九番隊舎に続く廊下を歩いていると、演習から戻ったばかりでまだ騒がしい詰所の方から話し声が様々聞こえてきた。
 なんとなく足を止め、壁に背中を預け耳を傾けてみる。

「あんまり手際いいんで見惚れちゃった!」
「そんなによかったの? ウチって隊長も三席も他所の隊と比べたら優しめだし常識人だし、当たりはずれ激しくないでしょ」
「確かにそれはそうなんだけど、どちらかって言ったら東仙隊長は口数が多い方じゃないから緊張する……!」
「水月三席はなんて言うか、こう……いっつもニコニコしてるから安心感がすごいって言うか――」

 ……上官がいる場では聞けない話もあるかと思って聞き耳を立ててみたけれど、わざわざ霊圧を消してまで立ち聞きするような内容では無かった。妙な居心地の悪さに肩を竦める。
 声高々に私を褒めちぎってくれている子達はまだ入隊して間もない新人だろう。つい先ほどまで一緒に流魂街の外れまで演習に出ていた。
 これから演習に出た新人を中心に反省会でみっちり詰めていかないといけないから、もしかしたらもう彼女から私に対する好感的な批評は聞けないかもしれない。仕事に私情は挟まないが、ちょっぴり罪悪感を感じるような、感じないような。

 褒められようが貶されようが、それが水月乙子に対する他人からの評価であるならば平等に私の指標だ。
 何も見えない暗闇のなかから私でさえ見えない私の輪郭を炙り出す、微かな星のような光。
 それが無ければ、私は自分が何処に立っていて、何処に顔を向けていて、何処に向かっていくのかさえ判らなくなる。

「……こういうことを見透かされているから、涅さんに嫌われたのかしら」

 それ即ち自分が無いのと同じだ。
 涅さんは他人より自分が優れていると信じて疑わないし実際そうなのだけど、他人が自己の無い伽藍洞として在るのは許せない性分なのだ。
 自分と相対する者には何かしらの意義や意味を見出そうとする。その者をその者たらしめる魂の指向性がヒトにはあるのだと信じている。
 私はと言えば、肝心なところで他人の感情――記憶に頼らなければ自分を言い表すことも出来なかったので、さぞ不愉快極まっていたことだろう。
 もう会うことは無いだろうから、これも過去の話だけど。

憬れくらいはしかたない


 誰もいなくなった道場から最後に退出すると、こちらに背を向けて東仙隊長が立っていた。霊圧もほとんど感じなかったので、意図的に自分がいることを隠していたんだろう。
 後ろ手で扉を閉めながら、「聞いてらしたんですか?」と訊ねる。彼は愚問だと言わんばかりに「また隊士を突き放しているのかと思ってね」と苦笑した。

「突き放すなんて、人聞きの悪い……隊長も一昨日したでしょう、演習の反省会」
「水月みたいに一から百まで一人ひとりの反省点を詰めてわざと嫌われようとするような回りくどい教育方針は採っていないよ」
「やだな、嫌われようとなんて……」

 周囲にはもう隊士が残っていないのは霊圧でわかっていたけれど、話題の内容からなんとなく声を潜める。
 形だけ困った風な表情を浮かべた私の様子は見えていないはずなのに、東仙隊長は仕方がないものを見るような仕草でこちらに顔を向けた。

「"好かれた分と同じだけ嫌われて、常に自分に集まる感情を中間に保とうとしている"と言った方がより正確かな」
「……それなら、まあ……否定出来ません」
「そんなことを日常的に計算しながら隊士を見ているのは、多分、十三隊のなかでも君くらいだぞ」
「そうでないと困ります。皆さんこんなことをしているんだとしたらあまりに不健全な組織運営ですよ」

 言ってから、この言い方では自分の思考が不健全だと自ら認めてしまっていることに遅れて気付いた。九番隊に来てから何年経っても、東仙隊長はこの私の在り方をやんわり窘める。そのたびに私は、ただ微笑んで誤魔化すのみだった。

 もう十二番隊にいた頃とは違う。
 私は九番隊に異動すると決めた時から、最早誰とも昔のような親しい関係を築かないし、誰のことも愛さないと、自分に絶対の掟として二つを定め、今日まで生きてきた。
 たとえば同じ隊の誰かと仕事終わりに食事をしたり、勤務時間外にわざわざ様子を見に来たり、締め切りの近い仕事を溜め息を吐きながら手伝ったり、その都度小さく愚痴を口にしたり、……そのようなことは、もう、永遠に無い。
 実際、あの頃のような親密な間柄は誰との間にもない。――進みも退りもしない距離に安堵していることを知っている東仙隊長を除いては。

 水月乙子は、十二番隊をこれ以上壊さないために、代わりに九番隊へ寄生することを決めたのだ。いずれは私のせいで壊れてしまうかもしれないモノを愛するなんて、そんなおかしな話は無い。そんな資格も心も無い。
 侵略者、疫病神として此処にいるなら、せめてそれくらいの礼儀は持っていたい。
 いつか私が不幸にするかもしれない不特定多数の誰かへ。

