月隠り

 父と組長の間で一体どんな話があったのか、はたまた治崎さんが何か嘯いたのか、私と治崎さんは再び会うことになってしまった。
 しかも二人きりだ。誰の助けも望めない。

 自宅兼事務所から八斎會の事務所まで車で送迎され、そこで八斎會の車に乗り換える手筈になっている。
 黒塗りのいかにも高そうな車にはすでに運転手が乗り込んでいて、運転席からひらりと手を振っていた。
 父の運転する自家用車(社用車?)から降りたくない気持ちでシートベルトの帯を握りしめそれを眺めていると、父に肩をせっつかれた。

「せっかくお洒落してここまで来たんだから行ってきなさい」
「うう……車降りたら死ぬ……」
「死んだらしっかり遺品整理までしてやるからな」

 どうして父はこう……治崎さんとの関係を進展させることにポジティブなんだろう?
 一体何を組長と話し何を治崎さんに吹き込まれているのか知らないが、どう考えても私と治崎さんは合っていないし、私が乗り気どころか及び腰でいるのなんてわかりきっているだろうに。

 私が一言「もう貴方とは会いません」と断れたならそれで終わることなんだろうけれど、その呪文を発した瞬間から起こりそうなことを想像すると猶の事口が重くなる。
 私の態度や言葉一つで治崎さん――そして組長の機嫌を損ねることになれば大惨事だし、勢力が弱まっているとは言え極道に一族郎党追い回されるのは御免だ。
 組長がそんなことをする人だとは思っていない。けど治崎さんはどうだかわからないから。

 渋々車を降りると、ドアを閉める音で私の訪問に気付いたのか、八斎會事務所の正面玄関から治崎さんが出て来た。
 いつも通りのスーツだ。初対面の時と違ってネクタイの色が黄色ではなく白であること以外に特筆すべき点は無い。

「みょうじさん、なまえさんを連れてきて下さってありがとうございます」
「いやいや、僕は何も」

 運転席の窓を開けた父と和やかに会話している光景からは、私と二人きりになった時の無機質さは想像も出来ない。
 別にそれでショックを受けたとかそういうことはなく、私はただ治崎さんが治崎さんであるという一点において彼を恐れているから、とにかく彼への警戒心と恐怖心、ついてに苦手意識を拭いきることが出来ずに俯いているしかなかった。

「正直俺は嫌われていると思っていたので、こうして来てもらえただけで嬉しいです」

 別に嫌っているわけじゃない。嫌うほどのことをされたわけではないし。
 ただこの関係の先にある結婚という結末だけは嫌だと思っているだけで。

 父の手前愛想よく目元だけで笑った治崎さんが、こちらに視線を流した。金色の双眸が私の頭から爪先までをじっと観察していく。

「……な、なにか変ですか……」
「…………いや、なにも」
「はぁ……」

 黒いレースのシアートップスにベージュのタイトスカート。足元はタイツとパンプスで全体的にフォーマルに。
 事前情報がホテルのレストランという行き先のみだったので、とりあえず普段着で行ったら羞恥で死期を早めることになるだろうなということだけはわかっていた。
 あとは父から二度目のお見合いを聞きつけた等くんのコーディネートである。私は等くんが提案する服装に首を横に振ったり縦に振ったりしていただけだ。
 もしこの格好が治崎さんのお気に召したと言うのなら、たぶん等くんと趣味が合うんだろう。
 逆にキツいと思わせてしまったんだとしたら素直にそう申告してもらいたい。そのまま父の車に戻り遺品整理されて来ようと思う。


 結局服装についてはそれ以上言及しなかった治崎さんに促され、黒塗りの車の後部座席に乗り込む。当然のように隣に治崎さんが乗ったので心臓が止まるかと思った。
 いや、べつに治崎さんが助手席に乗ってくれるとか思っていたわけじゃないけど。

「出せ」
「……みょうじのお嬢さん、出していいですかい?」
「な、なぜ私に訊くんですか……」

 運転席にいた特徴的な髪型の男の人が身を捻って振り返る。治崎さんのことは清々しいほどフルシカトだ。
 治崎さんの横顔がぴくりと眉根を引き攣らせたことで、車内の温度が気持ち五度ほど下がった気がする。身を竦めた私を一瞥し、運転席の彼は「出てほしくなさそうな顔してたから」と笑った。
 ご明察、事実です。でもそれを言葉にはしないでほしかった。隣の人がすごい顰め面になっている。

「いいから出せ玄野」
「いやァ、流石に足に使われた挙句誘拐だなんだでしょっぴかれたくないもんで」
「出せ」

 治崎さんがどれだけ険しい顔をしても動じていない。気安い口調だし年も近そうだし、もしかしたら治崎さんと親しいのかもしれない。
 本気で私が頷かない限り車を出さないつもりだと悟ると、治崎さんは運転席に向かって凄むのを止めちらりとこちらに視線を寄越した。
 わざわざ真意を問わずとも"出せ"のオウム返しを要求されているとわかる。

