償いと安らぎを求めて
取り返しのつかない罪を飲み干す

三つの輝ける彗星を追い越し
たった一つの奇跡すら届かない場所へ


目覚めるまでは悪夢じゃなかった



「入隊式後の新入隊士は任せていいか、水月」

 横からそう声をかけられた時、言葉の意味を理解するのにしばしの時間を要した。
 無言でそちらに顔を向ける。私が返答しないままでいるので、大体のことを察したらしい東仙隊長がふっと微苦笑を浮かべた。

「今日は入隊式だろう。霊術院を卒業した新人達が正式に護廷十三隊入りする」
「……ああ、今日でしたか。まだあとひと月くらいあると思ってました」

 壁に掛けてある暦表を見れば、確かに"新人入隊日"と今日の日付のところに書き込まれているのがわかった。しかも私の字である。
 「やだ、自分で書いてますね」と頬を掻くと、椅子に座っていた隊長が益々笑いながら立ち上がった。

「君が日々の忘却を気取らせるのは珍しいな。新人からすれば立派な副隊長代理なんだから、頼むよ」
「立派かどうかは多分諸説ありますよ。貴方にそう言われるのは嬉しいですけどね。……物忘れは一層気を付けます」

 言いながら革の手帳を取り出す。実際うっかりしていたのは事実なので、物忘れに関する反論はせずに最近の書き込みがあるページを確認することにした。
 確かに一、二週間ほど前のページには日付と"霊術院卒業生の入隊。受け入れ後に朝の集会を行う。"と書いてある。どうやら素で忘れていたようだった。確認不足にも程がある。
 溜め息を噛み殺しながら、握った拳で額を軽く叩いた。

「……となれば、そろそろ向かわないとですね。一旦出てきます」
「ああ、頼む。『日課』は代わりに済ませておくよ」

 そう申し出てくれた東仙隊長と隊舎で別れ、一番隊舎に向かう。

 『日課』と言うのは、九番隊に異動してから隊舎敷地内に私が拵えた花壇の水やりだ。
 前隊長の気風により、正直九番隊は植物とは縁遠いところにあったけれど、隊舎の雰囲気があまりに簡素だったので、少しでも彩りと癒しをと花を植えることにしたのだった。
 かなり細かく手を入れたおかげで、素人が作ったにしてはそれなりの出来になっていると自負している。東仙隊長をはじめとして隊士達にも好評だった。
 今では水やりを申し出てくれる隊士もいるし、最近は花壇を増築して新しい植物を植えようという計画が立ちつつあるくらいだ。

 普段は始業前――東仙隊長とのその日の業務内容についての打ち合わせの後に手入れをしているので、彼はその代行を申し出てくれたのである。
 東仙隊長は盲目だが、「今日は香りが強いな。よく咲いている」と彼なりに花壇の充実を楽しんでいるみたいだ。



 入隊式の行われている一番隊舎に辿り着いた時には、すでに私以外の"引率役"は到着しているようだった。
 出遅れたなぁとぼんやり思っていると、バシンと激しい音を立てて背を叩かれる。予期せぬあまりの衝撃に「うっ」と息を詰まらせながらなんとか両脚で踏ん張った。
 振り返ると、十三番隊の海燕さんが私の背を叩いたままの姿勢で固まっていた。

「悪ィ、ちょいと力加減を間違えた」
「結構痛かったです。……おはようございます海燕さん」
「おう、おはよう乙子」

 新入隊士の引率に隊長が自らやってくるのはかなり稀だ。普通は副隊長か、上位席官が所属隊の隊舎まで案内する。
 まだ隊長格不在の隊も多く、今年度に限っては隊長の顔もちらほら見受けられたけれど、顔ぶれは概ね普段と変わらないように見えた。十二番隊の頃も、ひよ里ちゃんのお出迎えで萎縮してしまう新入隊士が多かったから、結局私が担当みたいになっていたっけ。
 十三番隊も相変わらず副隊長が不在のままなので、去年度と変わらず海燕さんが引率にやって来たらしい。

「ついにお前も俺と同じになっちまったな、副隊長代理サン」
「今年の新入隊士は優秀な人が多いと聞いているので、早々に副隊長が決まってお役御免になることを期待してます。きっとこの体制は長く続きませんよ」
「数十年代理やってる俺の前でよくそんなこと言えるな」

 「大人しい顔してクソ度胸め」今度は軽めに背を叩かれる。多分褒められているんだろう。

「俺が言えたことじゃねえがお前はこっち側だと思うぜ。正直な話、お前以上に有能なヤツはそうそう出てこねえだろ」
「あら、わかりやすく褒められてますね。恐縮です」
「本気にしてねえだろお前、この野郎」

 私は何年経とうが副隊長にはならない。席官以上にはなれない。
 他でもない東仙隊長がそれを承知して、そのうえで私を九番隊に、と言ってくれたのだから、いずれ現れる副隊長が私であるはずは無い。
 そこらへんの話を海燕さんは知る由もないので、頭をぐしゃぐしゃに掻き撫ぜられながら曖昧に笑った。

 ――閉ざされていた大扉の向こうが俄かに騒がしくなる。
 式典が終わったのだろう。
 この後は、各隊の"引率役"が自隊の新人を引き取り隊舎に帰還する流れだ。他の隊の"引率役"に埋もれてしまわぬよう、しっかり声を張ってあげなければ。

「笑ってられんのも今のうちだぜ。新人連中が雪崩れ込んで来たらすぐ悪夢みたいな忙しさになる」

 海燕さんの言う忙しさは副隊長不在の、今年度からは本当の意味で隊長格の業務が降りかかってくることになる私への警告に他ならない。
 悪夢と称されるくらいだから、海燕さんでさえ目を回すくらいの大変さなんだろう。

 過去の補助の範疇にギリギリ収まっていた状態と違って、今の私は正式に副隊長が新しく任命されるまでは副隊長"代理"だ。そういう約束を、東仙隊長としている。

 けれど、そう。
 悪夢と言うのなら、この隻眼が開いている間に見るすべてのもののこと。
 今更何がこの眼に映ろうとも、大抵のことは恐ろしくはない。

「ええ、どんな悪夢か楽しみです」


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