白昼夢の座礁

(※捏造・幻覚・憶測のオンパレード注意。
 梶くん・柊くんの過去話登場に伴った『牙がなければ噛みつけはしない』のリメイクです。)



「お前、馬鹿だろ」

 それまで黙って隣を歩いていた幼馴染が、ちらりとこちらに瞳を向けて呟いた。
 断定するような物言いだったので腹が立って、私は幼馴染の方を見ずに「登馬よりは頭いい」と言った。それはまったくの真実だ。実際、勉強なんか普段まともにしていない彼より、宿題もしっかりやって塾も通っている私の方が頭がいいに決まっている。

「違ぇよ、どっちが馬鹿かなんて話じゃない」
「じゃあなに?」
「本当に頭いいヤツは、傘も持たないで雨の中飛び出して来ねえし、馬鹿同士の喧嘩に首突っ込んだりもしないだろ」

 それは確かに、と思った。家まで目的地はちょっと距離があったから、間に合うことばかり気にして身なりも何も気にしていなかった。
 かろうじて上着は着ていたけど、それで誤魔化せるような雨じゃなかった。今は雨が上がっているからいいけれど、結局私も登馬もずぶ濡れだ。

「……うん。そうかも」
「……なんだよ、いつもみたいにキレねぇのかよ」
「キレてほしかったの? 変なの」

 雨が上がって雲が晴れた空はすでに紫色で、私達はお互い家を飛び出してから一度もまともに太陽の光を浴びないまま、影だけを伸ばしてとぼとぼ歩いている。
 一歩踏み出すたびに靴の中からじわりと水が滲んで不快だ。雨水で濡れた髪はキシキシして手触りが最悪だし、普段の私からは想像もつかないくらい全速力で走ったので全身痛い。

 なので、幼馴染の言葉には割とすんなり納得することが出来た。
 全身びしょ濡れで両脚ガクガクで歩いてる私、馬鹿じゃなければ何だって言うんだろう。

「いいんだよ、どっちの方が馬鹿とかじゃないなら。おんなじ馬鹿なら、もういいよ、なんでも」

 疲労と自分自身への呆れが色濃く滲んだ私の言葉に、幼馴染は不意打ちでも喰らったみたいに止まって、きょとんと瞬きをした。私も足を止めて振り返ると、しばらくして彼は目を伏せ「おんなじ馬鹿」と生まれて初めて言葉を聞いたみたいな反応を寄越した。
 あちこちが少しずつ腫れあがり、鼻血の跡もある顔には表情というものがなかったので、私は彼が何を考えて立ち止まっているのかわからず、うん、とだけ頷いた。

「……まあ、そうだな。おんなじ馬鹿なら、いいか」
「そう。優劣ないならいいじゃん」
「……だな」

 頷き合って、雨上がりの帰り道を二人で歩いた。
 水に濡れた二人分の黒い靴跡がコンクリートにずっと続いていて、私達は果てしなく遠いところまで行って、帰ってきたような──壮大な冒険を終えてきたような心地がした。

 私達の縁は多分、そこで結ばれてしまったんだと思う。
 今はもう見えない結び目はきっと、黒く濡れた雨上がりのコンクリートの果てにある。


* * *


 お向かいさん家の前に見慣れない男の子がいるのを見つけて、家の鍵を回す手が止まった。
 植木の隙間からちらりと様子を窺う。黒髪の男の子。私より背が少し低い。顔はやっぱり見覚えないので、お向かいさん家に住む同い年の幼馴染の友達か何かだろう。
 喧嘩なんて後ろめたい目的ならわざわざ家まで訪ねて来ないだろうし、表情も何だか不安げなので用事があるだけだろう。

 いつもの面子じゃないんだなーと思いながら鍵の開いた扉を引く。
 玄関でランドセルを下ろし、右足の靴を脱ぎかけて、……やっぱり踵を返して玄関を開けた。

「あの!」

 お向かいさん家に向かって声を掛けると、表札の近くに立っていた男の子はびくりと肩を揺らした。目を丸くして、驚いている様子はまるで猫か何かのように見える。
 急に知らないやつに声かけられて怖いかな、と悩みつつ、警戒されないよう意識して笑顔を浮かべながら「登馬の友達?」と訊ねる。

「と、友達……か、わからない……」
「違うの? でも登馬に用事あるんだよね?」
「……、……」

 小さい頭がおずおずと縦に振られる。気弱そうな感じが登馬とはあまり結びつかず、どういう出会いをしたんだろう、と少しだけ気になった。明日にでも会ったら聞いてみようかな。

 当の本人は今日掃除当番なので帰ってくるのが少し遅いことを伝えると、彼はまた一つ頷いた。最初に声をかけた瞬間以降、目は一度も合っていないけど、突然話しかけた私が悪いし、人見知りさんならそういうこともあるだろう。

