夢のほつれを引いたりしないで

「なにを考えているんですか」

 おそらくそれはボクらが初めて目にした、彼女の剥き出しの怒りだった。

 いつも自然な仕草で組まれていた手の平は、皮膚が真っ白になるほどの力で拳を握っている。短く切り整えられている爪が皮膚に食い込む音が聞こえそうなほど。
 唇を噛み締め強張った表情のまま、小さくそう言った乙子サンの双眸はこれ以上ないほど冷え切って――その全身から発散されている怒気で怒っていることは解るものの、眼鏡のレンズ越しの瞳には逆に何も映り込んではいないように見えた。
 滑らかな氷のように冷たい眼差しが床に倒れ込んだ、あるいは座り込んだままのボクらを射抜いて身動ぎ一つ許さない。

「……聞こえませんでしたか。なにを、考えて、いるんです」

 声は震えている。
 先ほどよりも大きな声を出したせいかもしれない。
 誰かが一言でも言葉を発すればその瞬間糸が切れ、何か取り返しのつかないことが起こりそうなほど緊張した空間で、その緊張の発生源である乙子サンが問うている。

 訊かれたことには答えるべきだ。
 十二番隊・技術開発局の構成員全員から好かれている彼女が訊ねているんだから、もしこれが日常の問答なら彼女に二度目を強いる必要はなく、誰かが素早く回答を口にしていたことだろう。
 それをしないのはきっと、何をどう答えるべきなのか、何をすれば彼女の破裂寸前の怒りを抑え込むことが出来るのか――この場にいる誰にも判らないからだ。

 チラリ、とボクは最小限の動作で近くにいるはずの涅サンの様子を探る。
 こんな状況で自分でもどうかと思うけど、乙子サンが初めて普遍的な感情を露わにしているのを目にした彼がどういう反応を示すのか気になってしまった。


 果たして涅サンは、硝子のような目で何も言わず、じっと乙子サンの白い顔を見上げていた。


 何を考えているんだろう、と思いを馳せたのも束の間、

「――答えて下さる気は無いんですね。なるほど、それでしたら結構です」

 乙子サンの氷のような視線が涅サン、それからボクを引っ掛けていき、すぐに嘆息と共に逸らされた。
 あ、不味い。

「あ、あのー乙子サン……」
「顛末書は私が捏造します。説明報告は不要です。皆さん速やかに、具合が悪いところなど無くても、まず全員四番隊に行って下さい。以上です」
「あの、」
「以上です」
「…………ハイ」

 取りつく島も無い。
 かろうじてボクが返事をすると、とうとう乙子サンは関心を失くした風に顔を逸らし、怖いくらいいつも通りに研究棟を後にした。
 鉄扉が自重で閉まる軋んだ音が響き、ようやく室内に正常な音が戻ってきたような気がする。

 しっかり乙子サンの冷たい霊圧が開発局内から離れたのを確認したところで、女性局員達を皮切りに全員が一斉に騒ぎ出した。

「ど、どうしよう……乙子さん、すごく怒ってた……」
「怖かった……」
「嫌いになっちゃったかな……!?」
「やだーーー乙子さん嫌わないでーーー!」

 局員曰く『美人で優しくて寛大な乙子さん』に絶対零度の眼差しと滲み出る怒気を向けられたことで、局員達は軽いパニックに陥りつつある。
 ……困ったな、と再び涅サンの方を盗み見た。

「……ああいう顔も出来るのか、あの女」

 こっちもこっちで困ったなぁ。


* * *


 事の顛末はこうだ。
 研究棟内で大規模研究の一次報告会を開いていたボク達だったけれど、その途中なんらかの薬品反応で有害物質が発生してしまった。
 普段扉は確実に密閉され、窓の無い地下実験区画で発生した異常事態に誰も気付かず、気が付いた時には乙子サンが綺麗に意識を失って倒れている局長副局長以下局員……つまり技術開発局全局員を発見し絶叫していた。

 恐らく室内を満たしボクらの意識を刈り取ったのは、酸素を脳に送る働きを阻害し意識障害を引き起こす無臭無色の気体だったんだろう。おかげで誰も異常に気付かなかった。
 幸いだったのは、窓の無い地下区画には半刻間隔で自動稼働する換気システムが、たまたま脳や身体に後遺症を引き起こすほどの重態に陥る前に稼働し、乙子サンが入ってくる直前には換気口を通った有害物質が濾過フィルターを経由して無害な気体として地上へ排出されていたことだろう。
 それがなければ、十二番隊の心臓と言っても過言ではない四席を道連れに集団死を引き起こしてしまうところだった。

