名簿にない花の名

 再会のきっかけは鍵だった。


 そろそろ二十三時を回ろうかという時間帯、スマホのライトを頼りに夜道を歩いていたら、コンクリートを照らしていた光で突然人の背中が浮かび上がったので、思わず「うわっ」と結構な声量で洩らしてしまった。
 街灯も周りにない高架下にまさか人がいるとは思っていなかったからとても驚いた。こちらに背を向けてしゃがんでいる後ろ姿はオレンジと白のスカジャンで、狛犬とシーサーを足して二で割ったような刺繍が入っている。
 私の声と光に反応して、大きな背中がくるりと首だけで振り返った。

「わぁ、びっくりした……急になにぃ……?」
「す、すいません……まさか人がいるとは思ってなかったので……」

 びっくりしたと言う割にあまりびっくりしていなさそうな調子の声だ。あまりに堂々と困惑している風なことを言うので、口が勝手に謝った。
 謝りながら、気付いてしまう。――以前夜道で絡まれていたところを(かなり暴力的に)助けてくれた青年だった。
 色のついたサングラスを頭に載せてスカジャンを着ているしおまけに後ろ髪を結んでいるけれど、それ以外はほとんどあの夜見た姿のままだ。

 なんだか探し物をしている風だったので、以前助けてもらった身で恩人が困っているのをスルーすることも出来ず、煌々と光を放つスマホ片手に恐る恐る側へ寄っていった。
 深い緑色に見える瞳を猫のように細め眩しがるのをじっと見つめながら、「なにか探してますか?」と訊ねる。彼は関心のない世間話をするような感じで「うん、そう」と言った。
 とっくに彼の視線は暗い地面に戻ってしまっていた。その様子はあの夜血塗れのチンピラの胸倉を呆気なく手放した時の、あるいは私をすぐさま意識の外に追いやって去っていった時のあまりに早い無関心に通ずるものがあった。

 会話が続くような雰囲気でもなかったし、私も更に突っ込んで事の次第を訊ねる勇気もなかったので、無言でスマホのライトを彼の手元に向けてやることしか出来なかった。
 出来なかったが、少し臆病で卑怯な手助けがどうやら彼の関心を再びこちらに引き戻したらしかった。

「………………、……あー、なんか見たことある顔ぉ……」
「そ、そうですね。初めましてではないです」
「待ってぇ、考えるから」

 大きな両手で頭を抱え、目を閉じて数十秒。
 最早脳内検索に私の顔はヒットしなかったんじゃないかと思うくらいの沈黙を経て、彼はやっぱり大して驚いていなさそうな声音で「ああ!」としゃがんだままこちらを見上げた。

「夜歩きしてた子でしょぉ、青いパーカー着てた……」
「はい。その節はありがとうございました」
「なんでまたこんな時間にひとりでほっつき歩いてんの?」
「…………まあ、色々あって」

 と言って今度は私が黙り込み、彼は「ふうん」とだけ言って曖昧に頷いた。私は私の夜歩きの理由が人にとってはくだらないこと、幼稚に映ることを知っている。下手なことは言わない方がいい。
 ……というか、そもそも先に質問したのは私なのに、何も答えてもらっていない。答える義務はないと言ったらそれまでだけど、明らかに探し物をしている彼をこのスマホの明かりがなければ真っ暗闇に満ちた高架下に置いていくのも気が引けるし。
 悩んでいると、彼はまた唐突に「鍵をねぇ」と喋り始めた。それが本当に、あまりに唐突だったので私はちょっと驚きつつ、鍵を、とオウム返しにした。

「ここらへんで落っことしたっぽいんだけどぉ」
「……このあたりで落としたんですね。手伝います」
「ええ? なんで?」

 なんでと言われたって。大層な理由はない。普通、人は目の前で困っている人を素通りしては行けないと思う。どんなにちっぽけでも良心というものがあるから。
 それでも強いて言うなら、私は彼に一度助けられているからだ。

「一度受けた恩はそうそう忘れないので」
「……鶴の話?」
「しっかり人間やらせてもらってますけどね」

 下手くそな冗談を緊張と多少の人見知りで終始強張った口調で言ったのがおかしかったのか、しゃがみ込んで地面を探っていた彼は肩を揺すって笑いを堪えるような仕草をした。

 笑うと少し幼く見える。別に老け顔とかではないけど身体が大きいので、年相応に笑っている様を見ると年が近いんだと実感出来た。
 無造作に跳ねた黒い髪。その奥で三日月のように細くなる瞳は思いのほか理性の光を淡く宿しているように映った。
 見た目では素性がまったくわからないし、彼が私と同じように日中学校に通っているところは正直想像がつかないが、彼の姿は私をちっとも嫌な気持ちにはさせない。
 学校の廊下や教室の邪魔なところでたむろしては下品な話題で笑っている同年代の男子達とは全然違う、と思った。

 いい加減懐中電灯代わりで充電の消費が早いスマホ片手に私も鍵の捜索に参加する。途中、鍵に何かキーホルダーのようなものはつけていないのか訊ねて「ない」と即答され肩を落としたり、スマホを持っているなら同じように懐中電灯モードにして明かりを足すべきだと助言して感心されたり(スマホの操作自体がおぼつかないような感じがする)しながら十数分――。

