きみにだけ効かない毒だよ

 手が汚れたら手を洗うこと。髪が汚れたなら髪を。足を汚したならブーツを脱いで、服を汚したなら着替えること。
 汚れた割合が汚れていない割合を超えたら諦めてお風呂に入ること。
 香りにも気を遣って、買い与えられた香水を纏えば文句無しに百点。その方が気分がいいから。

 彼がはじめに私に教えたことだ。

 今では私もそれに慣れきって、その日の気分によって香水を選ぶことだって出来るようになった。
 別にそれがなくたって生きてはいけるけど、そうすることで彼が満足げに私の頭を撫でるので、一から作り上げられた習慣を怠惰に任せ捨てる選択肢こそを捨ててしまった。
 何より、清潔と不潔を秤にかけたなら、間違いなく清潔でいる方がいい。


* * *


 聖文字を持たない聖兵に本来個室は与えられないものだ。
 聖兵の扱いはあくまで一般兵。いくらでも替えは効く。数と汎用性だけが取り柄みたいなものなのに、全員にいちいち個室を与えていたら、見えざる帝国にどれほど広大な土地があろうともキリがないだろう。
 それでも私が個室を与えられ、あまつさえそこへ自由に帰還することを許されているのは、今現在私への命令権を持っているのが聖章騎士だから、というのが唯一にして最大の理由だった。
 端的に言えば、私は数年前ある聖章騎士の側近になるよう命を受け、以降は他の聖兵とは一線を画した扱いを受けている。

 ──磨き上げられた鏡には、汚れひとつない自分の肢体が映っている。
 毛先から爪と肉の間まで清潔に洗い、問題がないことを確認してから白い団服に袖を通す。白には他の色がよく映えるから、少しでも汚れが残っていたら目立ってしまう。
 指定のコートのボタンを一番上まで留めてから、そういえば最近「別に一つか二つは留めないで開けててもいいんじゃねェ?」と言われたことを思い出した。……ボタンを二つ開ける。
 最後は髪に櫛を通し、再度鏡の前へ。

 うん。大丈夫。
 今日も見た目に気を遣った。

 自室を出ると、突然廊下の奥から「あーッ!」と叫び声が響いてくる。硬い床を駆けてくるブーツの靴音に私が振り返るより速く、私より小さな身体が容赦なく突進してきた。
 ドン、と鎖骨のあたりに衝撃を受けて息が詰まる。さっき洗い流したばかりのボディソープの香りが強くなった。

「──なまえおっはよーッ! また朝シャンしてきたのぉ? ほんと好きだよね〜」
「おはようございます、ジジ。……別に好きってわけじゃないけど、」
「じゃあアイツに入れって言われてる? ヤだぁ女の子の身だしなみにイチイチ口出ししてくる男ぉ」
「確かに最初は命令されてたけど今は自分の意思で、むぎゅ」
「もーッバカ素直でほんと可愛いねぇ! あんなののとこじゃなくてボクらのとこおいでよ、ね! なまえ入ったらバンビーズ偶数だよ! キリいいじゃん!」

 口を挟む隙が無い。
 ……バンビーズは奇数とか偶数とか気にするようなタチではないと思う。加えて基本バンビエッタさんが単独先行してそれを残りの四人がのろのろ後追いするスタイルだから実質偶数人みたいなものだ。それがバンビエッタさんの本意ではなかったとしても。

 案の定、私をぎゅうぎゅう抱き締めるジジを冷めた目で見る四人がぞろぞろやってきて、「ナックルヴァールとやり合いたくないからヤダ」「めんどくさ」「同じく」「キリがいいとかいう問題じゃないと思うの……」と続々続いた。

 聖兵である私と聖章騎士である彼女達『バンビーズ』がこれほど気安く会話をしていいわけはないのだけど、ジジ――ジゼル・ジュエルが「ジジって呼んで、ボクはなまえって呼ぶから」と突然宣言したことを皮切りに、何だかんだ雑談を許される程度の仲になっている。確かあれは私が側近になったばかりの頃だ。
 はじめは全員の名前に様をつけて呼んでいた。瞳孔の開ききったジジに「それほんとにいるぅ?」と恫喝さ訊ねられてからは、流れで全員愛称で呼ぶことになってしまったのだけど。

「あんましつこく絡んでっとまた飼い主に詰められるぞ」
「しょーがないじゃんッ! こういうさりげないタイミング見つけていかないと喋る隙も無いんだからー」

 私を抱き締め頬擦りするジジをくっつけたまま身動ぎしていると、「今日も元気に飼い犬やってんの? 飽きない?」とバンビちゃんが半分呆れたような表情でいつも通りの質問をしてくる。
 飼い犬でいるつもりは今も昔もないが、他に相応しい表現を思いつくこともないので曖昧に頷いた。