 ――乙子サンに怒られなくとも、事態の深刻さは理解している。
 彼女はああ言ったけど、顛末書だって自分で書くつもりだ。
 ただ、普段もっと外部にも迷惑を吹っ掛けかねないミスを起こした時は笑って許してくれる乙子サンが、誰にも弁解の余地を与えず、拒絶するように立ち去ったことだけが、なんとなく心に引っ掛かっている。


「それはそうでしょう、浦原隊長」
「へっ……あ、ハイ。……スイマセン、もう一度お願いします」

 首の後ろを触りながら苦笑すると、目の前で診療録をつけていた卯ノ花隊長が溜め息と共に「まだ意識が明瞭でないようですね。やはり精密検査、受けていかれますか?」と言った。
 それを辞退して、律儀に繰り返された言葉の意味を捉えようとしてみる。

「それはそう、って……そもそも"それ"とは?」
「本当に彼女が怒った理由が判らないんですか? 心当たりすらも?」
「いやぁ、そりゃあ管理者ボクがいながらこんな大事故寸前までいったことに怒ってることなら"そりゃそう"だと思うんですけど……ボクが思い至るってことは、これは"それ"じゃないってことっスよね」

 検査を終えた最後の局員が、背後を通って扉に向かっていく。去り際会釈をしたのでそれに返すと、卯ノ花隊長は微笑み「お大事にしてください」と四番隊らしい見送りをしてくれた。
 もちろんボクもすでに検査は終えている。

 四番隊で五体満足・健康状態に問題が無いことを証明して来なければ乙子サンが二度と口を利いてくれない勢いだったので、実験室の片付けもそこそこに全員で四番隊を訪れたのだった。
 全員が口々に「嫌われた……」「世界の終わりだ……」とぶつぶつ言っているものだから、団体で訪れたボクらに最初は呆れていた四番隊の面々も、最後には「誠心誠意謝れば大丈夫よ」などと励ましてくれていた。たぶん、彼ら彼女らが言うのなら結果はそうなんだろう。

 ボクはただ、結果の裏側にある彼女の思考に興味がある。

 普段の乙子サンじゃないが、失敗した時こそ同じ轍を踏まないよう原因究明と反省はしっかりした方がいいと思うし。こんなことを繰り返していたら流石に技術開発局の信用問題に発展しかねないし。
 ただの不注意ではここまで怒るはずもない乙子サンが、口も利かないほど怒っている理由が知りたいし。

 罪悪感と比例するように湧き上がる好奇心を内に秘めながら、もっとまともな上司なら部下にあんな顔をさせることすらも無かったんだろう、と他人事のように想像する。
 可哀想にな、乙子サン。

「水月さんが常に、何もかもに怒りを抱くような気性の荒い人ではないことは、浦原隊長はすでにご存じでしょう」
「ええハイ、それはもう。あんなに穏やかなヒト他に知りません」
「なら、彼女が怒りそうなことを羅列して考えてみては? 思い当たる節が少ないのなら、今回の貴方の……貴方達の行いがそのどれかに該当する可能性は十二分にあるのではないですか?」
「はあ……」

 どうやらボクがそれらしい解を得るまでは付き合ってくれるつもりのようだ。
 ……いや、どちらかと言えばボクの手助けというより乙子サンの手助けか。
 卯ノ花隊長と乙子サンもかなり長い付き合いのようだから、腹の底では彼女の怒りを理解しない鈍いボクを少しでも前進させて、彼女の負担を減らそうとしているのかもしれない。

「経費の濫用、不摂生、過度な残業……あ、廊下で寝るのも結構しっかり怒られますね……」

 「廊下で……」卯ノ花隊長の小さな呟きに余計なことを口走ったことを知るが、敢えて反応しないことでこれ以上突っ込まれるのを防ぐ。そうか、他所の隊長は廊下でなんて寝ないものか。
 益々、日々乙子サンに掛けている心労が急に目につくようになってきて、申し訳なさに蟀谷のあたりをちくちく刺激される。

「……卯ノ花隊長は、乙子サンが怒ったところを見たことがありますか?」
「あら。技術開発局局長ともあろうお人が、もう降参ですか?」
「うーん、降参ってワケでもないんスけど……単なる好奇心というか」

 そう言って首を傾げると、卯ノ花隊長はそうですね、と頬に手を当てた。

「数十年前に一度だけ。猿柿さんと一日口を利かなかったことがあったと思います」
「え、ひよ里サンと!? 考えられないっスねー……」
「でしょう。普段はとっても仲が良いですから。だからこそ、とも言えるのですが……」

