「檜佐木くん、まだですかー?」

 そう戸口から呼びかけると、こちらに背を向け座っている檜佐木くんの肩が振り返る。頬に墨をつけていることを指摘してやるべきか否か考えているうちに、彼は「すいません、でももうちょっと!」と幾度か繰り返された同じ台詞を口にした。

 日常業務のほとんどを会得した檜佐木くんに対して、次なる試練として月末作業――主に会計処理を教え始めると、彼はまるで水を得た魚のように黙々と数字を追いかけ始めた。
 数字の辻褄を合わせたり、細かい文章を読み込んでいくことが嫌いではない性分とは彼自身も言っていたけれど、ここまで必死になっているところを見ると才能があるのではと思わざるを得ない。下手したら、毎年年度末に気絶しそうになっている私よりも。
 今日は朝からずっと机に就いて事務作業を続けているから、休憩がてら応接室に置くお茶菓子を買いに出ようと誘っているのだけど、なかなかキリがつかないらしい。
 いつもは聞き分けよく私の言葉に二つ返事で従うくせに、今日は「あとちょっと!」「もうちょっと!」とかなり粘られている。

「……先に出てますよー」

 行き先は初瀬だとわかっているはずだし、大丈夫だろう。
 溜め息を飲み込み戸口から離れると、恐らく振り返りもしていないだろう檜佐木くんの条件反射的な「すいません!」の声が飛んできた。

ほんとうはもう無い


 瀞霊廷内は飲食・呉服など種類を問わず店がそこそこ存在する。
 というのも、基本瀞霊廷外――つまり流魂街に住んでいる魂魄達には霊力がほとんど無いので食事を摂る概念は無く、服や装飾品を売っても買う者などたかが知れているので、利益を上げたい商人が自ずと廷内に店が集まってくるからだ。とは言え、廷内で商売をするには営業許可を頂かなければならない。申告すれば誰でも店を開けるという訳でも無い。
 廷内で行う商売の相手は死神と貴族。貴族は数こそ少ないが金子には糸目をつけないし、死神は数が多いうえ平隊士でも一定のお給金があるので店を利用する頻度も高い。
 死神はともかく貴族が利用する可能性が少しでもある場所に生半可な店は置いておけないということだろう。

 甘味処も例に洩れずあちこちに店があるが、色々巡った結果やはり初瀬が総合的に一番美味しいと思うので、私はいつも寄り道せず初瀬まで一直線だった。
 ……所謂"本物"と呼ばれる品物の目利きが出来るようになったことは、貴族やお偉方と繋がりを持ってから得られた唯一の恩恵かもしれない。彼らに追従していると、自然と死神の給金ではまず手の届かない品物を目にし、また口に入れる機会があったから。
 それが自分の口に合うかどうかは別として、「これは価値のあるものなのだ」と覚えることが出来たのはよかった。そのおかげで、お土産や差し入れに迷ったことはほとんど無い。


 初瀬の店内で商品を吟味していると、「わっ」という声と共に両肩を強く掴まれた。
 声と背後に立つ気配で驚かせてきた相手が誰かは大体検討がついていたけれど、胸に手を当てながら恐る恐る振り返る。
 霊圧と足音を消してまで私を驚かせることに注力する物好きは一人しか思い当たらない。予想通り、どこか満足げな笑みを浮かべた市丸くんが立っていた。

「びっくりした?」
「それはもう……」
「あは。店の外でたまたま乙子ちゃん見かけてなぁ、急いで追いかけて来たんや」

 いや……急いで来たにしては足音が無さすぎる。隠密機動でもあるまいし、まさか瞬歩を使ったんじゃあるまいな。
 私が疑いの眼差しになったのを誤魔化すかのように、身を乗り出した市丸くんが「お菓子買うのん?」と陳列された持ち帰り用のお菓子を指差すので頷いた。
 季節の花をあしらった雲平や色とりどりの有平糖、おこしに打ち物などが並んでいる。来客の前日か当日であればきんつばやどら焼きを買っていくこともあるが、今日は応接室に置いておけるものを探しに来たのでなるべく日持ちするものを選びたい。

 聞けば市丸くんもお菓子を買いに来たと言うので、一緒に並ぶ精巧な作りの干菓子を眺めることにした。

「乙子ちゃんのおすすめは?」
「えー……有平糖とかどうですか? 小さいし、色鮮やかで可愛らしいでしょう」

 指差すと、市丸くんは含み笑いを浮かべ「かいらしいのはええなぁ」と頷く。首を傾げると、彼は片手で口元を隠し背を屈めた。内緒話でもするのかと私より背の高い彼に合わせて爪先立ちし耳を傾けると、白々しいほどに潜めた声で内緒やでと前置きが。

「"藍染隊長に相談があるんです"とか言うて、応接室であの人とお茶する女の子が増えとんの」
「……あら……」
「せやさかいお茶請けの減りも速うてな、ボクがこうしてお遣いに出てるってわけ。……かいらしいお菓子置いといた時の藍染隊長の反応、気にならん?」

 特に反応しない。……ことは無いか。「今日のは何だか可愛らしいね」とか言いそうな気がする、藍染隊長なら。

 それにしても、別に副隊長の市丸くんがわざわざお茶菓子を買いに外に出なくても、そういった雑務は他の隊士に任せた方が部下達の精神衛生的にも良いように思うのだけど、実は"お茶菓子を買いに来た"というのは口実で、誰にも行き先を告げずふらふらと外を出歩いてしまうのは彼特有の癖だったりするんだろうか?
 きっと訊ねても答えは返ってこない予感がしたので、眉を下げ顎を引いた。

