「檜佐木。主席卒業者のお前なら、別に九番隊でなくても充分やっていけるだろ」

 合馬は言葉を失くして俯く俺にそう言った。
 爪先から血液が逆流してくるような不快感と、思考が纏まらない真っ白な頭を項垂れる俺は是も否も答えられない。
 本当に、ただずっと、あの人の顔がぐるぐる浮かんでは消えるだけで。

 右手に握り締めた箸がミシミシ悲鳴を上げている。
 蟀谷に滲んだ嫌な汗が肌を伝った。


「お待たせ、檜佐木くん」


 ――全身が強張る。
 隣にいる合馬の霊圧がわかりやすく怯んだ。

 鎖に引っ張られるかのような不自然さで声のした方へ顔を向ける。

「約束は守れたでしょうか、多分これくらいなら"すぐ"の範疇だと思うんですが……」

 料理の乗った盆を両手で持ち、最早見慣れた微笑のような能面を湛え、水月三席がそこにいた。

見失ったひと


 俺が何かを答えるより早く、水月三席は音も無く俺を取り囲んだまま固まっている男達の顔ぶれを見回した。一連の仕草に感情らしきものは見えず、ただ本当に相手が誰であるかを確認する為に相貌を確かめ、記憶の中から該当する人物を照合しているような、機械的な動作のように思えた。

 そんな不自然な間が不気味に移り変わらんとする一瞬の隙を縫い、三席は元の生物的な様子に立ち戻り微かに首を傾げた。

「檜佐木くん。この人達は知り合いですか?」

 意味のない声を上げそうになった。後ろめたさに視線が泳ぐのを堪えられない。
 冷静になって考えれば、三席の問いかけはそこまでおかしなものじゃないはずだ。
 恐らく俺は顔面蒼白、食事にも一切手を付けないまま、周囲を他の死神に囲まれた状態で項垂れていた。
 普通、知り合いとそんな空気の中食事を共にすることは無いだろうし、談笑していると嘯けばすぐさま「否である」と断じられそうな光景。
 だからこそ、彼女は疑問を持ち訪ねてきたのだろう。なら俺はこう答えればいい。「知り合いでは無い」と。
 ……だって言うのに、妙な気まずさが俺の口を殊更重くする。

 ついさっきまでこの場を支配していたのは水月三席に対する悪意、陰口、一つに括れば嫌悪感だった。
 俺が合馬達に同調して彼女の悪口を口にした訳では無かったが、彼女を不必要に貶める言動を諫めなかった時点でほとんど同罪のようなものだと内に棲まう良心が糾弾してくるので、どうにも俺は合馬達を全くの他人であると即答出来ないようだった。
 何より、そんな浅ましい勘繰りを三席に見透かされているような気がしてならない。それが気まずい。居心地をこれ以上なく悪くした。

「…………今さっき声をかけられて……」

 結局重い口を割って零れたのは、そんな曖昧な返答だった。是も否も選ばない俺こそがこの場で最も卑怯者だった。
 水月三席が期待していたような答えでないことは考えずともわかる。
 けれど三席は俺に対してそれ以上何かを言うことは無く、ただ一つ頷き、視線を俺の横に流した。

「合馬さん、直接顔を見て話すのは久し振りですね。お名前は時々、耳にしていましたけれど」
「ケッ。嫌味か? 副隊長代理サマ」
「嫌味だなんてひどい言い草ですね。私は誰も嫌ってなどいませんよ」

 ニコニコ微笑む水月三席と、心底嫌なものを見たように顔を歪める合馬。
 二人はそのまま三秒ほど見つめ合い――すぐに合馬の方が顔を逸らした。合馬が負けたんだとわかった。

「申し訳無いんですが、檜佐木くんは午後から演習があるので早めに食事を摂るよう私が指示をしたんです。お話しはまた後日にしていただけますか?」
「言われなくても」

 そう言い残し、合馬とその取り巻き達はやたらガタガタと音を鳴らし食堂を出て行った。
 水月三席は黒い後ろ姿達が見えなくなるまでそちらに顔を向け続けた。どこか名残惜しむように、目に焼き付けるように眼差しを切ると、俺の正面に盆を下ろし席に着く。

「――ああいう手合いは場を膿ませます」
「え?」

 合馬達が去ってから無言でいた三席が急に言葉を発したので、俺の耳と頭がそれを理解出来ずに訊き返した。
 彼女は一転無表情で、再度同じことを繰り返してくれた。

「密かな場所で、限られたごく少人数で楽しむ分には何も言わずに済むのですけどね。悪意というのは伝播しますから、よく通る声で人気の多い場所を陣取られてはやがて士気も下がるでしょう。ちょっと意地悪なやり方でしたけど、再犯防止的な意味で首を突っ込んじゃいました」

 そう言い、三席は思い出したようにふっと口角を上げた。
 俺が焦りを隠さず「聞いていたんですか?」と訊ねると、彼女はいいえと首を振った。

「この賑やかさですから、ほとんど何も聞こえませんでしたよ。ただ私についての不満を語っているんだろうな、とは。彼――主に合馬さん、入隊時期が近いんですが、昔から私のことが気に入らないようなんです。檜佐木くんが入隊するずうっと前からあんな調子で、彼と談笑できた試しは今のところありません」

 苦笑を浮かべ、白い手のひらを合わせる。水月三席の盆には煮魚が乗っていた。竜田揚げを勧めてきたのに、彼女自身は選ばなかったようだ。

「だから、檜佐木くんが何か気に病むようなことは無いです。彼と私が仲良く出来ないのは彼と私の問題であって、檜佐木くんが要因として入り込む余地はありませんから」

 ……宥められているのか、それとも窘められているのか。
 伏せがちの眼差しがこちらを向いていないので、彼女の思考を読むことは出来そうに無かった。

 先刻の言葉通り、水月三席は自身を嫌う合馬を嫌っていないんだろうことだけは、今の様子でわかったけど。
 三席の眼差し、表情、言葉選びの何処を探しても相手に対する憎悪の念は見て取れない。後ろ暗さも無い。ただ事実として、合馬が自分を嫌っていることを受け入れて、ただそうであると知っているだけのように見える。

 でも――それではまるで、合馬は壁に向かって独り言をぶつけているようなものじゃないか。
 輪郭はある。手を伸ばせば触れることが出来る。
 けど言葉も視線も情感も、あらゆる事象の総てが彼女を透過した。

 触れられる幻。
 そんな馬鹿げた妄想が脳裡を過る。
 この喧噪と足音入り乱れる場所では一度目を逸らせば見失ってしまいそうな……。

「……檜佐木くん、食べないんですか?」
「あ」

 気が付けば、食堂内はピークの混雑具合へと移ろいつつある。慌てて握り締めていた箸を持ち直すと、煮魚の身をほぐしていた三席が視線を上げる。
 相も変わらず俺の象を結び、反射するだけの硝子のような瞳には感情一つ読み取れない。

「午後から大変な思いするんだから、ちゃんと食べておかなきゃ」

 微笑を湛える白い顔を見ながら頷いた。……流石に彼女の過去のことについて訊ねる勇気は無い。
 食欲がないまま手を合わせ、無理矢理汁物から手を付けた。


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