 いやでもこのまま降りて帰りたいのも本当だしな……と悩んだ末、恐る恐る口を開いた。

「あの……治崎さん?」
「なんだ」

 だから返答速くて怖いって。
 怯みながらなんとか「どうして私達はこれからご飯を食べるんでしょうか……」と疑問を絞り出した。

 治崎さんは不機嫌に膝の上で手を組んだ姿勢のまま首を回す。

「手っ取り早いのは食事だろう」
「……?」
「例えば他の目的の外出なら誘ってもお前は来なかったはずだ。お前の言う結婚の条件範囲内に入るための努力義務みたいなものだと思ってくれていい」
「……? ……??」
「要するにこれがイニシャルコストだ」

 運転席で噴き出す音が聞こえた。「まだ導入出来てねーでしょ」治崎さんの靴が運転席を蹴る。
 なんか前にも聞いたワードだな、イニシャルコスト。
 なんかよくわからないけど、うーん……。

「…………ええと、運転手さん」
「玄野です」
「……玄野さん。……目的地はわかりませんが、よ、よろしくお願いします」

 ぺこりと頭を下げると、運転席の玄野さんがなぜか「おお……」と感心したように手を叩いた。
 あと座席を蹴る音も止んだ。


* * *


 数十分走っていた車が停まると、治崎さんは「まだ降りるな」と言ってひとり降りた。
 特に反抗する理由も無かったので、大人しく膝の上に財布と携帯以外何も入らない小さな鞄を乗せたまま、そっと窓の外に視線を遣る。

 空模様はお出かけ日和……とはとてもじゃないが言えない曇天具合だ。
 コンクリートに小さい水玉模様が出来始めるのが見えたときは流石に「私ってもしかしたら雨女なのかも」と微妙な気持ちになってしまった。
 それとも治崎さんが雨男なのか、はたまた玄野さんの可能性も十パーセントくらいはあるのか。
 そんなことを考えていると、ふいに運転席の玄野さんが振り返り「治崎ならすぐ戻ってきやすよ」と言った。車内に残され不安がっていると思われたのかもしれない。

「あ、ええと、はい」
「潔癖症だもんで。多分ドア開けるまでが精一杯だと思いやすけど。急にハンカチで執拗に手を拭き始めても引かないでやってくだせぇ」
「……はぁ……」

 曖昧に頷く。潔癖症かぁ、以外の感想が浮かばなかったからだ。

 玄野さんの予告通り、二分もしないうちに治崎さんは私の座っている側のドアを開けてくれた。その手には黒い傘が二本ある。
 車からお店の入口までのこの程度の距離で、しかもこの程度の弱い雨で傘を差すんだな、と思ったけれど、まあ潔癖症と言われるくらいの綺麗好きなら"この程度"も気になるんだろう。
 大人しく傘を一本受け取り車を降りると、身を屈めた治崎さんが「帰りは連絡する」と運転席に向かって一言言った。
 慌てて私も身を翻し、玄野さんに「ありがとうございました」と続ける。
 玄野さんは人好きのする笑みを浮かべると、治崎さんには特に答えず車を走らせ去っていった。

 なんとなく、残された治崎さんと傘を差したまま顔を見合わせる。

「……肉と魚、どちらか希望はあるか」
「えっ、えーと……うーん……魚?」

 答えると、治崎さんは「そうか」と一言頷いて歩き出す。
 いや、質問の意味は?

「あっ、あのっ」
「なんだ」
「肉か魚か選べるんですか?」
「いや」
「えっ」
「どちらも出るからな。コースだ」
「ええ……?」

 本当になんで訊いたの……?
 冗談のつもりなら、治崎さんは下手くそなお茶目さんなのかもしれない。



 料理はよくわからないけど美味しかった。
 「コースだ」の言葉通り、名前が長くて何だかよくわからないちまちました料理が都度運ばれて来て、シェフが素材の産地や希少性についてあれそれ解説してくれた。
 メイン料理に辿り着いたあたりで、私が解説をぼんやり聞き流していることに気付いたらしい治崎さんが「知識の披露と補完はもう結構だ」と断ってしまったけれど。
 そういうのって断ったら省略出来るものなんですね。

 今は情緒と食欲が落ち着き、食後のコーヒーと小さなお菓子を味わっている。
 いつの間にか窓の外では雨脚が強まっていて、店内で流れているお洒落な音楽の隙間を絶え間ない雨音が縫い合わせ、得も言われぬ雰囲気を生み出している、ような気がする。
 こんな高そうなところでご飯を食べることがないので馬鹿みたいに曖昧な感想しか出てこない。
 治崎さんがコーヒーカップに口をつけている光景が(慣れている感じがして)すごく様になっていたから、余計に自分が浮いているようで肩身が狭かった。