「水月の親切も忠告も懸念も本当は何一つ変わっていないのに、君は他者と歩みの速度を合わせることを止めてしまった。ただ必要なことを、必要な分だけ口にするから、君の正論は鋭利さを増す。……他人からの好意を認識するたびにそんなことを繰り返して、疲れないのか?」
「生憎と、生きる上での必須条件なので。……効果が無くなってきている人もごく少数いるようですが。もう少し上手いやり方を模索中です」

 東仙隊長は視線を伏せ息を吐いた。

「――檜佐木はどうするつもりなんだ」

 磨き抜かれた大理石のように、冷えきって滑らかな思考に、ほんの僅か余白が雑じる。


 ――私を恐れるぎこちない眼差し。
 ――私の半歩後ろをついてくる足音。
 ――気まずいくせに、正面に立つときは目を逸らさない。


「…………」

 つかの間意識が脳の裏側を彷徨った。
 即答出来なかったのは、そう。私がこれ以上行動を起こすまでもなく、彼が私を恐れているから。
 必要以上好かれるのは困るけれど、嫌われたい訳じゃない。
 整も負もいらない。正も悪も、善も悪も必要ない。
 ただ私は、誰かにとってのゼロでいたいだけ。

 ……だから、彼は。

「私は――」

 言葉の途中で、一つの霊圧がこちらに近付いてきているのがわかった。
 口を噤むと数秒後、予想通り廊下の角からひょっこり背の高い隊士が顔を覗かせる。

「……。どうしました、檜佐木くん」
「あ……いえ、すいません。取り込み中なら、俺は後でも……」

 檜佐木くんは、私と隊長が道場の前で話をしているのを見て、申し訳なさそうに細い眉を下げた。そのまま退がろうとする檜佐木くんに東仙隊長が「いや、大した話じゃない。もう終わったよ」と首を振り、彼に手招きをする。
 檜佐木くんは必要以上に身体を縮こませながら、おずおずこちらにやってきた。

 どうしました? と平静を手繰り寄せ訊ねると、彼はまだ申し訳なさそうな表情で「水月三席がお疲れでなければ……」と前置きをした。

「今日演習に行った奴らから、剣術を重点的に講評されたって聞いて、まだ道場にいるなら、俺も少し稽古をつけてもらえないかなと思いまして……」
「……それは構いませんけど、檜佐木くんこそ大丈夫? 今朝出した課題、もう終わってます?」
「は、はい。それは終わってます。お時間ある時に確認お願いします」

 ちょっと面食らってしまう。私は今朝、隊舎に残る檜佐木くんに課題という名目で事務仕事の一端を任せて演習に出たのだ。今まで教えてきたことを活用すれば基本的には出来ることではあったけれど、側に私がつかず檜佐木くん一人でやらせたのは今日が初めてだったから。
 目を瞠った私の隣で、東仙隊長が笑いを含んだ声で「優秀じゃないか、水月」と言った。
 そちらをちらりと一瞥してから、私の返事を待っている檜佐木くんに「わかりました」と頷く。

「半刻くらいなら空きがあります。……自ら志願して来たことを考慮して、普段よりちょっぴり容赦しませんよ」

 微笑みを浮かべると、何故か檜佐木くんはぐっと胸を詰まらせたような仕草で背筋を伸ばした。そしてどうしてか、東仙隊長の方に視線を向ける。
 そのまま何やら視線を交わし合う(もちろん東仙隊長は見えていないが)ので首を傾げると、観念したように彼は短く息を吸い、両手を身体の横に揃えて腰を折った。

「よっ、よろしくお願いします! ……乙子……さん!」

 静かな廊下に、檜佐木くんの大声は殊の外大きく響いた。
 今度こそ言葉を失くし瞬きするだけの私と、訳知り顔で笑いを堪える東仙隊長。一世一代の勇気を振り絞ったみたいな顔で頭を下げる檜佐木くん。
 ……なんだ? どういう心境の変化なんだ? さては東仙隊長、何か吹き込んだ?

 その懐かしい呼称を拒否する尤もらしい理由を私は持ち得ない。私はゼロでありたいのであって、恐れ続けられたいわけでは無いのだから。
 なので今では呼ぶ者の少なくなった下の名前の響きを、その健気さを――私は受け入れる他なかった。

「……そんな必死の形相でお願いするようなことではないですよ。さ、時間が惜しいですから始めましょうか。東仙隊長、後で隊首室に伺います」
「ああ。……檜佐木、頑張りなさい」
「は、はい!」

 この手で閉めた戸を開け、檜佐木くんに中に入るよう促す。
 その後ろに続こうとする私の背を、東仙隊長の手が押した気がした。私が次の一歩を踏み出すのを助ける程度の力で、私の足は板張りの廊下から道場の硬い床へ踏み出したのだった。


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