた。
そうとしか思えない。目の前で何が起こったのか理解出来ない。
転がされた御門本人もそうであるようで、右腕は拳を作ったまま呆然としている。
白く細い腕が死覇装の裾から伸びたと思ったら、風を切る速度で自分に迫る御門の拳を躱しながら太い腕を取る。
軽く引き寄せる。
重力が一瞬消失したかのような不自然さで御門の身体が宙を舞う。縦に回転した巨躯が倒れ込む。
言葉にすれば何てことない一連の行為に観衆が目を瞠っているのは、大袈裟ともとれる動作で攻撃を仕掛けた御門が、水月三席の必要最小限の動きで封殺されたからだ。
その事実に戦慄した俺達新人を他所に、見学していた他の隊士達は慣れたように「あーあ」「乙子さん、容赦ってもんを知らないんだから……」などとごちる余裕があるようだ。
水月三席がふいに「ああ」と声を零し、身動ぎしない御門を頭上から覗き込む。
肩を滑り落ちてきた髪を片手で払い、先ほどと寸分違わぬ穏やかな声で「御門くん」と首を傾げた。
「ごめんなさい、ルールを決めていませんでしたね。三度床に背をつけたら負け、ということにしましょうか」
答える間も無く、御門が立ち上がる。
勝てると高を括り、心の奥底で下に見ていたであろう女隊士に訳も分からず転がされたことで気が動転したのか。
はいもいいえも口にしないまま、水月三席の死覇装の襟首を掴んだ。見た目通り軽い三席の身体は、たったそれだけのことで両足が床から浮いてしまう。
普通の相手ならそのまま投げられただろう。御門はいつも通り、負けない自分を自分で愛せただろう。
玩具でも投げるように小さな身体が宙を舞った。
だが苦悶の声など上がらない。
水月三席の白い手が御門の肩を掴み、床に叩きつけられる直前に自力で着地したから。
ダンッと鳴った足音に御門が肩を震わせる。速すぎる三席の動きにようやく散らばっていた髪が追いつき、黒い死覇装の背中に大人しく垂れた。
それでまた、何事も無かった状態に逆戻りだ。
御門の渾身の背負い投げは何の意味も為さず、水月三席の立っている場所が変わっただけ。
「いいですよ。その調子です」
追い立てられるように御門が身を翻す。鞭のように放たれた蹴りを細腕がいなす。無防備になった足元を刈られ、巨躯がいとも簡単に床へ転がる。「これで二本先取ですね」無邪気に笑う声にこちらまで鳥肌が立つようだ。
ようやく、阿佐部八席の言葉の意味を理解し始める。
正義感から新人の性根を正すだとか、そういう目的が根底にあるのは間違いないんだろうが、あの様子と言動からそんな意図を読み取るのはかなり難しいんじゃないだろうか。
御門に立つことを促す姿を見ていたら、実は本気で御門の実力を試しているだけで、御門本人の心境が今どれほど地獄の様相を呈しているかなんてことにはほんの僅かも関心が無いんじゃないかとさえ思えてくる。――端的に言って、人の心が無いんじゃないか、と。
何を考えて微笑んでいるのかわからない。
あの白い顔に浮かんだ笑みに、俺の想像通りの意味が籠もっていることが信用出来なくなる。
そんな言いようのない不安に半ば狂乱状態で向かっていく御門は、どんな気持ちだろうか。
「御門が明日も出勤してくるか心配でならないよ、俺は」
害意しかない拳に決して手折られない、うつくしい微笑みが――少し恐ろしい。
ひやりと臓腑が冷えていくような錯覚。
だって言うのに、ひらひらと舞い踊るように攻撃を躱す姿から目が逸らせない。
大きく動くたび広がる髪は仕立てのいい薄絹のようで、窓から差し込む陽光に透けている。白い肌に映える鮮やかな色の瞳が穏やかに見えるのは、無機質さがもたらす静謐のせいだろう。
あまりの幽美さに、その周囲で惑うように攻撃を止めない御門の姿は余計憐れで醜く見えた。
どれほどの間、翻弄される御門を見ていただろう。
相変わらず疲労を感じさせない軽い立ち姿でいる水月三席に対して、びっしょりと汗をかき肩で息をする御門がついに動きを止める。終ぞ捕まえることが出来なかった海月を虚ろな双眸で見ている。
「疲れちゃいましたか。ええ、御門くん、筋はとてもよかったですよ。今後はもう少し体力をつけましょうね。大丈夫、皆で一緒に強くなりましょう」
御門は息を荒げるだけで答えなかったが、水月三席は気にする素振りも見せず無遠慮に近寄っていく。これ以上何をするつもりなのかと観衆が息を潜めざわめくなか、水月三席は数歩で御門の眼前まで接近した。
反射で拳を振り上げた御門の懐に潜り込むと、合わせの乱れた胸元に掌を押し付ける。
その瞬間――御門が音も無く崩れ落ちた。
糸を切られた操り人形のように不自然な倒れ方に、まさか死んだんじゃないかと息を呑む。
軽く触れられただけの胸元を押さえ悶絶する御門を見下ろし、……なぜか水月三席は「あ」と素っ頓狂な声をあげた。
その場にしゃがみ込むと、ぶるぶる震えている御門の肩を両手で掴みごろりと仰向けに転がす。
「えへへ。これで三本私がとりました。試合終了、ですね」
初めて血の通った照れ笑いを浮かべ、そんなことを言った。すっかり忘れていました、とばかりに首を竦めている。
絶対それどころじゃないし、ルールを律儀に守ろうとするところとのアンバランスさが絶妙に気味悪い。
傍らで阿佐部八席が「いや無効試合でしょ」と小さくぼやいた。
ほんとうにそう。