百年経ったら忘れるくせに

 それはとある日の午後。
 何やら客人の訪れている応接室の外を歩いていた一人の隊士が耳にしてしまった衝撃の会話。

「……ええ、はい。…………なら、早くて下半期……」
「だな。……でもいいのか? ……まで……」
「いえ、嬉しいお話しですよ、私としては」

「では、引き抜きの件は私から隊長へ内々に伝えておきますので、今月末までに書状をお願いします」

 思わず瞬歩でその場を去ってしまった。
 歩法を使ってまで性急に応接室から離れたのは、室内から聞こえてきた言葉に譬えがたい衝撃を受けたからだった。

 聞こえてきた声の片方は、我らが十二番隊第四席、万能の人・水月乙子。毎日耳にする、柔らかさと静けさを併せ持った声。聞き間違えるはずも無い。
 もう片方は恐らく――、

「う、……浮竹隊長……!?」

 十三番隊の隊長・浮竹十四郎。今までお隣という理由で十二番隊を気にかけてくれていた、四番隊の卯ノ花隊長と並ぶ護廷十三隊の良心と言うべきお人。曳舟前隊長が昇進してからしばらく様子を見に来てくれたりもした。基本的に、十二番隊に浮竹隊長を嫌う者はいないはずだ――涅三席を除いては。

 浮竹隊長がわざわざ応接室まで話をしにやってくる、という状況から考えるに、いつものお裾分けや散歩のついでの様子見、というような片手間の用件でないことは明らかだ。
 しかも今日の訪問は隊の方には知らされていないはずだ。普通、来客の予定が予め決まっている場合は詰所の掲示板に日にちや時間を明記しておくはずなので、それをしていないということは、この訪問を内密にしておきたい理由があるということ。

 内密に浮竹隊長が応接室で、乙子さんと。
 しかも引き抜きとか言わなかったか?
 ――まさか、乙子さんが?

「たッ大変だッ……!!」

 隊士は自分が抱えていた用事のことなど忘れ、一目散に来た道を引き返した。
 真剣な、そして鬼気迫る表情で。
 いま水月乙子が消えるとなれば、最早十二番隊は隊として機能しなくなる……そんな強い確信めいた予感があったからである。

 のほほんとしていてあんまり頼りにならない現隊長とか、気難しすぎてあまり話しかけたくない三席の顔なんてこれっぽっちも脳裏には浮かばなかった。何故って頼る選択肢が無い。


* * *


 由々しき事態である。けれど上官は頼れない。
 そういう訳で、聞き耳を立ててしまった隊士こと自分は、一旦詰所に戻って来た。

 用事があると退室したのになんで戻ってきた、と不思議そうな目を向ける同僚達を無理矢理詰所の隅に集め、手に持っていた書類で口元を隠しながら今しがた耳にしたことを打ち明けた。
 ……悲鳴が上がりそうになるのを慌てて制する。と同時に「まあこの反応が正解だよな」と納得した。(技術開発局の運営には携わっていない)十二番隊の隊士にとって、乙子さんのいない十二番隊というのは何よりも恐ろしく、そして現実味のある最悪の未来として胸に迫ってくるのである。
 想像するだけで吐きそうになる。顔色が悪い者もちらほらいる。

 何故かと言えば、十二番隊隊長に就任してもうしばらく経つ浦原隊長が、乙子さんの有能さ故に未だ十二番隊の隊運営の全貌を詳細には把握し切れていないからだ。
 もちろん隊長は隊長であるから、乙子さんが例えば一日二日程度休んだ場合であれば、代わりに許認可印をこまめに捺し、隊士の様子を確認し、書類を捌き、他所の隊士や隊長と必要な交流を図ることは出来るだろう。
 だがそれがこの先恒久的に要求される、となるとどうなるか。

「無理だろ……」
「無理ね……」
「絶対終わるよウチ……」

 ほぼ全会一致でこれだ。

 浦原隊長が他に比べる者がいない程有能なお人であることは今更誰も疑わないが、それが十二番隊――ひいては隊士達に適した"能"であるかどうかと問われれば、答えに窮してしまうのが現状だ。

 実際、就任直後はしばらく浦原隊長と十二番隊の性質があまりに違い過ぎて歩み寄り方もわからず、元々十二番隊に所属していた上位席官が揃って他所へ異動してしまった。
 それでも残ってくれた乙子さんが間を取り持ち、長いことほとんど一人体制で隊運営を管理してきたからこそ、今の十二番隊の形がある。
 十二番隊の心臓である乙子さん、技術開発局を動かす涅三席、その二つを補助し時には道を矯正し直す猿柿副隊長。そしてその両方を両腕として上に立つ浦原隊長。
 これこそがやっと辿り着いた浦原十二番隊の正しい動き方なんだと信じてやまなかったのに。

