「檜佐木くん、最初の指令です」

 早朝、水月三席がそう言って振り返った。
 二歩後ろをついて歩いていた俺は、こちらを射抜く隻眼にぴしりと背筋を伸ばした。……恥ずかしい、そして往生際が悪いことに、俺は未だに彼女への漠然とした恐怖心を拭いきれずにいる。
 きっと俺の身体が強張っていることなんてお見通しだろうに、それについて何かを言ったり反応を示したりすることは無く、三席は相変わらずの微笑を湛え、言った。

「右手側を見てください」
「はい」
「花壇がありますね」
「はい」
「では、花壇の草抜きをお願いします」
「……は、はい」

 意外な『指令』に反応が一瞬遅れた。指令とか言いながら、内容は至って普通の雑用の範疇だったからだ。
 面食らって馬鹿みたいに何度も頷く俺を見上げ、三席は淡々と渡り廊下に面した庭を指差した。

 九番隊の隊舎内をある程度自由に歩くようになってから、花壇があちこちにあることには気付いていた。
 毎日丁寧に手入れされているのだろう。雑草はなく、花々がのびのび太陽の光を浴び、風に揺れ時折甘い香りをさせる。うつくしい場所だと思った。
 刀を佩き、血を流し、戦うことを使命とする死神が集まる場所であることを忘れそうになるほど、静かでうつくしい場所だと。

「普段は私が朝礼前に水やりや手入れを済ませるんですが、今朝はもうあと四半刻もしないうちに出なければいけないので……」

 三席は今朝から丸一日、常会の代理出席や諸手続きの消化で戻って来られない。
 それ自体は前日から聞いていて、不在の間に俺に任せたい仕事を説明するので申し訳無いが少し早く出勤してほしいと言われていた。
 わざわざ前置きされるあたり、てっきり何か重要な仕事を任されるのだと思っていたので、若干肩透かしを喰らったような気持ちになる。いや、別に花壇の管理がくだらないと言いたい訳じゃないけど。

「いないと言っても一日なので草抜きだけ。ああ、水やりは今朝は必要ありません」

陸なら垣根も作れましょうが


 そういう訳で、「あとはこれを見てね」と手渡された小さな紙を折り畳んで懐に仕舞い、まだ隊士の揃わない時間帯から花壇の草抜きに精を出していた。
 陽が昇りきらない仄暗さと、時々吹き込んでくるすっきりした風で作業環境は思いのほか悪くない。

 青い花を間違えて抜くことがないよう、慎重に緑の草を見分けながらぶちぶち抜き、脇に避け、また抜き……と繰り返していると、渡り廊下の奥の方から足音が聞こえてきた。
 廊下の木の板の軋む音に顔を上げる。東仙隊長がこちらに向かってくるので、慌てて「おはようございます」と立ち上がり一礼した。
 東仙隊長は「檜佐木か」と表情を和らげ足を止めた。どうやら初めから此処が目的地であったようで、今日もよく咲いているな、と呟く。

「水月に任されたんだろう。短期間で信用を勝ち取ったんだな」
「……そう、なんですかね……?」

 反応に困った。と言うのも、花の世話を雑務と見下している訳では無いが、重要な仕事と思えるかと訊かれればそうでもない、というのが素直な感想だからだ。
 死神の本分は瀞霊廷の守護と魂魄の調整。職務の枠で考えれば、花の世話の重要度は必然的に下位へと下がっていく。任されたからには手は抜かないけど、これが三席の信用の証だと言われてもいまいち受け入れられなかった。

 俺が困惑しているのを声で感じ取ったのか、東仙隊長がこれは昔の話なんだけれど、と言った。

「檜佐木、九番隊舎にある花壇を作ったのが誰かは知っているか?」
「い、いいえ……」
「水月だ。水月が一から花壇を拵え、毎年花を植えているんだ」

 風が吹くたび、よく咲いた花々が花弁を揺らし甘い香りを漂わせる。
 これは勿忘草です、九番隊にぴったりでしょう、と言っていた水月三席の顔が脳裡に蘇った。

「以前の九番隊には花など無かったから、赴任するなり水月が『殺風景で寂しいですね』と、一人で。初めの年には白罌粟を植えたんだ。隊花だからね。けれどそれらは香りがしないんだ。私が香りで花が咲いていることが判らないと知るや否や、『では別の花を植えましょう』ときっぱり言って。それからは基本水月の美的感覚と土の具合で植える花を決めている」

 不思議と、隊長が語ったことの細かい情景までが目に浮かぶようだった。
 少し肌寒い廊下に差し込む甘い光。花壇の側で背を丸める三席、草を抜き、水を撒く微かな音に耳を傾ける廊下の隊長……揺れる小さな花……朝礼を知らせる鐘の音。
 見たことは無いのに、そんなすべてがこの場所で幾度と無く繰り返されていることを強く意識した。手触りのいい永遠があるような気がした。