「そんなに掛かんないと思うけど、もしよかったらウチで待つ? 私、みょうじなまえです」

 訊ねると、男の子は勢いよくぶんぶんと首を横に振った。まあ、そうか。
 大してショックも驚きもしなかったので、私は「そっか」と言って身を引いた。

「じゃあ、私はこれで。帰ってくるのちょっと遅いの、伝えたかっただけだから……」

 玄関の扉に身を滑り込ませながら去り際に小さく手を振ると、閉まり切る扉の隙間から、控えめに手を振り返してくれる姿が見えた。
 ガチャン、と音を立てて閉まった扉に背をつけて、息を吐き出す。

「緊張した……」

 私もそこそこ人見知りだ。


 翌日、ちょうど家を出るタイミングが同じだった幼馴染に駆け寄ると、彼は「よ」と言って歩調を落としてくれた。
 この年の男子って女子と並んで歩いたり話したりすることに何故かすごい照れたりしてひどいことを言ったり逃げたりするもんだと思うけど、幼馴染──柊登馬にはそういう気がほとんどない。一年生か二年生の頃には一時期逃げられたこともあったけど、気が付いたらもとに戻ってしまっていた。
 こういうところがなんだか子供っぽくないんだよなぁ、と思いながら「昨日さ」と話しを切り出した。

「登馬ん家の前に黒髪のまぁるい頭の男の子いたよ。別の学校の子だよね。会えた?」
「梶のことだろ。合流したぜ」
「そっか。あまりに心細そうな顔して立ってるから、心配になって声掛けちゃった。ごめんねって言っといて」
「なんでだよ」
「なんか怖がらせちゃったっぽかったから」

 小学生のくせにちゃんとランドセルを背負わない登馬はあー、と訳知り顔で顎を擦ると、ややあって「たぶんお前にビビってたわけじゃねぇよ」と言って足を止めた。信号が赤だった。

「そうなの? なんでわかるの」
「うーん……アイツ、ちょっと複雑っつーか……なまえを怖がらせるかもしれねぇって思ってビビってたんんだと思うぜ」
「なんで私がビビる? 私から話しかけたのに?」

 登馬は言葉を濁すばかりで答えない。様子からして、誤魔化そうか迷っているというより上手い言葉が見つからない、といった感じだろう。
 歩行者用の信号が青になったので歩き出す。
 まあ、別に根掘り葉掘りする必要もないよね。登馬の友達は登馬の友達だ。

 と私は勝手に納得したけど、登馬は「あー」だの「んー」だの唸っていたと思ったら、しばらくして「初めて会った時、オレアイツのこと殴ったんだよ」と宣った。

「……殴った!? なんで? 見損なった……」
「お前わかってておちょくってんだろ、ちげーよ! 梶のヤツ、なんつーか、キレると周りが見えなくなるんで、殴って止めたんだよ。大勢で囲んで襲うのが大前提ダサいし悪いけど、結構オーバーキルしてたから」
「ああ、なるほど」

 オーバーキルってことは、あのびくびくしていた梶くんも相当喧嘩が強いんだろう。
 お向かいに住んでいる幼馴染・柊登馬もそうだ。別に進んで暴力を揮うようなクソ野郎ではないけど、小さい頃からあちこちで喧嘩をしている。今では怪我をして帰ってくることもほとんどなくなった。周囲に人も増えて慕われているようだから、カリスマだかパワーだか知らないが、彼には男心に響く何かがあるんだろう。
 まあ、喧嘩はするし勉強も真面目にする質じゃないけど、性格は生真面目だし、同い年の他の男子と比べたら幾分か精神が成熟しているように思う。背も高いしね。
 多分男子のなかでは体の大きさはアドバンテージになるんだろう、知らんけど。

 学校が近付いてきて、登校する生徒達の人波と合流した。
 私達は別に学校内でもずっと一緒にいるほど仲良しな訳でもないので、こうなってくるとお互い一緒に行動する友達やグループに分かれるので、自然と離れていく。
 いつも一緒にいる男子達を見つけて「じゃ」と別れようとした登馬の背中がぴたりと止まったので、私も思わず足を止める。

「なまえ、お前、また梶見かけたら声掛けてやってくんねぇ?」
「え? なんでさ」
「人慣れさせてーから」
「ひ……ひとなれ? そんな動物じゃないんだから……」

 拒絶より困惑が先に来ると知るや否や、登馬はそれ以上何も言わず「頼んだー」と背中を向けたまま片手を振って歩いていった。
 取り残された私の背中を、あとからやってきた女子がおはようと叩く。
 それに応えながら、私は柊家の表札を背にして立っていた男の子の顔をぼんやり思い出していた。



 ──そうは言っても。
 同じ学校の子ならいざ知らず、件の梶くんは他所の学校の子だって言うじゃないか。そして多分一つか二つ年下。性別も違う。
 正直遭遇する"次"があるかどうかもわからないのに、声掛けてと言われたって困る。登馬が逆の立場だったとしても相当困るだろうに。

