檜佐木くんと目が合わなくなってきた。

 檜佐木くんに限ったことじゃなかったけれど、檜佐木くんはまだ私の顔を見て話を聞こうと努力する気概を感じられていたから一目置いていた。どうやら一過性のものだったらしい。
 私も大昔は人の目を見て話が出来ないという失礼を五年ほど続けていたので、別にそのことで彼への評価を悪くすることは無い。
 ただ、彷徨う視線と俯き気味の頭を見ているうちに、「やはり指導係は私でない方がいいのではないか」という確信めいた思いが押し寄せてくる。私が彼を不幸にするんじゃないか……そんな覚えのある罪悪感の苦い味が舌の根からじわじわ滲んでくる。

 他の隊士達――たとえば阿佐部くんのように、立場を問わず人の心の防壁をいつの間にか取っ払ってしまえるような気軽さと親しみは私には無い。それはわかっているし、水月乙子には最早そういう属性を持たせまいと決めたのは他ならぬ私自身だった。
 けれどそれは決して不和になりたいだとか、そういう願望から生じた決意では無い。ひとを愛することも愛されることも失敗してしまっている私だけれど、ひとを嫌っている訳では無いのだ。

 私は恐怖の対象になってしまったんだろうか。多分そうなんだろうな、という漠然とした想像は出来るけど「そうである」と確信するに至る証が得られないので、いまいち彼らに共感出来ずにいる。
 ただ、微笑んでも、優しく慰めても、厳しく窘めても、私と彼らの間にある溝が埋まることは無いんだろう。そんな予感があった。

さよなら、子どもだった君


 つきん、と右目の奥が痛んだ。
 顔に冷水をかけていた手を止め、傍らに置いた手ぬぐいを手探りに引き寄せ顔を埋める。
 視線をそろりと正面の鏡に向ければ、硝子玉のように何の感情も読み取れない双眸がこちらを見返していた。

 もちろん硝子玉と形容するに相応しいのは視力を持たない右の眼球のみで、左目は一応まだ自前の眼なのだけど、年々造り物のそれに引き込まれるように――或いは近付いていくように、左の眼も人らしい温度を失っていっているように思えてならなかった。
 我ながらひどい顔。
 鏡越しに右頬へ手を伸ばす。まだ化粧を施していない素肌には今なお残る火傷痕がある。触れればケロイド状に細かく盛り上がり歪んだ皮膚の、妙につるつるとした感触が味わえた。炎に舐められた身体の、右半身には特に強く残っている。

 四番隊の隊士には、長い年月をかけて少しずつ治療を施していけば、火傷痕は化粧で隠さずとも目立たない程度にまで治せると当時言われた。
 傷跡の治療を止めたのは、それを選んだのは私自身だ。
 この右目同様、忘れたくない記憶が、思いが、目に見える形で刻みついたものだと思ったからだった。

「……」

 ただ、その代償として、私は定期的な十二番隊・技術開発局通いを余儀なくされている。
 十二番隊には二度と顔を見せないと――あの日私を手放した涅さんに誓ったと言うのに、である。



「東仙隊長、技術開発局に行ってきます。朝礼には間に合わないかもしれませんが……」

 そう言うと、東仙隊長は慣れた様子で「わかった」と頷いてくれた。
 九番隊に就任する際、右目と火傷の後遺症諸々で技術開発局に通う必要があることは説明済みだ。まさか涅じゃあるまいな、と訝しがられたのをよく覚えている。

「すいません、いつも朝に抜けてしまって」
「涅と鉢合わせず、かつ向こうの都合がいいのが早朝なんだろう。普段誰より働いているんだから、たまに朝遅れる程度のことは気にするな」

 微笑を浮かべ頭を下げる。
 檜佐木くんには朝不在である旨の書置きを残し、日課を済ませ、足早に九番隊舎を後にした。
 技術開発局への道のりにはまだ覚えがある。身体が覚えている。
 慣れた門をくぐり十二番隊舎へ足を踏み入れると、示し合わせたように薬品箱を片手に持った阿近くんと鉢合った。へらりと手を挙げたけれど明確な返答がある訳ではなく、彼は顎をしゃくって無人の応接室を指した。

 私がいた頃からもう数十年経っている。
 阿近くんは技術開発局・副局長へと昇進。背も伸び、いつの間にか煙草を覚えた。今の彼の側に寄ると、濃い煙草の、喉に刺さるような鋭さと苦みのある香りが漂う。
 ただ、彼は私がいる場所では煙草を吸わない。吸っていても、私が視界に入るなり、火をつけたばかりでもすぐに灰皿に押し付けて消してしまう。
 それは決して私の身体を気遣ってのことではなく、吸っていると私が「身体に悪いですよ」とか「大人になって」とか言いながら脇腹をツンツン突くからである。

 薄暗い応接室に入ると、阿近くんは後ろ手で扉を閉めるなり「頭、痛むんすか」と平坦な声音で訊ねた。
 きょとんとしながら振り返る。私の横をすり抜け、机を挟んだ左側の椅子に腰かけ薬品箱を開けた阿近くんに「そう見えますか?」と訊ね返す。
 阿近くんは能面じみた無表情をこちらに向けもせず、曖昧に肩を竦めた。

「頭が痛い時にそうだと判る癖がある。今はそれが出てるから、相当痛いんじゃねェかと思ったんですがね」
「へえ、気付きませんでした。どんな癖があるんですか、私は?」
「教えたら隠すだろ、言うわけ無ェ」
「厳しいなぁ」