 仲が良いからこそ。強い怒りとは無縁そうな笑みを浮かべ佇む乙子サンの顔が脳裡に浮かんで消える。
 普段は彼女の考えていることは凡そ理解出来るから、余計に今の状態に違和感が拭えない。こういう時、いくら似ていても彼女とボクが全く違う存在であることを実感させられる。

 考え込もうとするボクの背後から、卯ノ花隊長を呼ぶ隊士の声が飛んできた。
 それに応えながら、診療録を綴じ棚に仕舞い卯ノ花隊長が椅子から立つ。それを視線で追う。
 気が付けば時刻はじき夕暮れ。西日の橙色に染まる横顔が、ふいに視線をこちらに流す。

「貴方はそこまで鈍くはない・・・・・はずです。そうですね、やはりしっかりと考えて誠心誠意謝るのがよろしいと思いますよ」
「買い被りすぎ――とは口が裂けても言えないっスね。もし買い被りだとしたら、申し訳なさで乙子サンの目を真っ直ぐ見られなくなりそうだ」
「ふふ。もし一思いに斬られてしまった時は、せめて綺麗に縫合して差し上げます」

 うーん、袈裟斬りと見せかけて逆袈裟っぽいなぁ。乙子サンはそういう牽制をしてくるから。




 気持ちゆったりとした足取りで十二番隊舎に戻ると、隊首室の扉の前でひよ里サンが立っているのが見えた。
 目が合うなり、ドスドスと足音を立てながら大股で歩み寄って来て、勢いをつけて肩を殴りつけられる。「痛いっスよ、一応病み上がりなのに」と苦笑すると、猫のような目の眦を吊り上げて悪態を吐かれた。

「乙子カンカンやぞ」
「それは本当にスイマセン。ちなみにカンカンなのに仕事熱心な四席サンは今何処に?」
「解ってて訊くの、ほんまに最悪」

 まるで乙子サンを守ろうとしているかのように、今日のひよ里サンは吐く毒にいつもの勢いが無い。淡々と詰ってくる感じはどちらかと言えば涅サンや乙子サンに似ていた。
 なるほど、乙子サンが沈むとひよ里サンはこういう風になるのか。

「スイマセン。迷惑かけます」

 眉を下げ笑うと、ひよ里サンはしばらくこちらを睨みつけていたが、やがて怒りを振り切るように首を振り、最後に一度だけボクの肩を殴りつけた。
 小さな拳が直撃したところを擦りながら「スイマセン」と繰り返す。

「……初瀬の餡蜜!」
「お安い御用っス」
「ウチと乙子の分!」
「仰せのままに」

 隊首室の入口を譲ってくれたひよ里サンの横をすり抜け、引き戸の引手に手を掛けた。



「私は結構です」

 隊首室の戸を閉めるなり、中にいた乙子サンはそう言った。
 ボクが積んでいた仕事を片付けてくれていたのか、大氾濫という表現が相応しかった机はある程度片付き、滑らかな金属の天板が見えるようになっている。

 書類を留め具で仕分けながら、視線をこちらに寄越すことなく淡々としている頑なさについ苦笑が洩れた。
 表面的にはすでに怒りは読み取れず、落ち着いた声音で静かに拒絶の意を示しているあたりは特に始末が悪い。

「昏倒していた局員はボク含め全員健康状態に異常なしでした。すでに通常業務に戻ってもらってます」
「わかりました」
「……餡蜜、ほんとにいらないっスか?」
「はい」

 ……ひよ里サンの言葉の意味を考える。
 彼女が自分と乙子サンの分、とわざわざ名言したのだから、乙子サンが餡蜜を嫌っている可能性はゼロだ。
 だのに「いりません」と頑なにこちらを視線すら向けないのは、決定的な言葉・やり取りがまだ欠けていて、乙子サンがまだボク――昏倒していた技術開発局の局員に対して怒っている証左に他ならない。そう思う。

 ついでに唯一隊首室に残した椅子にしっかり腰掛け動く気配がない様子から、「私はここで隊長が溜め込んだ仕事を片付けますのでどこかに行ってください」と言わんばかりの圧を感じる。
 弁解すら許してもらえないのは初めてだ。

「乙子サン」
「はい」

 ――普段はとっても仲が良いですから。だからこそ、とも言えるのですが……

「ごめんなさい。心配かけました」

 頭を下げる。
 乙子サンは俯かせていた顔を上げ、ぱちりと瞬きをしていた。眼鏡のレンズの奥で長い睫毛が震えるのが見える。
 毒気を抜かれてしまったような表情。
 下手な言い訳をするよりも、素直に謝った方がいい。卯ノ花隊長が言った通り、彼女は他人の誠意や素直さに弱い傾向にある。

