ほころび

「で?」

 レストランで食事をした後、治崎さんからの連絡は半月途絶えていた。

 とうとう私に関心を失くしたか、結婚にかかるイニシャルコスト? が高すぎることにようやく気付いたか、あるいは他にいい候補でも見つかったんだろう。

 私は私で、日常を取り戻した気持ちで、特にこちらから連絡をすることはなく日々を静かに過ごしている。
 死体と向き合い、家に帰り、食事を摂り風呂に入り眠り、また朝が来れば死体と向き合う。そういう日々。願ってもない日々だ。

 頬杖をついてこちらを見る等くんを見返すことなく、仕事用化粧鞄の整理に勤しみつつ「"で?"ってなに」と答える。

「チサキさんから連絡来た?」
「来るわけないでしょ」
「来るわけないことはないでしょ、飯まで食いに行ったのに」
「飽きたんじゃない、婚活」

 もともと邪な魂胆が下地の後ろ向きな婚活だったし。お互い「まあしてもいいけどしなくても全然問題は無い」みたいな。
 一時の気の迷いで実際結婚まで漕ぎつくような考えなしではないつもりだし、彼だって契約と言えど人生の伴侶に選ぶならもっとちゃんとした相手を選んだ方がいいはず。
 そういうわけで、この想定以上に続いていたお見合いが空中分解・自然消滅するのであればそうなってもらって一向にかまわない私であった。

 私が本気で話題に関心がないと察すると、等くんは溜め息を吐いてテーブルに突っ伏した。
 どうして私より彼の方が気にしているのかわからない。等くんは私よりこんな状態しょっちゅうじゃないか。

「まあ、心底好きになれないやつと結婚してもしょうがないけどさ……あ、誰か来た」
「お父さんじゃないの」

 等くんは耳がいい。別に個性などではなく、ただ本当に身体器官の範疇で耳がとてもいい。
 会社兼みょうじ家のどこにいても、玄関や窓からの侵入に音で気付くことが出来る。──ちなみに窓から侵入を試みたのは、幸いなことに今のところは父のみだ。

 溶けていた等くんが上体を起こした頃、ようやく私の耳にも玄関の扉が開けられる音が届いた。
 じゃんけんで一人負けした父が買い出しから戻って来たんだろう。そう思いながら、等くんと声を揃え「おかえりなさい」と玄関の方に呼びかける。
 間延びした「おーう」という声が返ってきたから、父の帰宅で間違いない。両手いっぱいにパンパンのエコバッグを持っている姿を想像して、冷蔵庫に移すの手伝おうかな、とか考えた。

「ちゃんと人参小さめの買ってきてくれたー?」

 父の返答を待っていた。肯定だろうが否定だろうが、とにかく父の返答を。
 ところが私と等くんのいる居間に顔を覗かせたのは父ではなく、

「え、チサキさんじゃん」
「ヒッ」

 等くんのあっけらかんとした声に、行儀悪く椅子の上に立てていた膝が滑り落ちる。ついでに持っていた折りたたみ式の櫛をフローリングに落っことした。
 見なければいいのに顔を上げてしまう。
 一瞥もせず逃げればいいのに直視してしまう。


「なまえ。話がある」

 ――金色の読めない瞳が私を見下ろしていた。


「わ……私はありません」

 動揺を隠しもせず、けれど私にしては間髪入れずにそう答えたことで、正面の等くんが「ブッ」と噴き出す。
 治崎さんの背後から遅れて登場した父が「それはないだろ、なまえ」と空気を読まず呑気に私を責めたことで余計場が混沌とした気がする。その訳の分からなさが私を焦らせる。
 とりあえず床に落とした櫛を拾う。

 治崎さんがうちに来ることも意味が分からない。
 ……し、わざわざ訪ねて来られるような用件にも心当たりは無い。
 無いったらない。

 ガタガタ震えているうちに等くんが治崎さんに座っていた椅子を譲り、テレビに近いソファに移動してしまう。父は来客用にストックしている未開封の缶コーヒーを出し、あとは私が聞く姿勢をとるだけとなってしまった。まるで私が悪いみたいな空気になってくる。

「玄関前で会ったんだよ。悪いね治崎くん、せっかく来てくれたのにこんな態度で」
「いえ。事前連絡も無しに突然押しかけた俺に非がありますから」

 私が悪いみたいじゃないか!!

