普段の水月三席はそこそこのんびり仕事をしているように見えていたのでまあ覚えると言っても普通は使用頻度の高くない部屋の配置、書類の書き方、分け方なんかだろうと思っていたけど、それが全くの勘違いだったことを最初に思い知らされた。
なにせ大まかな説明だけで一日使い切ってしまった。
メモを取りながら後をついてまわるだけで精一杯の俺を時々振り返り、三席は相変わらず薄い微笑を浮かべたまま「まあ一度で覚えられるとは思ってないですから、何度でも訊いて下さい」と言ったけど。
思うに、水月三席がいつものんびりしているように見えるのは、恐ろしく段取りがいいからだ。
片付ける仕事に優先順位をつけ、必要最低限の時間で事を済ませる。"ついで"が多いのも特徴だろう。
結果慌てることはそうそう無いので、遠巻きに見ているだけならゆったりしている。あの落ち着き具合は恐らく経験による慣れが大きいんだろうが、それにしてもだ。
副隊長代理。
未だ席次が整わず、外殻を東仙隊長によって整えられ動き出した九番隊は、彼女自身を重要な歯車とすることで滞りなく回っている。
側で見ていると、それを強く思い知らされる。
「檜佐木くん、先にお昼行っちゃって下さい」
「へ? ……いや、まだ鐘も鳴ってませんし、流石にその状態の水月三席を置いては行けませんよ」
肩を落としながら言うと、水月三席は机に散らばる書類の山の間から苦笑を覗かせた。
口頭説明より分かりやすいと思うから、と資料室の奥底から三席が大昔作ったという事務処理全般の手引き書を発掘してきてくれたのだ。
俺が業務を問題無くこなせるようになるまでは詰所か執務室に置いておいて構わないと言うので、この狭い資料室の机から運び出そうという話をしていたところだった。
「午後から演習でしょう、きみ。私は午後もこちらに残るから大丈夫です。遅れたら私が東仙隊長にしょっぱい顔されるし、運びやすいように整理したら私も追いかけますから」
三席の言う通り、午後からは東仙隊長が隊の半数を率いて演習に出ることになっている。新人は原則全員参加。もちろん俺も例外じゃない。
とは言え俺の為にかなり重い綴じ本を持ちだしてくれた彼女に片付けまで押し付けるのは気が引けた。
尚も食い下がろうとすると、三席は再度「大丈夫」と緩く首を振る。
「今日は豚の竜田揚げだったかな。食べたことは?」
「は、いえ……まだ無いですけど……」
「じゃあおすすめしておきます。食堂のご飯が美味しいって有難いね」
……そんな風に話をうまい具合に逸らされては何も言えない。
彼女は話を切り上げたい時、割と突拍子も無い話題を突然口にする癖があるようだった。こうなるともう何を言い募っても無駄なので、大人しく席を立つ。
「本当に、待ってますからね。待っても三席が来なければ隊舎に戻りますから、俺」
「信用無いなぁ、すぐ行きます」
「貴方の『すぐ行く』は信じるなって阿佐部八席が言ってました」
「う〜ん……」
眉を下げ「手厳しい」と笑った三席に一礼し、資料室を後にした。
安堵しながら動揺する
食堂に着くと、まだ鐘が鳴るより少し早い時間だったので、正午丁度ほどの混雑ぶりではなかった。
それでも午後に何かしらの予定を持って早く食事を摂りに来ている隊士もそこそこ多く、百人は入ろうかという席も三分の一程度は埋まっている。
献立表を見上げると、水月三席の言っていた通り『豚の竜田揚げ』があった。特に何も考えずに豚の竜田揚げ定食を頼んだ。おすすめされたし。
しばらく列に並び、竜田揚げ、汁物、白米、香の物を盆で受け取り適当に席を探す。
知り合いがいれば近くに座ったりすることも無くはないが、この人の多さのなかをわざわざ探す気力は無い。
これでも一応三席からの直接指導の毎日で疲労が蓄積しているのだ。別に話が盛り上がる訳でも無いし、一人の食事は苦じゃない。
言葉通りなら水月三席も追いついてくると言うし、と考え、出入口付近の席に腰を下ろした。
手を合わせてから箸を手に取ると、雑踏と話し声のなかに「檜佐木」と名前を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
声に覚えは無かったが、まだ九番隊の面々の声を完全に覚えきっている訳でも無い。所属隊の先輩や同期を無視するのも悪い気がして周囲を見回す。
どうやら呼ばれたのは確かであるようだ。
――こちらを窺っている顔ぶれに見覚えは無かったが。
こちらが相手を認識したことが伝わったようで、「誰だこいつら」と思考を巡らす俺を他所に、男数人が俺の周りに集まってきた。
断りも無く隣に腰を下ろした妙な気安さに眉を顰めたのには気付いていないらしく、肩まで組んできそうな様子に身体を反らしながら「どちら様ですか」と低く問いかける。
