黒い羊の化け物よ

(※捏造・幻覚・憶測のオンパレード注意。
 亀さん短編『喧騒から抜け出した一夜』のリメイクです。)



≪突然こんな手紙を書いてしまってごめんなさい。気持ち悪いとか、とても困るようだったら捨ててください。
 クラス替えがあってから、一度だけ隣の席になったことがありました。たまに私が教科書を忘れると、私が頼む前に机をくっつけてくれましたね。
 その頃から、私は―――≫


 今と比べてあまりに拙い筆跡の文字を辿る目が釘付けになって自力では逸らせそうになかったので、古びた便箋ごと嫌な思い出を握り潰すことで事なきを得た。
 けれど黄色と緑の便箋が一体いつのものなのか、思い出したくもない記憶が連鎖的に蘇ってくるのは止めることが出来ず、苦虫を噛み潰したような心地で両手の中のゴミを見下ろす。
 それは当時小学生だった私が書いた、人生初のラブレターだった。
 宛先はクラスメイトの男子。手紙の書き方みたいなありふれたタイトルの本を手本にしながら書いたせいで、微妙に中身が小学生らしくなくて可愛げがない手紙は、結局出番を迎えることなく私の部屋の机の奥底で今の今まで眠り続けていたらしい。
 おかげで勉強をしようと机に向かっていた私の殊勝な心掛けは全て無駄になってしまった。

 ゴミをしっかりとゴミ箱に叩き込む。少し埃っぽいセットのデザインの封筒も迷わず捨てた。裏側に書かれた宛先が見えないように押し込んで息を吐く。
 もう二度と似たデザインの封筒は見たくない。手紙という概念そのものを今後毛嫌いしそうなほどだ。もう少し虫の居所が悪ければ舌打ちまでしてゴミ箱を蹴飛ばしていたかもしれない。

 ……何度か深呼吸をして、椅子に掛けていた上着を羽織る。そこら辺に投げてあったスマホと有線のイヤホンも引っ手繰って、勉強は諦めることにした。
 足早に玄関へ向かって、乱暴に足をスニーカーに突っ込む。時刻は二十二時過ぎだけど、引き留める両親は今日も不在だ。
 私が高校に上がってからは仕事を優先することも多くなってきた。別にそれを不満に思ったことはないし、今ではむしろ感謝している。

 夜の街を出歩くことを咎める大人がいないと言うのは、私にとって心地のいい家庭環境だった。


* * *


私はどうにも、叶わないもの、手の届かないものに焦がれる星の下に生まれたらしい。

 本気で心を傾けた相手ほど離れていってしまう。まるで予兆もなく、脳味噌の中に同じ極の磁石を埋め込まれたように、気が付けば離れていってしまうのだ。
 そしてそれが起こるのは大抵私が相手のことを途方もなく好きになってしまった後のことで、残された私は思わせぶりなことをしてきた相手に対する数々の怒りを両手の中で滅茶苦茶に磨り潰しながら、夜の空気に沈んでいく。
 散歩と言えば体のいい、客観的に見れば高校生の夜歩き。警察に見つかれば勿論補導される。……今のところは、塾の帰りだと言ったり家が近所だと言ったりして誤魔化せているけど。

 ギラギラした夜の街をあてどなくうろつくのもいいし、街灯の少ない道を一人で歩くのもいい。とにかく私になんて興味がない世界で自分から愛とか恋とか熱くて痛いものを手あたり次第削ぎ落していく。
 失恋のショックで夜な夜な出歩いているとか言うと妙に青春のにおいがするので嫌だけど、好きな人の名前を呟きながら泣いてみたり未練がましく好きだったところを数えてみたりすることは決してない。終わったものは終わったもの。
 実態はただの分離作業で思い出の振り返りじゃない。それ以上でも以下でもない。

 他に吐き出し口がないから、自分では最早どうしようもない感情の嵐に疲れ果て、夜の暗さと明るさに途方もない疲労感と悲しみを救ってほしいのかもしれない。



 ――で、時間帯が時間帯なので今夜は制服ではなく私服で外に出て、悪い大人もいい大人もいそうな繁華街を出来るだけ素早く抜けてきたわけだけど。
 賑やかな大通りから外れてすぐ五人組のガラの悪い集団に捕まってしまった。

「……あの、放してください」

 すれ違う瞬間にぐんとイヤホンのコードを引っ張られた。悪質だ。ムッとする間もなく片耳からイヤホンが抜けて、ちょっとだけ前のめりになる。体勢を崩した隙にチンピラの一人が私の肩に腕を回してがっちり拘束してくるから益々手に負えない。
 目を合わせたら終わりだと思って咄嗟に俯いたけど、退路はおろか進路まで四方八方を塞がれ、また面倒なことになったと内心溜め息を吐いた。
 怖くないわけではないが、こういう状況が初めてというわけでもない。でも私を囲むバカっぽい大学生のような見た目の男達は私が心底怯えていると思ったようで、静かな夜の空気に相応しくない下品な笑い声をあげた。耳障りだ。