 机に広げていた仕事道具を片付ける余裕も無く、項垂れたまま何も言わない私に何を勘違いしたのか、等くんが「あ、もしかして俺ら邪魔?」と手を叩いた。
 そのまま父と部屋を出、あろうことか扉までご丁寧に閉めていってしまったので、私と治崎さんはいよいよ用件も分からないまま二人きりにされてしまったのだった。走って逃げたい。

 治崎さんは言う。

「連絡を入れようかとも思ったが、前回の様子を鑑みるに逃げそうな気がしたから何も知らせずに来た」
「……」

 私が何も言わないので、治崎さんはちょっと黙った後「それで本題だが」と持っていた小さめの紙袋を机に置いた。

「前回言っただろう、お前とでなくとも結婚は出来ると」
「……はい……それがなにか……」
「まずはその勘違いを正す。俺は別に惰性と諦めだけでお前と結婚したいと言っている訳じゃない」

 まるで重要な商談でもしに来たビジネスマンのように言いながら、治崎さんは僅かに上半身を前のめりにさせる。相変わらず白い手袋をした指が組まれる。
 私は何も言えず、ただその慣れた仕草に圧倒されて黙っていることしか出来ない。

「俺は頭の悪い女を側に置くつもりは無い。余計な詮索をしてくる女もだ。こちらの世界じゃ口の軽い奴、頭の回らない奴から消えていく。そんな奴らに足を引っ張られるのは御免だからな。
 その点、お前は職業柄、堅気もヤクザも客として平等に相手取るから、弁えるべきポイントを判っている。常に気を巡らせ、自分が不利益を被らない生き方を覚え込んでいる。利口な生き方を知っている」

 ……褒められているんだかよくわからない。
 そりゃあヤクザの仕事にいちいち首突っ込んでいたら早死に確定演出みたいなもんだから、出来るだけ相手のことは訊ねないことにしているけれど、それはそういう決まりだからだし。

「見た目も派手じゃなく、かといって不潔でもない。前回食事をした時も観察していたが、躾がよかったんだろう、特に不快にさせられることもなかった」
「そ、それはよかったですね……」
「そうだ。今のところその頑なさ以外でお前を不快に思ったことがない」

 断言する語気の強さが怖い。そっと目を逸らしたところで、治崎さんの手が紙袋を漁り始める。
 ちなみに本日の私は仕事が無いので部屋着の紺色のゆるっとしたロングワンピースに髪は背中に垂らしたままだ。化粧はもちろんしていない。

「お前を望んでいる理由は大方そんなところだ。まだ詳細が気になるなら、後日メールにでも書いて送ってもいい」

 そのメール、拡張子がpptxのファイルが添付されていそう。
 治崎さんは今どきのヤクザらしくPCスキルもあるんだろうな。マクロまでしっかり使いこなしそうだ。

「まあ、それだけでお前が折れるとも思っていない。今のはすべて俺側のメリットだからな。こちらからも対等な条件を出してこその契約――いや、結婚だろ」
「ちょ、ちょっと待って、待ってください」

 「なんですかそれは」慌てて治崎さんの手を止めさせると、彼は丁度私の目の前に紙袋の中身を差し出した状態で停止した。
 きょとん、と蛇のような瞳が瞬き、「まさか見たことが無いのか?」と呟く。相変わらず目元しか見えないが、多分怪訝な顔をしているんだと思う。

 いや、何かはわかっているんだけど、どういう意図で"それ"を持ち出してきたのかを知りたいと言うか。
 明確な説明がなされてもまったく理解出来なさそうな予感があることで余計に怯んでしまうと言うか。

「通帳だ。名義は治崎廻おれ、およそ三百万入ってる」
「さ、さんびゃく……!?」
「いくつか持っている口座のうちの一つだ。金を洗って移すだけで半月かかったが」
「……ええ……?」

 困惑で言葉を失う私に、治崎さんは通帳を寄せる。

「これをお前にやる」
「な、なんでですか?」
「ついでに印鑑もやる」
「だからなんで?」

 思わず敬語が吹っ飛んだ。それくらいびっくりしたのだ。
 治崎さんは私の驚きっぷりに「もちろん結婚した場合の話だ」と付け加えたけど、重要なのはそこじゃない。
 結婚したってそんな出所不明の大金なんか持ちたくないだろ普通。そうでもないのか?