「飽きるとか飽きないとかは無いです。そういう命令なので」
「じゃーまた別の命令が下ったら飼い犬やめるの?」
「まあ……内容によってはそうなりますね」

 今の主である彼は現状、指揮系統で上から数えて二番目相当だから、余程のことがない限り私が彼のもとを離れることは無いだろうけど。
 バンビちゃんは「飼い犬ってか人形ね」といつものように溜め息を吐き、それを見たリルが「今更だろ」と吐き捨て、私は首を竦める。
 このやり取りだって幾度も繰り返してきた使い古しだ。私の性別が女だからなのか、チームメイトのジジがやたら気に入っているからなのか、バンビーズは私に対して呆れてもいるし妙に同情的でもあるようだった。

「そうだよね〜。なまえは別にアスキンのこと好きで一緒にいるわけじゃないんだもんねっ」
「曖昧なこと言ってると都合のいいように取られてジジに連れて帰られるわよ」
「それは──」

 「困るよなァ?」と、制服の襟首を引っ掴まれた。

 わざと霊圧を消し足音まで殺して近寄って来たのかもしれない。首根っこを掴まれるまで接近に気付かなかった私が驚きに目を丸くして顔を上げる。後頭部が指揮系統で上から数えて二番目相当の今の主・アスキン・ナックルヴァールの胸元にぶつかった。
 女にしては長身の私が寄りかかってもびくともせず、私を受け止めたまま片手間にくっついていたジジをベリッと引き剥がす。「あーん」ついでに私の額を指で小突いた。「いたっ」。

「勘弁してくれよ、ナニされるかわかったもんじゃねェ」
「ひどーい。逆にナニされると思ってるワケ?」

 頬を両手で挟みわざとらしく首を傾げたジジには答えず、アスキンは相変わらず懐にいる私に「"用事が済んだらすぐ戻れ"はまだ覚えねェな」と言った。
 アスキンの言うことは大概曖昧だ。余裕のある男でいたいとか言って、彼はそういう言葉選びを好むが、私にはどうもわかりづらい。彼の言う"すぐ"がどの程度のことなのかわからないからだ。
 どうやら今はジジに捕まっていたせいでアスキンの"すぐ"をオーバーしてしまったらしい。主の命令を守れなかったことは反省。

「なまえ、女の子に手ぇ上げるオトコなんか捨ててこっちおいでーッ! ボクの方がアスキンの何倍もやさしーよっ!」
「俺だって何も好きでこんなことしてるわけじゃねェよ。ただ──」

 後ろから伸びてきたアスキンの手が私の顎を掴む。躾のなっていないペットを窘めるような手つきで顎の下を細い指に擽られ、心地の悪さに眉を顰めた。

「人が大事に育てた子犬を横から掻っ攫おうとするやべェ奴もいるんで、そろそろ警戒心ってのを持ってほしくてさ」

 ……どうして誰も彼も私のことを犬とか言うんだろう? 私はれっきとした人間だ。別に犬っぽいことをしている覚えも無い。
 笑顔でアスキンと睨み合うジジの背後で「あーあまた始まった」という顔で一様に呆れているバンビーズの皆さんと視線を合わせる。諦めろと言わんばかりに首を振られた。

 個性豊かで協調性とは対極の生き方をしている聖章騎士のなかで、アスキンは比較的常識人で他人と衝突しない人間だ。傍目から見てもそうだし、実際側近として数年観察してみてもその評価に変更は無い。
 だって言うのに、特定の聖章騎士――特にジジやペペ・ワキャブラーダ様に対しては態度に若干の棘を感じる。
 ……自ら"不利"を被りにいく姿勢は主らしくない。

 取り繕った明るさと剣呑さの入り混じる妙な空気のなか、す、と片手を挙げた。

「……額を小突かれる程度は『手を挙げられた』のうちには入らないし、私は犬じゃない」

 至極真剣な私の言葉のあとには沈黙が続いた。誰も何も続けない。
 言葉選びを間違えたのかも、と若干不安になった頃、唐突にジジが噴き出した。
 両手で口元を覆い、一触即発とまではいかずとも角のあった態度が嘘のように「ほんとそういうトコーっ」と笑う。それにつられたのか、はたまた空気が軟化したことで馬鹿らしくなったのか、アスキンも肩を竦め首を振った。

「それに聖文字を賜っていないから、私がバンビーズにいたら変だと思う。偶数でもバランス悪いよ」
「そういう問題か……?」
「デカくてカワイクないアスキンと素直馬鹿カワイイなまえもなかなかにバランス悪いけどね! 異色の組み合わせ! みたいな!」
「ハイハイ。なまえはバンビーズには入りたくねェってよ」
「後方彼氏面うざっ」