 "心臓"が無くなれば、あとは絶命するのみであるのは考えずともわかることだ。

「ど、どうしよう……引き留めたらなんとかなるか……?」
「乙子さん、まさか隊長に愛想が尽きて出て行くんじゃないだろうな」
「涅三席かもしれないわよ、言動がいつも酷いもの……」

 誰一人として否定する者はいなかった。
 乙子さんがあまりに平然と受け流し文句の一つも言わないので皆忘れがちだが、涅三席の乙子に対する日々の言動は、たぶん他の隊士が同じものを受けた場合三日と保たず心を粉砕される程度の威力を有している。

 例えば本当に乙子さんが異動を検討しているとして、その理由が「業務に関係の無い人格否定にまで及ぶ罵詈雑言」だとしたら、十二番隊の誰も彼女を引き留めることは出来ないだろう。

「せめて涅三席がもう少し言葉を選んでくれたらなぁ……」


「私は常に場に適した語彙を用いて会話をしているヨ。君達凡人と違ってネ」


 今度こそ「うわーーーーー!!」と大絶叫が詰所を劈いた。流石にもう誰も静かにしろだなんて言えなかった。全員が綺麗に揃って悲鳴を上げたからだった。
 特徴的な声のせいで振り返らずとも相手が誰かはわかってしまう。件の涅マユリ三席だ。

 浦原隊長が『蛆虫の巣』から連れ出した奇才。浦原隊長の一挙手一投足に心の底から怒り、乙子さんの一挙手一投足に本気で苛立ち、真剣に引いている。……自分の情緒にとても正直なのかもしれない。

「それで、水月は何処かネ? 君達が喧しく水月の名を連呼しているから此方に来たのだが?」
「い、いや涅三席、それどころじゃないんですよ!」
「"それどころ"などと君に私の用件の重要度を評価される筋合いは無いヨ」
「本当なんですってば!!」

 普段ならば涅三席と目が合っただけで発言の六〜七割は自重しようと自ら決意するが、今はそんなことを言っている場合では無い。
 普段は乙子さんの背後に隠れて自己主張をしない平隊士達が揃って「大事件なんです」「もう十二番隊は終わりです」と捲し立てるので、流石の涅三席もほんの僅か嫌そうな表情になりつつ「マァ一応聞くだけ聞いてやろう。私は親切だからネ」と顎を引いた。

 応接室の前で耳にしたことから推測出来ることを簡潔に伝えると、涅三席はまるで「なんだそんなことか」と言わんばかりに眉(のある場所)を潜めてしまったけれど。

「馬鹿か君達は。水月が自らの意志で此処を離れる理由が無いだろう」

 貴方が理由の最有力候補なんですが!? とは誰も言えなかった。
 事の重大さが伝わっていないのか、涅三席はあくまで心底つまらない話を聞かされたような退屈そうな表情を浮かべ、握っていた書類で壁を叩く。

「過度な労働や極度の残業を強いられることも無い。上司にも恵まれている。部下には若干考え足らずの気があるのは否めないが……これ以上の好条件の揃った隊が他にあるか? いいや無いヨ」
「どこから来るんですかその自信!?」

 我慢出来ずにツッコんでしまった隊士が一人、思い切り書類で頭を殴られた。音が鈍器のそれだった。間違っても紙で叩いたような軽い音では無かった。
 罪も無い隊士一名を速攻沈めておきながら平然と、

「君達こそ、何年彼女と付き合ってきたのか知らないが──そんなことも判らないのか」

 ――言葉の選ばなさに、流石にカチンと来た。

 そもそも、出会ってまだ数年の浦原隊長や涅三席が知った顔をして乙子さんを語るのが気に入らなかった。前隊長時代から乙子さんと共に働いて来た自分達を差し置いて一体何を言っているのかと。彼女の何を知っているんだと。
 何より、彼らのなかに共通して見えているらしい水月乙子という像の輪郭が、自分達には見えていないことが腹立たしかったのだ。

 遠慮も容赦も無い、悪く言えば傲慢な物言いで何人かの霊圧が僅かに揺れる。
 こんな状況でも流石と言うべきか、涅三席はまるで他人事のような表情で溜め息を吐いただけだった。

 暴力沙汰は絶対に無いが、それでも浦原十二番隊始動以来初めての険悪さが場の空気を淀ませ始めた頃。

「……あら、皆さん集合してる。どうしたんですか?」

 渦中の乙子さんが涅三席の背後からひょっこり顔を出した。
 そのいつも通りの穏やかな微笑を目にした瞬間、涅三席への怒りなど忘れて「乙子さん引き抜き」「無理死ぬ」と元の混沌とした絶望が駆け戻ってくる。
 サッと顔色を悪くしたこちらを流し見、「今度は顔色が……何か事件でも起きたんです?」と乙子さんは側の涅三席を見上げた。

「君が引き抜かれると大騒ぎしていたヨ」
「私がですか? なぜ?」
「私が知るものか。ただ君のせいで余計な迷惑を被ったのは確かだ、誠心誠意謝り給エ」
「えー……すいません……?」