「三百万と印鑑があればひとまず大体のことは出来るだろう。なにか他に要望があるなら俺に出来る範囲で努力しよう。結婚する場合、俺にはその義務がある」
「さ……三百万やるから結婚しろってコト……!?」
「そこまで極端なことは言ってないが、まあ……概ねそうなる」

 と、とんでもねえ!! ヤクザの手口だ(彼はヤクザです)!!
 いりませんいりませんと首を振って通帳を机の上で突き返すと、彼は「だからこれは結婚した場合の報酬だ」と繰り返した。結婚するつもりは毛頭ないけど仮に結婚したとしてもいらない。
 通帳持っているだけで捕まりそう。何も悪いことしてないのに。

「なぜそんなに怯える? 金銭、いや資産恐怖症か? 聞いたことはない病名だな」
「もちろん違いますけど……普通怖いでしょ、急に三百万差し出されたら」
「……手っ取り早く俺の価値を上げるモノだ。判りやすくていいだろう」
「わかりやすく引きました」
「……」

 治崎さんの手の中で印鑑が悲鳴を上げている。悲鳴を上げたいのはこっちだ。

「……わかりました、ええと……治崎さん、普通を知らないんですね」
「何を基準に置くかで変わる概念だ。不安定で、脆くて、曖昧で――まあ、好ましくはない」

 治崎さんと話しているとドッと疲れる。ずっと緊張しっぱなしだからだと思っていたけど、どうやら彼と私の常識に大きな乖離があるおかげで疲労が蓄積しているようだ。
 治崎さんの言う通り、確かに私は彼のことを勘違いしていたらしい。
 組長が比較的常識人だったせいで治崎さんにも無意識に組長と近い感性・思考が下地として存在すると信じ切ってしまっていた。

 ああ、ああ、ようやくわかってきた。
 治崎さんは心から、本気で、私が七桁の数字で心を傾ける可能性があると信じている。

 そりゃあ可能性がゼロなんて言えない。私は私が聖人などではないことを知っているけれど。
 だからと言って金で愛を売ると思われているなんてどうかしてる。
 ――というのも間違いなんだろう。彼はそもそも金で愛を買おうだなんて思っていない。少なくとも結婚に愛を求めていないから。
 私は愛がほしい。信頼がほしい。お茶を飲んでどうでもいい話を出来るくらいには仲良くなりたい。
 そこらへんが噛み合わないから、私は彼とは通じ合わないんだ。

「……残念ですけど、お金をいくら積まれても治崎さんのことを好きにはなりません」
「金でダメなら何だ、女の好みそうなものは数が多くて絞り切れない。服か、鞄か?」
「どちらもいりません」

 なんだかほんの少し、この人を怖がっている自分を馬鹿らしく思う気持ちが芽生え始めている。
 もちろんヤクザで、人を踏みつけにすることに躊躇がなくて、おまけに常識もないこの人が怖くないわけはないんだけど、想像以上にわかっていない・・・・・・・様子を見ていたら馬鹿らしくなってしまった。

 口元が少しほころぶ。こんな人は初めてだから笑えてきた。

「もし本当に、……本当に、私でないと駄目だと。他に替えは無いと言うなら……」

 初めて自分から言葉を続ける私の様子を窺うように、「……言うなら?」と金色の双眸が訊ねてくる。短く切られた黒い髪が微かに揺れる。
 大人しく首を振って逃げ出せばいいのに、そう思うのに、治崎さんがあまりにも見当はずれなことばかりするから、私なりの正解を教えてあげたくなってしまった。助けてあげたくなった。

 こんなことを他人に思うのは、初めてかもね。

「あなたの持っているものでなく、あなたのことを聞かせてください。……あなたはどんなものが好きで、どんなものが嫌いか。そういうことを」
「知ってどうなる。それはお前の利益にはならない」
「言ったでしょう、私は利益を求めて結婚するわけじゃない」

 緩く首を振ると、治崎さんはほんの僅か眉間の皺を深くした。

「好きだと思うことは、共感することとよく似ていると、思うんです。似ているところに親近感を持って、親しみを感じて、好意を覚える。それは恋とはちょっと違うと思うけど、でも、好きは好きですから……」

「お前、それは」言いかけた治崎さんを遮って「好きは好きです」と繰り返す。

「思っていたのとは違うけど、……そういう好きでの結婚も、まあ、ありじゃないかと思います。好き同士なら、べつに」
「……、……随分饒舌になったな?」

 思わず破顔した。
 相変わらず感情は読めない瞳でこちらを見る治崎さんを恐る恐る見つめ返しながら、ずっと放置しっぱなしだった缶のプルタブを開ける。

「治崎さんがよくわからなくて怖いことに、慣れてきたのかもですね」
「……」

 温くなったコーヒーを飲むと、治崎さんはしばらく私の顔をじっと見つめたあと、倣うように缶のプルタブを引き、同じく温くなった缶に口をつけた。

「……治崎さんは、お肉とお魚はどっちが好きですか? この間食べたコースの、ステーキとムニエルは、どっちの方が美味しかったですか?」
「……あの二つなら──」
「──」
- ナノ -