 思った通り、それからひと月梶くんを見ることはなかった。
 私は放課後の時間を火曜は塾、木曜は水泳と習い事に使っているから、そもそも学校外では登馬との遭遇率もそこまで高くない。
 登馬とは親同士の交流があったから物心ついた頃から一緒にいたけど、お互い趣味が合う訳でもないし共通の仲のいい友達がいる訳でもない。基本、用事がなければ会わない。
 幼馴染でさえそうなんだから、一度だけ……しかも一分に満たない短時間喋っただけの相手となんて会うことはないはず。

 本気でそう思っていたので、水泳の帰り道に再び近所で梶くんと鉢合った時は、何か妙な運命じみたものを感じてしまった。

「わ……え、あ……梶、くんだっけ」
「!」

 曲がり角で急に自分より低い位置に頭が見えたのでびっくりして仰け反る。梶くんも、急に私が出て来たので驚いて身を固くしていた。
 向かい合い、お互いの顔をまじまじと見、逡巡してやっと互いの存在を思い出す。私達はその程度の仲で、その程度の距離感だ。
 ……幼馴染の言葉がこのタイミングで脳裡を過らなければ、きっとそのままの距離感でいただろう。

 名前を口にしてしまった以上、無言で立ち去るのも何だか変な気がして、私は自分を指差しながら「みょうじなまえ。覚えてるかな」と首を傾げた。
 小さい頭が言葉少なにこくりと縦に揺れる。「……登馬んちの帰り?」こくり。無口さんなのかもしれない。

「私はねー、泳いできた帰り。水泳やってるの」
「……」

 言いながら、私は内心とほほ、と思った。だって絶対興味ない。今一番いらない情報だ。誰が知りたいんだ、自分とは別に仲良くない友達の友達の習い事事情。
 あー、と戸惑いが前面に滲んだ声が洩れる。登馬のばか。急に変なこと言うから変な空気になっちゃったじゃないか。責任取ってくれ。
 人慣らしとか言う意味もわからないし、私はそういうことに向いているような明るい性格じゃない。
 困り果てた末に、私は開き直ることにした。

「ごめん、登馬がね、なんか梶くんに話しかけろって言うから。困るよねぇ、私相手にお喋り弾むわけないし」

 能天気を装って笑ってみる。落ち着かなくて、背中に垂らしている湿ったままの髪に片手で触れた。
 すると居心地悪そうに、ともすれば怯えるように瞳を彷徨わせていた梶くんが、消え入りそうな声で「……プールのにおいがする」と言った。
 時差が多少あったとは言え、まさか返事が返ってくるとは思っていなかったので、今度は私が驚いて黙り込む番だった。
 恐る恐る、言葉を選ぶように梶くんは言う。

「柊くんが……あんたは悪いやつじゃないから、ビビらないで喋ってみろって、オレにも、言った」
「梶くんにも? ……なに考えてんだろう」

 本当に、よくわからない、男の子の考えることは。
 でも、

「──よくわかんないけど、まあ、変なことはするし言うけど悪いこととか酷いことは言わないからなぁ、登馬」
「……」

 初めて梶くんがノータイムで頷いてくれた。登馬という存在を介してではあったけれど、初めて彼と普通に意思疎通が図れた気がして、私は思わず愛想笑いではない笑顔を浮かべてしまった。
 「だよねぇ」と笑いながら、プールのにおいが残る片手を差し出す。

「改めて、私、みょうじなまえです。登馬と比べたらそんなに会うことはないと思うけど。よろしく、梶くん」
「よ、……よろしく…………なまえ、ちゃん」

 なまえちゃん。男子にはあまり呼ばれない呼び方だ。周りにいる男子は苗字か名前の呼び捨てばかりだから、耳慣れない響きにちょっとびっくりした。
 私の差し出した手をおずおず握った梶くんが、硬直する私に気付き、……ややあって「間違えた!!!」と言わんばかりの表情に変わっていく。白かった顔が耳まで真っ赤だ。

「ち、ちが、ちがう!! 柊くんが、柊くんがなまえって呼んでたから、呼んでたから……!!」
「あ、ウン! 登馬がね! いや、別にいいよ!? おかしくないよ、私はなまえです!」
「う、うぐぐぐ……!!」

 冷静になって考えてみたら、登馬に引っ張られて"なまえ"+私が年上なので"ちゃん"=なまえちゃんだったのかもしれない。
 "柊くん"、"なまえちゃん"。並べたらそこまでおかしくはない。

 けれどお互いテンパっているこの時は、そこまで頭が回らなかったので、一人で何かを噛み締めるように真っ赤になって悶える梶くんを観察しつつ、案外普通に喋る子なのかもしれない、と認識を改めることしか出来ないのだった。

□なまえちゃん
 男女で喋り方や対応を変えないので、性別問わず名前を呼び捨てにされがち。
□梶くん
 安定した交友関係を築いた経験がまだない人間初心者なので女子をどう呼んだらいいかわからなかった。家に帰ってからも恥ずかしくて三回悶えた。
□柊くん
 女子には「柊ィ〜(男子ィ〜の感じ)」と呼ばれがちだし、男子には「柊(さん)(くん)」と呼ばれている。人望。


(title by エナメル)

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