 柔らかく朝日を吸い込む三席の瞳は、いつものように冷たいままだろうか。
 どんなに柔らかい表情を作っていても、目だけが冷たい彼女は、どんな表情で花々を見下ろしているんだろう。

「一度、隊のなかで花の世話を当番制にしようという話が持ち上がったことがあったんだ。けれど試しに隊士達に世話を任せてみたら、応接室近くの花壇が一面全滅してしまってね。当時世話を任されていた当番のあだ名は"火の手"になった」
「ひ、火の手……」
「あの時の水月の落ち込みようは凄かった。水やりをサボった訳でも無いのになぜ、何が駄目だったんだろう……と仕事の合間に植物書を読み漁っていたよ。だから、今でも世話を申し出る隊士はいるけれど、水月は一人で世話をしている」

 休憩中にも机に齧りついて文字を追っている姿があまりにも想像出来過ぎてしまって思わず笑う。出会ってからまだやっとひと月超えた程度の付き合いだけど、あの人が何もしていない時というものはほとんど存在しないということは承知していた。
 そしてそんな俺の思考を肯定するかのように、「彼女は暇が苦手なんだ。極端なくらいね」と隊長は頷いた。

「少し離れたところから観察しているとすごく穏やかに過ごしているように見えるけれど、近付いてみるとよくわかる。時間の密度が他とは比べ物にならないんだ、水月は。空白をつくらないよう常に何かをこなし、誰かの記憶の隙間に入り込み――そうして日々を、記録していく」

 そこまで言って、隊長は小さく咳払いをした。
 俺もいつの間にか草抜きの手が止まっていることを思い出し、はっとする。

「要するに、"火の手事件"以来花の世話はほとんど自分一人でしてきた水月が、出会ってまだふた月経たないお前に世話を任せたのは、実はお前が思っているよりも凄いことかもしれないよ」
「……草抜きでもですか?」
「たかが草抜き、されど草抜きだろう」

 ……そう言われるのは、嫌な気はしない。
 水月三席から多少は信用されている(らしい)というのは、正直まだあまりピンと来ていないが、俺より遥かに付き合いの長い隊長が言うのなら、多分、そうなんだろう。
 まだ、あの冷たい目にはどうにも慣れないけど。

「――だから、あまり水月を怖がる必要は無いよ」

 土から抜いた細かい雑草が拳の中で潰れた。
 弾かれたように顔を上げると、盲目であるはずの東仙隊長の顔は真っ直ぐこちらを向いていた。
 恐れを見抜かれていた居心地の悪さと気まずさで唇を噛む。俺のそんな見苦しい仕草が隊長に伝わっていないことを心から願った。

 そんな俺の不安を他所に、東仙隊長は遠い過去を思い返しているような重い口ぶりで「水月は少し、昔とは変わってしまったんだ」と囁いた。

「檜佐木が入隊するよりずっと前に、彼女はいっぺんに深く巨大な絶望をいくつも味わった。受け入れるほかに無かったが、それで……水月は変わってしまった。もとは愛情深い、誰かを愛さずにはいられない性分の、穏やかで優しいひとなんだ。もちろん今でもそうだけれど、少しわかりにくくなってしまった」

 一度そこで言葉を切り、沈黙し、やがて東仙隊長は再び口を開いた。「水月が苦手かい」と、静かに訊ねた。
 まったく根拠の無い勘だったが、この問いへの返答如何で隊長が俺に対する心象を悪くしたりだとか、それを水月三席に告げ口するだとか、そういうことは無いと確信出来た。

 こういうところ。そうだ。こういう、不思議な誠実さみたいなものは、東仙隊長にも水月三席にもあるように思う。
 だから俺自身も、出来るだけこの人達に対して誠実でいたいと思わされる。九番隊は、どんな含みや欠損があれども他者に対して正直な二人が上に立っているから、こんなにも穏やかでいい隊なんだろう。

「……まだ少し、苦手です。でも、俺はこれからもあの人に教わりたい。その気持ちだけは、変わりません」

 東仙隊長は初めてはっきりと嬉しそうに微笑んだ。丁度ここら一帯へ本格的に朝日が差し込んで来て、隊長のゴーグルが白い光をピカピカと反射する。
 「そうだな、では、水月との仲を今より少し良くする呪文を教えよう」と少し芝居がかった口調で言われたので、とりあえず頷いた。
 じゅ、呪文?

「水月三席、では少し硬すぎる。"乙子さん"と呼んでみるといい。皆、彼女のことをそう呼ぶよ」

 拳のなかの雑草が土を巻き込みぐしゃりと音を鳴らした。
 入隊したばかりの俺が? 下手すれば百年以上先輩のことを? 気軽に乙子"さん"?
 それはちょっと……かなり勇気が要るじゃねーか……。

「乙子……さん……ですか……?」
「そうだ。昔からそう呼ぶ者が多いから、馴染むのも早いだろう」

 ほんとかなぁ。
 と物申す勇気は当然無かったので、曖昧に笑って誤魔化した。いくら隊長の善意の助言とは言え、流石に厳しいものがある。


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