澪は澪

 重い鉄扉を幾重も抜けた先、開発棟の実験室の一つの隅で、猫背になりながら机に向かい一心不乱に何かを書きつけている背中に、堪えきれなかった溜め息が洩れた。
 普段はぼーっとしているようで人の気配には聡い人だけど、大晦日をとうに過ぎ去り元旦の方が近い時間帯となっては多少鈍くなるらしい。私の吐いた息の音も、立ち昇っては消えていく色の白さも意識の外のようだ。

 しばらく眺めていたらこちらに気付くかとも思ったけれど、一分を超えたあたりで馬鹿らしくなって「浦原隊長」と声をかけた。

「うわッ! ……って、乙子サンかぁ……なんだ、びっくりさせないで下さいよ……」
「"なんだ"じゃないですよ。私帰る前に言いましたよね、流石に今夜は帰って休んで下さい・って」

 そう言うと、隊長はちょっと面食らったような表情になってきょろきょろ周囲を見回すと、最後に扉の前で後ろ手を組んで立つ私を凝視して「あ!」と今更声を上げた。しまったーもうそんなに経ってたかーと顔に書いてある。

 普通寝食を忘れて仕事に没頭するって言ったって限度があるし、どんなに仕事熱心でも大晦日くらいは寮や自宅に帰って静かに年を越すものだろうに。
 まさかと思って日付が変わる前にこっそり隊舎寮を抜け出して様子を見に来たけれど、これほど当たってほしくないまさかはそうそう無い。しっかり当たってしまったし。

 ――なんて一般的な感覚の小言をこの人にぶつけても意味が無いことは重々承知しているので、もう一度溜め息を吐くことで冷える局内を歩いてきた夜半の自分を慰める。

「わざわざ隊舎寮抜けて来たんスか!? うわースイマセン、着流しに羽織だけじゃ寒かったでしょ」
「それはそうなんですけど……隊長、流石に隊長羽織は駄目だと思います」

 どうやら私が死覇装でなく灰白色の着流しと藤色の羽織で立っているのを見てはじめてすでに年を越してしまっていることに気付いたらしい。
 慌てて脇に除けてあった隊長羽織を上から羽織らせてきたけど、いち席官が防寒目的で隊長羽織に袖を通すなんて恐ろしいことは出来っこない。仕方なく折り畳んで腕に抱えた。
 浦原隊長は研究室に籠もる時、隊長羽織を脱いでそこらへんに投げがちだから油断ならない。今夜は側に置いてあっただけまだマシと思うことにする。

 実験室の設備を停止させていく浦原隊長の忙しない背中に「まさか年が明けてすぐに隊舎まで来ることになるとは……」と言うと、肩を竦めた後ろ姿が「新年早々スイマセン」と苦笑した。
 全ての機器の電源が消えていることを目視で確認し、隊長と連れ立って第一実験室を出る。

「あ、隊長。大扉閉める前に特収室にも寄ります」
「特別収容室っスか? いいっスけど、なんでまた?」
「……隊長と同じように局で年を越した人がいるからです……」
「アッ……」

 思い浮かぶ人は一人しかいない。両目が据わったまま冷える両手を擦り合わせる私の隣を歩きながら、自分のことは棚に上げて「涅サンったらしょうがないんスから」と隊長が笑った。
 まあ、らしいと言えばらしいんだけど。部下としてはどちらの上司にも健康優先で少しでもお休みして欲しかったなぁ。どうせ今日も日が昇ったら普通に出勤して来るんだろうし。実質休みゼロじゃないか。

 仕事納めをした後、ひよ里ちゃんにはどうせ声を掛けたって無駄だから放っておけと言われたけど、流石に今夜ばかりは放っておけなかった。
 気になって結局床に就いてから半刻くらいで目が覚めてしまった。すごく悲しいけど、こういうところで「何だかんだ私もしっかり浦原十二番隊に馴染んでいるんだなぁ」と実感を得られる。いやな実感の仕方だけど。

 目を伏せた私が本気で呆れて物も言えなくなっていると思ったのか、浦原隊長が急に明るい声で「あ!」と手を叩いた。

「大事なこと忘れてた! 乙子サン!」
「はい隊長」
「明けましておめでとうございます! 色々迷惑かけると思いますけど、今年もよろしくお願いします!」

 ――こんな暗い地下区画では、空も月も雪も見えない。だって言うのに、浦原隊長は溌剌とした笑顔でそう言った。
 あまりに無害そうなその顔を見上げていたら、年が明けたばかりの今からすでに疲れてしまっている自分が馬鹿みたいに思えてくる。

 そう。そうですね。
 まだたった一年過ごしただけ。
 きっとこれから先、こういう年越しを幾年も経験していくはずだから、呆れるにはまだ早すぎる。

「……明けましておめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」

 寒さで赤くなった頬で微笑み返すと、浦原隊長はますます笑顔になって「よし、この流れで絶対涅サンに"今年もよろしく"を言わせるっスよ!」と拳をつくった。
 いや、そんなことしてたら次の年越しまでここから出られない。
 お願いだからさっさと帰って寝てください。


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