 硬直して動けないこちらを他所に、二人はいつも通りぽんぽんと会話を続けていく。
 そうしている間に事の顛末を粗方涅三席から聞き終えた乙子さんは、あっけらかんと笑い「いやー無いですねぇ」と首を振った。

「先程いらしていた浮竹隊長のご用件は、席官昇進を見据えたウチの隊士の引き抜き……その打診です。内示と異動自体はまだ先の予定ですけれど、本人さえ頷けば日程前倒しの引き抜きをご希望でしたので、少し話が長引いてしまいました。――福浦くんが聞いてしまったのはその話でしょう」
「……はぁ……」

 要するに早とちりの勘違い。
 四方八方から肘や拳が飛んで来て体中が痛い。……が、乙子さんの引き抜きとかいう最悪の事態を回避出来た安堵の方が大きくて、殴られているのはあまり気にならなかった。

 涅三席は握っていた書類を乙子さんの頭に放ると、「目を通しておけ。三日後に監査が入る」と言い残してさっさと開発棟の方向へ歩みを始めてしまう。放られた書類を引き受けながら、乙子さんが三日後!? と悲鳴を上げた。
 ……大体いつもこうだ。正直、十二番隊がこう・・なってから、乙子さんは大変な思いばかりしている。

 浦原隊長がこちらを顧みず進んでいくおかげでやることは増える一方だし、涅三席は乙子さんの献身にこれっぽっちも感謝の姿勢を見せない。
 もしかしたら本人は何かしらの態度で示しているつもりなのかもしれないけど、多分乙子さんを含め他人に伝わることは無いだろう。こんなのは酷い。
 別に彼らのことを心底嫌っている訳では無いけども、乙子さんが大切にされていなかったり、蔑ろにされている様子を見るのは嫌な気持ちにさせられる。

 自分達十二番隊残留組には、乙子さんを頼りにする気持ちと同時に、"曳舟前隊長から乙子さんを任された"という自負があるからだ。

「……乙子さん、あの」
「はい?」
「……涅三席のこと、……辛くないですか?」

 恐る恐るそう訊ねると、乙子さんは眼鏡の奥で瞳を丸くしたのち、少し考える素振りを見せた。
 柔らかさらさらな髪が肩を滑っていいにおいが微かに香った。ちょっとした仕草もたおやかで美しく映る。こんな美人に油断していたら躊躇無く手を挙げようとするんだから油断も隙もありゃしない。

「んー……そうですね、"あーやだなー"と思う瞬間はありますけど、涅さん本人に対してと言うよりは涅さんが持ってくる事柄に対してですから。涅さんのことは別に嫌いじゃないですよ、全然」
「……毎日あんな扱いをされてるのに、乙子さんはもう少し怒っても罰は当たりませんよ」
「あはは、確かに。三日前に立ち入り監査のお知らせ受けるのは怒ってもよかったかもですねぇ」

 別に嘘や捏造で悪口を言っている訳じゃなく、乙子さんが涅三席から酷い扱いを受けているのは周知の事実なんだけど、内容が内容なので自然と声を潜めてしまう。
 顔を顰めた自分を見遣り、乙子さんは少し眉を下げ困ったように目を細めた。細い首を傾げ、指先で頬を掻く。

「でも涅さん、根本的に私の嫌がることはしないんです」


 信用が前面に洩れ出るように緩む眦。
 日々心無い言葉に晒されているのに、催促したって恨み言の一つも出てこない。
 それはきっと対照的に見える二人の間にのみ存在する見えないつながり。


 それを絆だなんて綺麗で温かな言葉に当てはめたくないと思ってしまうのは、彼女達には何の関係も無いこちらのエゴだ。

「だから私、涅さんのことは好きですよ」

 奇妙で不可解な信頼だと思う。
 阿吽の呼吸、あるいは以心伝心と呼ぶにはあまりに冷酷で波長の合わない二人であるはずだ。どう見たって、二人の性格は違っていて、噛み合うところはそう多くない。

 だけど――廊下の奥へとうに消えた涅三席の白衣の背中を追うように振り返った乙子さんが、あまりに穏やかな眼差しをするので、それ以上何も言えなくなってしまった。
 この絆の正否を口にすることの無意味さを痛感してしまったんだと思う。二人を繋ぐ糸はあまりに脆く不確かで、誰かが言葉にした途端呆気なく千切れてしまいそうで、そんなところは冗談でも見たくなかった。
 乙子さんが悲しむところは見たくないから。

「……涅三席は果報者です」
「ううん、そんなこと無いですよ。今の話聞かれてたら、きっと嫌な顔されちゃう」

 だから内緒ね、と笑った乙子さんに頷いた。
 見慣れた優しい苦笑のなかに一抹の後ろめたさのような翳りがあった理由は、よくわからなかったけれど。


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