 薄い唇が小さく開き、迷うように閉じるのを繰り返しながら、乙子サンはボクの顔を穴が開くほど凝視していた。
 物静かな彼女が浮かべるには少し幼い表情のように思えた。
 まるで生まれてはじめて虹を見た子供みたいな、そんな顔。

 影の薄かった罪悪感が胸のなかで急速に輪郭を得ていく。居心地の悪さに頬を掻いた。

「アナタの十二番隊大事なモノに、危うく傷をつけるところでした。ボクの不注意っス。事故防止策含め、研究室のシステムをいじって報告付けますから、やっぱり顛末書はボクに――」
「……困ります」

 小さな呟き声がボクの言葉を遮る。
 いつの間にか乙子サンは困ったように眉を下げていた。戸惑いに瞳を曇らせながら、微かに首を横に振る。

「顛末書はもう粗方書き終えました。今更内容を改竄されるのは、困ります」
「あちゃー、それは確かに……」
「……それに、その」

 珍しく言い淀む乙子サンの顔がなんだか普段とは別人のように映ってしまう。ただ、全体的な落ち着いた雰囲気だけは健在で、ぴしりと背を伸ばして椅子に座る姿と言葉を探すように彷徨う眼差しが余計に不釣り合いだった。
 この静かできれいな人をここまで不安定にさせるようなことをしでかした、事の重大さ。その重さ。
 鉛のように重いものがそのままそっくり罪悪感として身の内に居座っているって言うのに、ボクは幾重にも重なる罪悪感の内側で自分にそんな人らしい情動が存在していたことへの驚きを抱えている。

「……私、そんなことを求めていたんじゃなくて。……確かに皆さんらしくない不注意と事故には驚きましたし心臓が止まるんじゃないかと思ったんですけど、……怒りを感じた訳では、なかったような気がします」
「はい」
「……そうです、ええ。隊長の言う通りです」

 微かに頷きながら、やがて乙子サンはかそけき声で、けれどはっきり「心配しました」と言った。
 静かな表情とは裏腹に彼女の両手は拳が白くなるほど強く握り込まれてしまっている。まるで何かを堪えるような、あるいは遣る瀬無い思いをぶつけるような力強さで。
 ぎちぎち音を立て爪が皮膚を破らんばかりの勢いだったので慌ててその手を解かせると、ボクに両手を掴まれたまま乙子サンは俯く。
 息を吸い、吐く音が小さく聞こえる。

 互いが間違いなく死んでいないことを確かめ合いながら、同時に感情の精製処理が下手すぎる己の姿を、互いの瞳の奥に見ていた。
 ボクらの下手さ・・・は指向性が似ている。

 似ているからと言って相性が良い訳でも無い。
 似ているだけで在り方の根本は別物だから、距離感や思考にズレが生まれるとどちらかが傷付く。日々が上手く回らなくなる。
 改めて、此処がいかに脆い箱庭であるかを思い知った。

「……隊長、あの」
「ハイ、なんでしょ」
「……、……顛末書も、他のことももういいので、代わりにいくつかお願い事をしてもいいでしょうか?」

 恐る恐る、という風に切り出された問いに勿論、と頷く。

「……こういうことが起こると怖いので、もし開発棟の方に何か異常が起きた時は、隊舎の方に知らせる装置みたいなものを作って欲しいです。出来れば隊首室と、詰所に」
「ええ、勿論」
「それから、開発棟の研究室の自動換気を、四半刻間隔に変えて欲しいです」
「顛末書の防止策に入れようと思ってたっス。それは今日中に仕様変更しますね」
「それと――」

 言いづらそうに唇を閉じ、様子を窺うように瞬きを何度か繰り返した。硝子のような瞳が夕暮れの光に溶けてしまいそうだと思った。
 きれいな人だ。
 意思の硬さは大理石のように滑らかで冷たく、余分の入り込む隙は無い。

「――こんな恐ろしい思いをするのは沢山です」
「……」
「もう二度と、こんな事故は起こさないで下さい……」

 乙子サンの両手が震えている。握って爪を立てないよう一生懸命堪えているんだとわかった。
 あらゆる感情が彼女のかげろうのような心を打ちのめしている最中なのかもしれない。
 ボクはもう何も言えなくなって、何度も強く頷いて応えた。

「ごめんなさい、乙子サン、本当にごめんなさい」

 とうとうボクが謝罪しか口にしなくなったので、乙子サンは強張った顔をやがて緩め「謝る暇があったら餡蜜買ってきて下さい」と眉を下げて苦笑した。
 それが悲しくなるほどやさしい微笑みだったので、ボクはまた首が取れてしまうくらい何度も頷いたのだった。


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