隊独自の大・中規模演習が決定した時点で、担当者(或いは隊長格)が準備すべき書類は様々あるが、忘れてはならないものの一つとして四番隊への待機依頼書が挙げられる。
 どのような目的や内容であれ、ひとたび演習を行えば大なり小なり怪我人は発生するもので、怪我人達が一日のある一定の時間に殺到してしまうと、救護・治療を専門とする四番隊の隊士達に迷惑が掛かってしまうからだ。
 勿論彼ら彼女らの仕事は主に怪我人の治療だけれど、それだけが職務である訳も無い。他の隊と同じように日常業務もあるし、一日の業務予定もある。
 その為、例え実際には怪我人が発生しなくとも、最低限の礼儀として待機依頼書を演習の企画書と共に四番隊に提出するのだ。


「御免下さい、九番隊第三席・水月です。卯ノ花隊長か山田副隊長は居られますか」

 詰所の戸口でそう言った私を、冷々とした表情の山田くんが迎えてくれた。

「卯ノ花隊長なら隊首室に。僕で事足りる用件なら聞くだけ聞きますけど」
「第二演習場を使った演習を予定しているので、その企画書と待機依頼書を持って来たんです」
「ああ、そういう話は卯ノ花隊長にどうぞ。僕は興味無いので」
「興味無いとか言う理由で他所の隊の書類を投げて返すんじゃありません」

 やっぱり目の前で苦しむ患者以外には微塵も興味を示さない、平常運転の山田くんであった。

欠落で在り続けるために


 いつも以上にあっさり隊首室に通され、無事卯ノ花隊長に企画書と待機依頼書をお渡しすることが出来た。
 卯ノ花隊長はその場で企画書に目を通すと、「第二演習場を使うのですね」と微かに目を丸くした。私はうなずき、「十三番隊と合同なんです」と企画書の末尾を指し示す。

「ああ、それで浮竹隊長と東仙隊長の捺印が」
「はい。他所の隊との合同演習なんてそう出来るものじゃないので、どうせやるなら大人数で本格的にと」

 第二演習場は三つある野外演習場のなかで最も広い。十二番隊の頃に五番隊と演習を行った時も使用した。あえて整地されていない環境のなかで行われる訓練は、隊舎にそれぞれある道場とは比べ物にならない緊張感と緊迫感が味わえると定評があるとか無いとか。

 とは言え、今回企画された合同演習は過去の実戦的な模擬戦闘訓練とは異なる。実際は席官以上の隊士同士で行われる何でもありの一騎打ちだ。
 企画書を捲り、大雑把に内容を把握した卯ノ花隊長がこちらに視線を向け意味ありげに微笑んだので、思わず首を竦め目を逸らした。

「珍しく貴方の名前があると思ったら、志波副隊長と一騎打ちだなんて驚きました」
「素知らぬ顔して下さればいいのに……」
「あら。副隊長不在の間を支えた同士ではないのですか? 何か不満でも?」
「不満というか、不安です。海燕さん、いつの間にか副隊長になってましたし。あの人には敵いませんよ」

 浮竹隊長の粘り強い交渉がついに実を結び、長きにわたり副官不在だった十三番隊にも副隊長が任命された。
 海燕さんであるところの志波副隊長は、人事の公文書を見てぶったまげた私にしれっと「あァ、そういや言ってなかったっけか。次はお前の番だぜ乙子」と意味の分からないことを言ってのけたのだ。査定の時期という訳でも無い、季節外れと言えば季節外れの昇進は他所でも「やっとか」「流石志波家の長男」と話題になっていた。

 対して九番隊には未だ副隊長が居らず、今回の演習では席次で上から数えて消去法的に私が海燕さんの相手を務めることになってしまった――というのが組み合わせの顛末だ。
 私は精一杯実力が伴っていないと主張したが、満場一致で「あんたがやらなきゃ他に誰が……」と詰められては流石に私もそれ以上駄々は捏ねられなかった。

「昇進していないだけで貴方の実力は隊長格相当と言っても過言ではありません、もう少し自信を持って下さい」
「過言ですよ……最近は特に机仕事ばかりしていたので腕も鈍って……」
「うふふ、それで浮かない顔をしていたのですね」
「まあ、確かにそれもここ最近の不安の種ではあるんですが――」

 卯ノ花隊長の言葉に息を吐く。指の腹で頬を触りながら、声を潜めて言った。
 今回わざわざ四番隊舎まで直接出向いたのには他にも訳がある。

「……卯ノ花隊長、うちの隊士について少しお尋ねしたいことがあります」
「私に? 治療記録でしょうか、日報適度の記録なら構いませんが……怪我や病状ならば当人に話を訊くのが早いのでは?」
「本人に直接訊くのは気が引けて」

 視線で続きを促される。
 先日の初瀬での出来事から、あまり放置は出来ないと悩むようになった。手帳に刻まれた己の無機質な文字を見返すたび、この件にどう触れたものか兼ねてから考えてはいたけれど。
 彼を戦士にすると言った以上避けては通れないモノだと解ってはいた――ただ、きっと惨事の記憶が過るたび顔を蒼白にして震えを堪える彼の生傷は、私には少し身近過ぎる気がして。

「……今期入隊した檜佐木修兵が、院生の頃にかなりの大怪我をして治療を受けたんじゃないかと思うんです。何か、怪我の原因ですとか、ご存じではないでしょうか」
「檜佐木さん、ですか? ええ、覚えていますよ」