 シッシと手を振ったアスキンにジジが舌を出す。……今日の舌戦はそれで終わった。
 どうやら私に絡むためだけに寄り道していたらしい、来た道を引き返していく五人の背中を見送ってから、隣に立つ主と顔を見合わせる。

「……あんま細かくこういうこと言うのってカッコ悪くて嫌だけど、お前、本気で警戒はしとけよ。うっかりゾンビにされても知らねェぞ」
「命令なら考えるけど。……相手を警戒するってことは相手に警戒されるのと同義でしょう。それって不利じゃない?」

 首を傾げると、アスキンは何とも言えない表情で押し黙った。たぶん「またコイツときたら……」みたいな気持ちなんだろう。
 ――私がアスキンの側近になったのは陛下への進言という体の我儘だったと聞いているけど、本来私と彼は性格やスタンスが正反対だ。だから私が本気で馬鹿正直に動いていたら、アスキンとは意見が合わず数日で聖章騎士の側近という事実上の昇格は無かったことになっていただろう。

 それでも私達が数年この関係を続けていられるのは、私が他人に揶揄されるほど正直者ではなく、そしてアスキンが私の性質を正しく理解したうえで柔軟に言葉を選んでいるからだ。

 案の定、アスキンは溜め息と共に「そういうこと言うからアイツが喜ぶんだよな……」と言葉を吐いた。
 そういうこと、って言われても。

「嫌なら私を外せばいいのに」
「冗談よせよ。ここまでせっかくオシャレに育てたのに、元のつまらねェ女に戻られるのはキツイぜ」

 高いところにある彼の顔を凝視する。あまりジロジロ相手を観察するのは動物っぽくて嫌だからやめろと言われ続けているけど、こればっかりは癖でなかなか治らない。

「いつでも誰でも殺せる兵器でいるのは別にいいが、自分が人間であることまで忘れちゃつまらないだろ。素材は百点の女が長所を残らず殺す生き方をしてるのが我慢ならなくなっただけさ」

 アスキン・ナックルヴァールが私を側に置く理由はそれで全て。
 私がお眼鏡に叶う見た目をしていて、身体がどれだけ荒れようと気にしない使い方をしているのを惜しいと思ったから。
 本当に、それで全て。

 何度訊ねても告げられる言葉の根本が変わることは無かったし、表情や眼差しにも嘘は見出せない。
 彼は本気で、兵士を人間の女に変えることに傾倒している。そして私は彼の価値観に迎合した。

 長さを短く保つためだけに一定期間で切っていた髪はある程度長さを揃えて整えるようになった。短く切っていた爪も先端を丸め、荒れることがあればハンドクリームを塗りたくる。
 どうせ土埃や血で落ちると解っていても最低限化粧をするし、衣服も機能性と同じくらい外見を考慮する。

「……従うよ。貴方の言う通りにしたら、前よりもいいことが増えたから。姿かたちが兵士から遠ざかると誰しも多少は気を許してくれる。前よりも近寄りやすくなった」

 全て彼が私に命令し教えたことだ。
 私はその教えを、ある種の指標として受け入れることを良しとした。

「人らしく振舞うことを覚えるたびに、兵器として優秀になれる──誰であろうと殺しやすくなる」

 だから感謝してる、と言うと、アスキンはいつも通りの飄々とした表情で手を差し出してくる。
 くるりと返された手の甲が私の頬を軽く叩き、それを合図として私は以前より高くなったヒールを鳴らし歩き出した。

■なまえ…見目麗しい聖兵。今も昔も機械のように人を殺すことしか考えていない。それを上回る出来事や人間と出会っていない。
 陛下の命令なのでアスキンの下についただけで深い思い入れも好悪もない。人らしく振舞うことでより他人に接近しやすくなった≒殺しやすくなることに気付かせてくれたのは感謝している。
 背は170くらいはある。武装を解いて黙って座っていればただの綺麗な女。たぶんアスキンより4つくらい年下。
■アスキン…見た目がドのつくタイプなのに"会話は出来るけど話が通じない"人間兵器なの勿体ないよなァと思ったので珍しく我儘言って人間の女に育てることにした。言うこと素直に聞いて半年もしたら見違えたけど、その理由が「普通っぽく擬態してると相手が勝手に油断してくれるからいつでも殺せるようになった」だったと聞いて天井を仰いだ。
 性欲と兄心を高速反復横跳びしてるけど表には出さない。余裕のある男でいたいので。
■ジジ…死ぬこと以外は無問題スタンスだった頃のなまえが好き! 常にボロボロで殺すか殺さないかでしか他人のこと見てないところが特に好き!アスキンのせいでちょっとつまんなくなったけど、中身はあんまり変わってないっぽいのでまだ間に合うよねッ!


(title by alkalism)

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