 いつものように向かいに座ると、何も言わずとも阿近くんの手がこちらに伸びる。
 言動や態度とは対照的に、私の頭を掴み、傷跡と義眼の様子を窺う手つきはおそろしく丁寧だ。少しでも力を込めれば割れてしまう薄氷にでも触れているかのような仕草で、私の頭を傾けたり、焼け爛れた皮膚を指の腹でなぞったりする。

 本来は火傷などの治療は四番隊の、義眼のメンテナンスは技術開発局(造り手の涅さんとは断絶しているので阿近くんだが)の領分だ。
 それを阿近くんは「霊子と霊圧を応用した細胞再生とその加速研究の実験だ」とかなんとか言って、数十年私の醜い顔や身体を診てくれている。四番隊も付き合いの長い技局の副局長だから、と特例として処方箋と薬品を私ではなく阿近くんに受け渡し、経過観察を委ねているのである。
 十二番隊を飛び出してすでに久しい私の面倒を見てくれている阿近くんには頭が上がらない。背が伸び、昔以上に辛辣で皮肉屋の片鱗まで見せ始めているとしても。

「頭痛は新人が入って来てからですか? 原因はまあ、大体想像がつくけど」
「忙しいのはお互い様でしょう。これでも隊長や他の席官達とかなり分担出来てますから、去年や一昨年程じゃないんですよ」
「どうだか」

「去年は過労でぶっ倒れる寸前だったくせに」棘のある声音に無言で眉を下げた。去年はまあ、色々あったのだ。私の仕事の回し方が上手くいかなかっただけで、誰が悪いという話では無い。

「その様子だと渡した分の鎮痛剤は使い果たしたみたいっすね。今月はこれっきりで上限ですよ」
「はぁい、使いどころは慎重に選びます」
「違ェ、『健康的な生活で心身の回復に努めます』って言え」
「うふふ」

 笑って誤魔化した私の頬を、阿近くんのかさついた指が押し潰す。随分背が伸びて大きくなったな、とは常々思っていたけれど、もうすっかり細く骨ばった男の人の指だった。

「鎮痛剤は所詮対処療法。慢性的な頭痛と皮膚の痛みはとにかく健康でさえいれば大分解消する。アンタはその気が無いから厄介なんだ」
「うーん」
「今出してる薬が効かなくなったらいよいよ麻薬の域ですよ。アンタは自分が未だ傷病者の分類の内側にいることを自覚しろ」

 本当に容赦の無い言い方だ。もう数十年会話をしていないけれど、記憶に残る涅さんの口ぶりと少し重なるものがある。
 懐かしい気持ちになりながら笑っていると、私の顔を解放した阿近くんが薬品箱から鎮痛剤の入った小さな巾着を取り出し、私の右手に握らせた。
 本当は渡したくない――そんな風な気持ちが伝わってくるほど、弱い力で私の手に手を重ね、小さく俯く。

 ほんの僅か、薄情な心臓が軋みを上げた気がした。

「……ごめんねぇ、悪い大人で」

 そう言いながら、私の顔はぴくりとも動かないまま、依然として微笑を湛えている。
 あの人曰く"気味の悪い"笑みが焼き付いてしまった顔では、彼の言葉と心配に報いる為の微笑以外の表情を作ることさえ出来ない。

「んなことは知ってる。……ずっと昔から、乙子さんが善人じゃないことくらい知ってる。身に染みて知ってる」
「そっか、そうよね」

 妙にしみじみしながら頷く。人の健康に文句を言えないくらい、彼だって顔色が悪い。目の下の隈だって日に日に濃くなっていく一方だ。これは誰に似たんだか、と自分を棚に上げてしょうがない気持ちになった。

 阿近くんが滲み出る懐古の念を振り切るように首を振るので、話題転換の為に「十二番隊の方はどうですか? 新人の様子」と訊ねる。
 成長期特有の薄い肩をがっくりと落としたので、大体の様相を察してしまった。

「どいつもこいつも使えねえ。マトモな教育係が不在なのは否定出来ねェが、それにしたってあんまりだ」
「新人が最初から万能なら古参私達は必要無くなっちゃいます」

 意地悪しちゃ駄目よ。とくすくす笑うと、阿近くんは肩を竦めた。

「しませんよ、時間の無駄」
「あは、阿近くんらしい」
「それに、俺がどうこうするより先に局長が痺れ切らして走る爆弾にでもしちまうんじゃないですかね」
「…………それは……怒られちゃうんじゃないかな……」

 さもありなん。顔を見合わせ、緩々と首を振った。
 阿近くんの三白眼がそちらは? と訊ねてくるので、真似をするように肩を竦め「うーん」と新人の顔を一つひとつ頭の中で思い浮かべる。

「全員飛び抜けて何処かがいいとか、そういうことは無いけど。皆いい子ですよ」
「アンタ毎年同じこと言ってんな」

 まるで私の言葉に信用が無いと言わんばかりの言い方だけれど、私は嘘を言っている訳じゃない。本心からそう思っているから、毎年同じことを言っている。
 困った子はいても悪い子はいない。一癖二癖あったって、永い死神の人生のなかで段々と丸くなっていくものだと思うし。
 でも、そうだな……。

「……集中的について見ている子に怖がられている気がするから、ちょっと困ってはいるよ。万人に好かれたいとかは全く思ってないけど」

 後ろめたい告白をしている気分だ。目を伏せると同時に阿近くんが笑い出す。いつもむすっとした表情をしている彼があまりに景気よく笑うので、笑われているこっちは居た堪れない。
 むずむずと唇を引き結び蠢かせていると、阿近くんは緩やかな笑いの波を噛み殺しながら首裏を手で擦り、言った。

「そいつ、見る目があるな」
「ええ?」
「乙子さんはおっかねェから」
「ええ……?」

 どんな眼差しを向けても、阿近くんは笑うばかりでそれ以上答えてはくれなかった。


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