 「あっ」と私が声を上げた数秒後、背後で彼が「あぇ?」と緩く共鳴した。

「こ、これ、絶対これでしょ、これに決まってる! そうだって言って」
「待って待って、ちかい、見えないよぉ」
「ちゃんと見て!」
「なんか圧強くなぁい……?」

 本当にキーホルダーも何もついていない裸の鍵を彼の眼前につきつけると、彼はぎゅっと目を細めて銀色の鍵ひとつを凝視する。
 ややあって「これだぁ!」と強くうなずいたので、思わず地面にへたりこんでしまった。

「よ、よかったぁ……」

 形からしてたぶん家の鍵だろうと思った。例えば自転車とか、よくわからない細々した鍵だったならここまで真剣に探すまい。
 私があまりにほっとしているので笑いながら、彼は気の抜けた表情で「大袈裟だなぁ」と言った。

 私はえ? と心の中でひっかかりを覚えた。家の鍵なんて失くしたら一大事だろう。鍵を開けられないということは、他の家族が帰っていなければ家には入れないし、落とした鍵を見ず知らずに他人に拾われて、挙句悪用される可能性だってある。
 そういうことを考えたら、大袈裟なんてもんじゃない。子供にとって家の鍵って言うのは、そういうものだと思う。
 小学生くらいの頃、一度だけ家の鍵を失くしたと本気で思って三十分ほど玄関の扉の前で立ち尽くしたことがあるから、わかる。
 けれど彼が浮かべる表情は、その絶望の記憶とまったく繋がらない。
 私は目の前で突然異文化を見せつけられた外国人のような心地で、垂れ目を細くして笑う彼の顔をまじまじと見た。

「なに?」
「あ、……いえ。なんでも……」

 ……この年にもなってそんな子供心に絶望した思い出をはっきり思い出せるなんて、私はいつまで"鍵っ子"の記憶を引き摺っているんだろう、と恥ずかしくなった。
 俯いた私の顔を覗き込もうとする眼差しに耐え切れそうもなくて、私はさっと立ち上がった。スカートの裾を払い、では、と言って高架下を越えるため歩き出そうとする。

「あー、うん。ありがとうねぇ」
「落っことしても見つけやすいように、キーホルダーとかつけておいた方がいいですよ」
「うん。なんか、探しとく」
「はい。じゃああの……」
「それでさぁ」

「なんでまたこんな時間に外歩いてんの?」彼が屈んだままこちらを見上げてのんびり言葉を続けるので、私はなかなかこの場所から離れられずにいた。
 しかも彼が口にしたことは私が最も訊かれたくなかったことだったので、私は思わずぎゅっと顔を顰めてしまった。
 どうすれば答えずに済むかな、と考えながら「あなたは……」と言葉を探す。

「十亀だよ。十亀条」
「じゃあ、十亀さんは……どうして私が夜歩いていることが不思議なんですか」
「え? だってー……きみ、見るからにこの時間の街に用事なさそうな顔してるんだもん」
「よ、用事なさそうな……?」

 うん、と十亀さんはうなずいた。

「繁華街の方で遊んでる風にも見えないしぃ……家出にしては荷物少なすぎだし、男とか金持ちのオッサン探してるんだったらもっと人通り多いところ行くだろうし。なんか浮いてるんだよねぇ、きみ」
「……みょうじ、なまえです」
「うん。浮いてるよぉ、みょうじちゃん。だから、なんでかなって」

 私は嫌な気持ちになって、彼に名前を教えてしまったこと、彼の名前をしっかり知ってしまったことを後悔した。
 同時に、直感的に、私が夜のなかで浮いているなら、十亀さんは夜に溶け込み過ぎていることを感じとった。だからきっと、彼が浮いていると、妙だと感じるなら、夜の時間に私の居場所はないんだろう。
 その事実はすごく嫌だったけれど、簡単には振り払えないほど途方もない真実である気がした。

 私が夜を選んで歩いている理由を正直に話して彼に笑われたり軽んじられたりしたら、今まで経験してきた失恋や失恋未満の痛みやかなしみとは比べ物にならないくらい傷付きそうな予感がしたので、私は嘘をつくことにした。

「単に、夜の散歩が趣味なだけです。深い理由も、なにもない」

 そう言うと、十亀さんはどこか冷たく感じる眼差しで「ふうん」と言った。表情や仕草はそうでもないのに、何故だか厳しく感じる。
 正しく人を愛せない、愛されない自分を見透かされている。

 もう彼と対峙していたくない。すべてを吐き出して軽くなるための時間なのに、嫌な気持ちを増やして帰りたくない。
 彼に見つめられていると、自分でもよくわからないトラウマじみた嫌な気持ちが呼び起こされるような感じがする。夢にすら見ない、遠い昔の怖い思い出をぼんやり眺めているような。
 

 今度こそ私はここを立ち去ると決めて今度ははっきりと「さようなら」と言った。
 彼が何か言葉を返してくるのを待たず、さっさと歩き出した。
 どうせ私は"浮いている"らしいので、どこまで歩いても夜の街に沈むことなんて出来やしないだろうけど。
 でも、夜の静けさと深さのなかを歩くことで勝手に救われた気になるくらいのことは、許してほしかった。
(title by 天文学)

- ナノ -