「――っていうのは半分冗談。藍染隊長に相談あるんですーって言うて来る子ぉが多いのはホンマやけど、男の子も来るよ。平等や」
「人望あるものね。親身になって話を聞いて下さるから、きっと皆色々話しやすいんでしょう」
「乙子ちゃんもそう思う?」
「え? ええ、まあ、そうですね」

 ――脳裡に蘇るのは白い部屋。どこか甘さを含んだ独特の時間が流れる空気さえも蕩かしていくような、奇妙な心地の。
 頭痛の記憶が表現しえない感覚を手繰る。

「乙子ちゃんは、そういうの・・・・・やめてしもたのん?」
「やめるも何も。そもそも私は人望無いもの」
「あれぇ、ほっといてほしくて必死になって他人ヒトと距離取ってるの、ボクの気のせい?」

 答えに詰まる。私はそれに答えられない。
 私が口を閉ざし目をしばたたいていると、そのほんの僅か数秒にも満たない、あまりにも曖昧な拒絶の仕草に、何故だか市丸くんは満足げに笑みを深くした。
 首を傾げると銀色の細い髪がさらさらと白い肌を滑る。彼は唐突に店番へ「ほなら有平糖くーださい」と注文をし、それから囁くような声で続けた。

「乙子ちゃんのそういう嘘吐けへんところ、嫌いやないよ」
「……それはどうも……?」
「ふふ。不器用やもんねぇ」
「おや、急に貶されている……?」

 からからと笑う声。出会った頃と比べて少し低くなったように思う。
 私も市丸くんのことは嫌いではない。言葉にはどこか含みがあって、いつも笑み交じりに囁かれる言葉の裏側に何があるのか私には察せずにいるけれど、それが悪意なのかと訊かれればそうではない気がするから。

 店番から差し出された袋入りの有平糖とお金を交換した市丸くんが、「乙子ちゃんとこは何にするん?」と肩を寄せてきた。
 もうそろそろ追いついてきてもおかしくない檜佐木くんがやってきたら相談しながら決めるよ、という答えを、そもそも何故今檜佐木くんがいないのかというところから説明しないといけないかしら、と考えを巡らせ始めたとき、店の入り口の引き戸が勢いよく開かれた。
 振り向いた先には、慌てて走って来たであろう檜佐木くんがいた。
 「すいません!」と額に汗を滲ませて肩で息をして、店の中を見て、私と、それから隣に立つ市丸くんに視線を流す。

 市丸くんの姿を見留めた瞬間、檜佐木くんの表情が呆気にとられたものに変わり――切れ長の眦が戦慄くように歪んでいくので、私はつかの間呆気にとられた。

 普段は大人びた、目つきの悪さも相まって近寄りがたい雰囲気を滲ませてすらいるのに、彼の恐怖の表情は日々の記憶を掻き消して余りあるほどの強度を持った現実として胸に迫ってくる。
 私にとって彼の怯える姿は耐え難い。だからつられるように言葉を失ってしまった。

 「ああ、あの時の引率の!」という市丸くんの明るい声が響き渡るまで、私はしばし思考を止め檜佐木くんの白い顔を凝視していた。
 はっと我に返ることが出来たので、一拍遅れながら「ウチの檜佐木くん、知ってるんですか?」と平静を装って隣を見上げる。

「ウン。顔の傷、残ってしもたんやなァ。お大事にしやぁ」
「……は、はい……」

 ありがとうございます、と答える檜佐木くんの声は哀れっぽいほど小さく掠れていた。
 私の知らない因縁があるのか、はたまた市丸くんそのものではなく彼が関わる出来事のなかに檜佐木くんの心に刺さる棘があるのか、私には判断がつかない。

 檜佐木くんが追いついたからか、市丸くんは目的は果たしたと言わんばかりに有平糖の袋を握って檜佐木くんのいる戸口の方へ歩いていく。すれ違いざま、こちらを振り返って「バイバーイ」と笑顔で手を振るので、それに応え緩く手を振った。
 市丸くんの足音が聞こえなくなるまで、檜佐木くんは青白い顔で目を伏せたままだった。

「……檜佐木くん」

 今にも倒れそうな表情のまま立ち尽くす檜佐木くんの片手首を掴み、緩く引いた。外は日差しもあるし、走って来たのなら涼しい日陰で落ち着いた方がいいと思ったのだ。
 一言名前を呼んだ私の声音や表情に何を深読みしたらしく、檜佐木くんは口を塞いでいた布が取り払われでもしたかのように急に息を吐き、忙しなくこちらを見下ろすとすいません、と謝った。隊舎で聞いた時のものとはまた違う感情を含んだ条件反射だった。

「俺、遅くなって、あの、おれは……」
「大丈夫、気にしてません。それより中に入って。出入口を塞いでいたら他のお客さんの迷惑になります」
「あ……はい、すいません……」

 大丈夫と再度うなずく。
 二人でお店の隅に寄り、檜佐木くんの二の腕のあたりを何度か軽く叩いていると、しばらくして彼は人並みの顔色を取り戻していった。


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