「こんな時間に一人でなにほっつき歩いてんの?」
「高校生? 悪いコだねー」
「お巡りさんの代わりに俺らが相手してあげるからさ〜」

 気持ち悪い。その一言に尽きる。
 あまりの不快さに残っていた恐怖心も波を引くように消え、最悪イヤホンを諦めてダッシュで振り切れば何とかなるかな、なってくれないかな、みたいなぬるい考えが代わりに頭をぐるぐる駆け巡り始めた。
 さて、選択肢は逃亡の一手以外ないようなものだけど、どうしようかな。
 俯いたまま黙って何も言わない私に、痺れを切らした男のうちの一人が手を伸ばしたとき――まさにその時だった。

 カランコロンという、軽やかな音が闇夜の向こう側から響いてきたのは。

 あまりに唐突な異音に、全員が一切の身動きを止め耳を澄ませる。音の調子から足音であるのはわかったけれど、日常のなかでこんな靴音を耳にすることはないから、多分困惑していたと思う。
 音は段々と近付いてくる。
 誰かがいる。音の正体は依然判らないままだったけれど、第三者の介入には違いない。肩に回ったままの他人の腕に少しだけ力が籠った。



 闇から悠然と現れたのは、一人の青年だった。


「……あー、ダッサ」

 距離と夜闇のせいで見えづらいけれど、かなり背の高い青年だ。何やら小さな声で吐き捨てるように言うと、一瞬だけ私を取り囲む男達に蔑むような眼差しを投げかける。喧噪から外れたこの暗闇に浮かぶ侮蔑の双眸はかなり威圧的に見えた。

 今どき珍しい作務衣姿の青年は後ろ髪に手を突っ込むと、乱暴にガシガシ掻きながら一歩、また一歩と歩みを再開させた。不快そうに、仕方なくといった風に。
 私はそれでようやく異音の正体が下駄の音であったことをぼんやり理解した。作務衣に下駄って本当に珍しいな。

「なにお前、なんか言った?」
「別にぃ? クソダサいなぁ〜って言っただけぇ」

 間延びした声は明らかに挑発の意図が含まれている。誰がどう聞いても馬鹿にしていると思うような、わざと相手の神経を逆撫でしようとしているような喋り方。話し方がゆっくりな人だって世の中には沢山いると思うけど、青年の今の答えは輪をかけてスローだった。「いくら馬鹿でもこれだけゆっくり喋ればわかるでしょ?」と言わんばかりだ。

 チンピラ達はそれに何か言い返したいのに、言葉が出ない。
 突然現れた青年が下駄を履いていることを加味してもあまりに背が高いので、浮世離れした外見も相まって独特のプレッシャーを放っている。それに負けて言葉が出ないんだろう。
 五人もいるんだから誰か何か言えばいいのに、唇を引き結んで何も言わない……言えない。
 相対する青年の双眸からはどんどん感情が失せていくように見える。舌戦すら成立しない相手だとわかって落胆した、のだろうか。
 そうして明らかに嫌そうな、というか面倒臭がるような仕草で首を捻った青年と視線がかち合った。

 ぼさぼさの前髪の隙間から覗く、およそ優しさとか人らしさとか、温かなものが削ぎ落された深い瞳。
 なんとなく、目を逸らせない。

「あ……あー、なるほど? このコ助けてヒーロー気取りてえの?」
「なるほどねー、五対一でよくもまぁ……」

 青年の放つ威圧感に負けじと、下品な哄笑が再び静かな道に響く。
 そんな笑いに共鳴するかのように、ますます冷え切った瞳を細め、口元だけを歪めて青年は笑った。

「五対一? マジで言ってんのぉ? ――ああ。いつもの皮、着てないからわかんないのかぁ」
「は、カワ? 何言ってんのお前?」

 そっか、と青年は何かに納得してひとり頷く。
 一瞬の静寂。


 前触れのないハイキックが一番近くにいたロン毛の男の頭を直撃した。


 「――!!」

 チンピラ達の声にならない悲鳴が上がる。

 重い音はここまで響いてきた。核弾頭のような蹴りは下駄のせいで通常のそれよりも音がいくらか鈍い。だから"重い"と形容するのが相応しい。
 普通に生きていればあまり耳にすることはない嫌な音を響かせ、色褪せくすんだ金髪が断末魔さえ許されずコンクリートに沈んだ。そのあとはぴくりとも動かない。たった一撃で完全に意識を刈り取られたようだった。
 目にも留まらない速度で蹴りを繰り出した長い脚が、その速度とは対照的にゆっくりとした動作で下ろされる。カツ、と小さく下駄が鳴った。