「そんなあからさまに警戒されると傷付くね。ま、初対面だから仕方ないか」
「……」
俺の隣に腰かけた男は合馬と名乗った。
結局何の用件なのかは不明で、俺の眼下では竜田揚げと汁物が微かに湯気を立てている。
冷めちまうだろ、と心中で文句を言いながら、この状況自体に一抹の懐かしさのようなものを感じていた。
真央霊術院にいた頃にも、こういうことは間々あった。
成績優秀者だからとか、顔つきが気に入らないとか、そういう理由で見知らぬ相手に囲まれることが。
主席になってからはそういう手合いも一層増えたが、生憎親しい相手がいなくても誰に妬まれ嫉まれても、自分はあまり気にならない質だった。
自力で鍛錬を積み重ねて勝ち取った主席だ。他人が何を思ったって何をしたって俺はその座を降りるつもりは無かったし、放っておけば恨みの業火もそのうち立ち消える。
――大体、俺は聞こえてくる陰口や罵詈雑言に相応しい人間では無い。
実力も覚悟も足りていないのだと思い知った時から、全ての恨み言は他人事に変わった。
「檜佐木、お前が水月の下についてるって聞いて心配してたんだよ、俺達は」
「……、……はぁ」
「ピンと来てねえ面だな。まだわかってねえのか、あの女の本性を」
あの女、という嫌な言い方に隠すことなく顔を顰める。
男達はそれぞれ別の隊所属らしい。合馬は十一番隊だと言った。他にも三番隊、八番隊、十番隊。
そんな奴らが一体水月三席の何を語ると言うのか――まあどうせ陰口だろうが、よくも知ったような口を、と嫌悪感より先に呆れがくる。そしてそれに俺が同調すると僅かでも思っている軽率さに遅れて嫌悪感。
「申し訳無いですが急いでるので」と振り切って食事を始めようとした俺に、「まあ待てよ」と合馬がしつこく絡んでくる。
「今年度の卒業生の主席が九番隊に行ったってんで、じゃあ十中八九そいつは水月乙子が面倒見ることになるんだろうって話してたんだ。アイツは仕事は出来るし、九番隊の隊長のお気に入りだからな」
「……それで、俺に何の用なんスか」
「檜佐木、お前、あの女とそっくりなんだよ」
「お前も霊術院時代に一度やらかしてるだろ? ――死傷者が出たうえ五番隊の隊長格が出張ったもんだから、多分大体の奴らは知ってる」
暗い記憶が蘇る。遠い悲鳴が耳鳴りのように耳の奥で響き、まだ何も口にしていないのに胃の中のものを吐き出しそうになる。
何も答えない俺に、合馬は一転「まあ、お前のやらかしと言ったら語弊があるか」と付け加えた。
「下級生を連れた実習で巨大虚が出やがるなんてそうそうあることじゃない。お前に落ち度は無かった、……そうだろ?」
「……"それ"が、あの人と何の関係があるんだよ」
吐き気を堪えながら唸ると、ようやく俺が食いついてきたので合馬がにやりと笑う。
「アイツも霊術院時代にやらかしてる。何人か同級生を廃人にして、殺したようなモンだ」
嘘だ、と叫びたかった。
けれど告げられた言葉のあまりの意味に言葉は声にならず、両目を丸くして言葉を失うことしか出来ない。
呆然とする俺を心底嬉しそうに眺め、合馬は身を乗り出して「嘘じゃねえぞ」と聞きたくなかった言葉を口にする。
「廃人にされた奴は誰一人として霊術院を卒業してねェし、かと言って実家に帰された訳でも無い。これじゃ死んでるのと同じだろ」
アイツは人殺しだと囁く声に眩暈がする。
突然の密告に思考が追いつかなかった。よくよく考えれば、誰がどう見ても優秀なあの人を妬む奴の虚言だと思い当ってもおかしくは無いのに、何故だか俺は吹き込まれる言葉を頭の中で否定出来ずにいる。
愕然と――言い寄る男のどうでもいい顔を凝視している。
脳裡に過るのは、水月三席の白い顔。
口元に微笑を浮かべ、静かな水面の如くに空ろな眼差しでこちらを見る、うつくしいかんばせ。
目が合うと表情に柔らかさが増す。――能面のような笑みに取って付けたような人らしさ。
どこまでも落ち着いた深い色の瞳。――凡そ全ての光を通さない硝子の双眸。
神や仏の類であればどれほどよかっただろう。
俺の頬を抓ったあの手は人並みに温かかった。
「あの女の側にいたらお前も白痴にされるぜ。伽藍洞の頭で、身体は生きたまま」
「―――」
けれど――けれど、そんなことは有り得ないと即答出来ない自分がいる。
無心であの人を信じ切るには、俺はあの人を知らなさすぎる。
何より、
「アイツは他人のことなんて何も考えちゃいねェ」
床に伏せって蹲る御門を見下ろす瞳に何の感情も浮かんでいなかったことを、俺は知っている。
「心が無いんだからな」
微笑はあの人にとって無表情。
現実を映す瞳に感情は無く、手の温もりは疑似餌。
そんな酷い考えが頭を過るくらい、あの人の眼は空虚だった。