 そう言って卯ノ花隊長は席を立ち、室内にある扉から隣の部屋に入り、柳色の表紙の本を手に戻ってきた。

「彼の他に死傷した院生が二名運ばれて来ました。下級生を連れた魂葬の実習で死傷者が出るだなんて稀なことでしたから、よく覚えています」
「死者……? 魂葬の実習で、ですか?」
「ええ。実習中に巨大虚の群れに遭遇し、当時六回生だった引率三名のうち一名が死亡。珍しい事件でしたから、総隊長の判断で検死も行いました。検案記録も残っていますよ」

 魂葬の実習は現世で行うものの中でも初歩の類だ。一回生も参加する実技授業なので、実習先は虚の出現率や死者の統計などを鑑みて危険度の低い地区が選ばれるはず。
 その程度の実習で院生が死亡したなんて話は今まで聞いた覚えが無い。……もしかしたら私が忘却してしまっているだけで、その事件が起こった当時は私も概要を耳にするくらいはしていたのかもしれないけれど。
 私の体質を承知しているので、卯ノ花隊長は本をこちらに向けて開き、訊ねるまでもなく事件のあらましを語って下さった。

「巨大虚の群れは現場に駆け付けた五番隊の隊長格……藍染隊長と市丸副隊長によって斃されました。通常の怪我であれば霊術院での治療で事足りますが、事態が事態だったので怪我人はまとめて四番隊に移送されています。檜佐木さんは顔の右半分に傷を受け幾針も縫う怪我を。諸々の手続きや聴取で、手当を受けにいらっしゃったのは檜佐木さんが最後でしたから、かなりはっきり傷が残っていますよね。生き残ったもう一人は今は四番隊に――……」

 卯ノ花隊長の声が遠くぼやけて聞こえる。
 そういうことか、と納得がすとんと胸に落ちてきた。市丸くんを前にして取り乱した檜佐木くんは、つまり、そういうことだった訳だ。
 院生時代に起こった予期せぬ事故が彼の心の中に傷として残っている。
 日々のなかで鮮明に蘇っては彼の足を竦ませる。

 傷はいつまで経っても傷だ。瘡蓋で塞がっていても生々しく血を流すままでも、同じ傷として其処に在る。
 せめて裂けた箇所が塞がって痕だけになっていればまだ痛みを押し殺して征けるのに、刀を握ることや級友の死が引鉄になっているのならそう簡単に血も止まるまい。
 痛みのあまり目を逸らすことも出来ぬまま――忘れることも出来ぬまま、突如開く傷口の鋭利さに喘ぐことしか出来ない。

 誰にも報いることが出来ず、誰にも取り返せない傷だと知っている。
 死神として生きるのに、その傷はあまりに不適合で、それは多分、


「……そうだったんですね。今、知ることが出来てよかったです」

 そう言う私の声は、あまりに白々しい響きで部屋に解けた。
 声に、言葉に出すことで危険な領域まで至りかけた思考を打ち止めさせる。何も見えていない右側の視界に朧げな何かが滲んだ気がして顔を伏せた。それは見なくていい。詮無いことだ。

「実は演習の結果次第では檜佐木くんの席官入りがかなり現実的になるものですから、彼個人のことを少し知っておきたくて」
「ああ、入隊前から成績優秀者と謳われていましたものね。……そうですか。事故のことは、まだ彼の中で尾を引いているようですか?」
「そのようです。ですけど……」

 顔を上げると、正面に座る卯ノ花隊長の表情が微かに痛ましいものを見るように歪んでいるのが見えた。

 癒えない傷の残る右目。背負った咎のこと。
 流した血でぬかるむ地面に足をつけて立っていること。
 一体どれを、誰の姿に透かして見ているのか、私にはわからない。

「彼は私とは違いますよ。だから、きっと大丈夫です」

 今はまだ涙に敗けているけれど、彼には進む意志がある。
 こんなところで立ち尽くしているのは私だけだ。




 四番隊から戻ると、詰所で待っていたのか私の足音を聞きつけた檜佐木くんが顔を出した。
 今回各所に提出した企画書などの必要書類は、私は横で多少助言をしただけで、ほとんどを檜佐木くん主体で作ってもらったのだ。私が卯ノ花隊長に提出した四番隊への提出物以外は檜佐木くんが提出して回っていた。
 大方私の帰りが遅くてそわそわしていたんだろう。不安げな表情に笑みを返しながら詰所に戻った。

「大丈夫でしたか……? あんまり遅いんで、何か不備でもあったのかと……」
「不備は何度も二人で確認したじゃないですか、大丈夫でしたよ。ちょっと世間話をしていました」

 相変わらず生真面目だ。傷跡と顔つきからくる圧で損しているな、と思う。それについては自覚があるらしく、直接言うと落ち込んでしまうのだけど、私としては内心で何を思っていても顔にさえ出なければ強そうに見えるから少し羨ましい。
 小さい瞳をきょろきょろさせながらこちらを窺う姿は、何と言うか……頑張れという感じで、古参の隊士達からは同期のおどおど系皆戸くんと並べて"がんばれ新人の双璧"と言われていたりする。

 そんな新人双璧も、今回の演習ではそれぞれ出番がある。
 入隊してまだ一年も経っていないのにも関わらず、出場者として抜擢されたからには、結果はどうあれ無様な戦い方だけは出来ない。
 ……もしかして彼の不安げな表情は演習への緊張も混じっていたりするんだろうか?

「……不安なら、今から少し組手でもしますか? 白打縛りで」
「え!? 白打縛りですか!?」
「ええ。竹光持たせても固まっちゃうし……それならいっそ斬は捨てて拳を極めるのもアリなんじゃないかなって」
「それ適当言ってません……?」

 檜佐木くんは口端を引き攣らせた。
 半分本気だけど、死神がそれで務まるわけ無いものね。冗談だよ。
 「乙子さんと白打はやりたくないなー」と顔にはっきり書いてあることは、まあ、指摘しないでおいてあげることにする。


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