 青年は何事もなかったかのように、

「弱いうえにクズってさぁ、なぁーんにもいいところなくない? そんな風に生きてて恥ずかしいとかぁ、思わないんだ?」

 と言い、軽い調子で首を傾げる。口調こそ明るいものの、一見笑顔に見える表情の中心で、緑色の瞳だけが地面に伏す男を無感動に見下ろしている。

「最近近所でウロチョロしてたの、お前らのチームだろ? ウザかったんだよねぇ、根城がちょっと離れてるからって大目に見てたら調子乗ってさぁ、ほんと馬鹿みたぁい」

 ――貼り付けられた作り物めいた笑みが、心からの、ともすれば醜悪で凄惨な笑みにすり替わる。下駄の音を鳴らして歩き出した青年に気圧され、チンピラ達が後退りをしながら口々に「まさか」「あいつは」と言い合っているのが聞こえた。
 すると私を拘束している男も何かに勘付いたのか、「まさかお前……」と細い声でうわごとのように耳元で呟いている。

 ひと際強い街灯の明かりの下に青年が踏み入る。
 はっきり現れたその姿に刮目した誰かが息を呑み、言った。

「獅子頭連の十亀……!!」


「――ほんっと、イライラするぅ」




 あとのことは詳細に語るまでもない。
 十亀と呼ばれた青年があっという間に残りをノックアウト。赤子の手をひねるよう、と言うのは多分こういうことを言うんだろう。
 最後に無言でこちらに歩み寄って来たかと思うと、私を人質にとって何やら喚く最後の生き残りを問答無用で私から引き剥がした。
 もはや挑発するでもなく哀れむでもなく、無言でひたすら男を機械のように殴っている。
 ……そしてそれを、私が無言で見つめている。

 多分止めるべきなんだろう。いや、普通止めるべきだ。
 だってどう見てももうチンピラ連中の誰一人として戦意がないし、何なら全員意識すらないように見える。
 胸倉を掴まれ殴られ続けている男だって、今すぐ青年が手を離せば勝手に地面に崩れ落ちて、下手をすればそのまま死にかねないような重症具合だ。微かに聞こえるいびきみたいな音はよくない・・・・って聞いたことがあるし。

 そんな予感を確信に変えるのが、ずっと殴打を繰り返している青年の右拳だった。血塗れで、振り下ろされるたびに滑った音が聞こえてくる。
 目の前で人殺しなんかされるのは困る。

「……あの、」

 決心してしまえば行動に移すのは容易い。
 少なくとも私にとっては、同じ言語を使っているのに意思疎通がまったくできそうになかったチンピラ達よりも、目の前で返り血を浴びている無表情な青年の方が話ができる相手に見えていたから、余計に。
 滑り、湿った鈍い音に敗けないようにそれなりに声を張ると、ごしゃりという痛々しい音を最後に"処刑"は終わった。

 終始眠そうだった目だけがくるりとこちらを向く。
 私が思ったよりも側まで来ていたことに気付いたのか、ちょっとだけ目を瞠った彼は今度こそ上半身を捻って私と向かい合った。
 たったそれだけの仕草で、「ああ、この人は私と話す気があるんだな」と安堵できる。暴力云々を一度度外視してしまえば、この人が一番人間らしく思えた。

「あの。……もう、やめた方がいいんじゃない……ですか。殺人は困ると思うし」
「ああ、やめていいの?」
「え?」

 予想外の返答に戸惑いながら首を傾げると、青年は「だから、やめていいのぉ?」と繰り返した。

「きみの……あー、触られてたでしょ、コイツにぃ。オレのイライラにプラスしてちょっと多めに殴っとこうかなぁと思ってたんだけど」
「……えーと……」

 予想外斜め上の思いやりのような言葉に今度はこちらが目を瞠った。ついでに言葉も失くしてしまう。
 口を開けたままびっくりしてしまった私を他所に、彼――トガメさん? は「いいならいいや」と一人で納得して呆気なく掴んでいた胸倉を離した。音を立て最後の犠牲者がコンクリートの上に落下した。
 そして血に塗れた拳を宙に振りながら、「別にこいつらの肩持つわけじゃないけどぉ」と前置きをする。

「女の子がひとりでこの時間に歩くのは危ないよぉ。用事があるにしろ散歩にしろ、わざわざこんな町はずれ選ばないで大通りとかさぁ、もうちょいやりようあるでしょぉ」
「……あ、はい……」
「ま、オレみたいなのに言われたくはないだろうけどね」

 そう言ってトガメさんは緩い笑顔を浮かべた。自分の言ったことを恥じるような、そしてちょっと自分自身を馬鹿にするような笑顔だった。
 肩まである長い癖のある髪が揺れて、血の生臭い臭いに混じって石鹸の匂いがした気がした。

「あーあ。せっかく風呂入ったのに汚れちゃったなぁ」

 お風呂上りゆえのいい匂いと血生臭さのコラボレーションだったか……。

「す、すいません」
「いいよぉ。じゃ、オレもう行くから」
「あ、はい」

 トガメさんの目が私から逸れる。その瞬間、まるで私が見えなくなったように、彼の意識のなかから私が消え、私が彼にとって赤の他人に戻ったことがわかった。
 大きな猫背の背中が夜闇に溶けていく。私は彼の姿が目を凝らしても見えなくなるまで見送り、そして本来の目的であった悲しみの消化がとうに済んでいることに気が付いたのだった。
(title by 天文学)

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