 ──そう言えば、出会ってからずっとマスクをしていた治崎さんだったけれど、食事が運ばれてきた時にマスクを外したことにかなり驚いた。
 いや、ご飯食べるんだから当然っちゃ当然なんだけども。
 私もマスクはそこそこ頻繁に使うが、仕事着の一部のような扱いなのでプライベートではもちろん必要がなければつけない。
 その点治崎さんはプライベートだろうが仕事中だろうがマスクが友達のようだ。今のところ三回会って三回ともマスクをしていたし、マスク無しの素顔を拝んだのはこれが初めてだから。

「……なんだ。水でも飲むか?」
「あっ、いえ、お構いなく……」

 マスクのない治崎さんの顔をまじまじと見つめすぎていたらしい。レストランに入ってから眉一つ動かさなかった治崎さんが若干戸惑いの表情を浮かべている。

 綺麗な顔をしているな、と思ったのだ。
 肌は白く、睫毛は長い。マスクをしていても漠然と「イケメンなんやろな」と思わせる雰囲気があったけど、実際顔全体を見てみると絶妙なバランスと配置の為された顔面に感心してしまった。
 ヤクザらしくないヤクザと言うか、普通に大企業でエリート街道まっしぐらの役職持ち社員やっててもおかしくないように見えると言うか。

 さっと視線を逸らしコーヒーを啜る。
 と、「俺の顔はお気に召したか」とサラッと訊ねられ肩が跳ねた。
 やっと外見情報を粗方インプットし終えた私とは対照的に、彼はすでに私の挙動不審さから大体の思考を読み取るまでになってしまったらしい。

「や、そういう意味で見ていたわけでは……スイマセン……」
「なぜ謝る? 俺がお前を値踏みするように、お前にも俺を観察し値を付ける権利がある。顔で値が上がるなら存分に観察するといい」
「……」
「強引なことは出来ればしたくない。後々のことを考えればそれは最終手段にしておいた方がお互いの為だ。互いが互いの利害に納得したうえで穏便に契約を交わす」

 「それが理想だろう」と言って、コーヒーを啜る。
 視線を泳がせると、彼は顎を引き私に言葉を促した。言いたいこと――思ったことを口に出せと、僅かな仕草からそんなことすらも見透かされてしまっている。
 恐ろしい。
 けど、私の言葉に耳を貸す気でいる。私の言葉を彼は待っている。
 私をあくまで対等な契約者として見ている。
 私なんかを。

「…………初めて会った時にも、言いましたけど」

 「ああ」と治崎さんは頷く。

「私、結婚するなら好きな人とがいいんです。交わしたいのは契約じゃなくお揃いの指輪です、……契約じゃない……」
「書類に名前と判を捺すんだから契約だろう」
「……まあ、それはそうですけど……」

 契約だとか利害だとか言い始めたらきりがない。そのきりのなさは結婚という大きなイベントから夢も希望も根こそぎ削ぎ落していく。私はそれが嫌だ。
 人生のうちの優先度が高くないだけで、私は別に結婚そのものを軽んじているわけじゃない。
 だから治崎さんが頑なに「結婚とは契約である」みたいなスタンスでいると、どんどん心が離れていくのだ。それがよくわかっていないようだけど。

 治崎さんはカップを置き、項垂れたままでいる私に「……言い方が不満なら直すよう気を付ける」と言い加えた。
 この人、本当に私を"契約相手"として見てるんだな、と思った。ネガティブな意味じゃない。
 多分顔と財力と暴力を兼ね備え、単純な契約を結ぶだけの相手ならば選り取り見取りであるはずの治崎さんが、あくまでも私を契約相手として尊重しようとしているような素振りを見せていることに、決して小さくない驚きがあった。

 これで"契約者"候補が私以外に複数人いたら相当へこむけど。でももしそうなら私なんか候補に入れないだろう。

「……治崎さん、は……どうして、私と結婚したいんですか?」
「それは初めて会った時に言った通りだ。組長オヤジが身を固めろと言うからそうする。今後も惰性で女を呼ばれ続けても面倒だしな」
「それは――」

 思わず鋭い双眸を直視してしまう。
 ほとんど合わない視線が交差したことに、満月のような瞳がますます丸くなって、私はどこか凪いだ気持ちでそれを観察している。

「――私とでなくても、出来ますよ」

 返事は無かった。
 けれどそれはあまり気にならなくて、確かめるように、自分の思考をなぞり、諳んじるように口を開く。

「私は、私を好きになってくれる人と、その人を好きになったなら、結婚してもいいと思っています。……結婚それ自体の優先度は決して高くないしモチベーションもほとんど皆無ですけど、そう考えています。たぶんそれは今後も変わりません」

 膝の上で握り締めた手のひらが汗で湿っている。
 誰かの目を見て自分の思っていることを伝えることはそうそう無いイベントだから、勝手に身体が強張ってしまう。

 頭の片隅で、この人と結婚する確率なんて現状皆無なのに、どうしてこんなに(過去の対人関係と比較して)言葉を尽くしているんだろう? と冷静で冷徹な私が問いかけてきた。
 答えは無い。
 治崎さんに自分の気持ちを伝える意味は、今のところ、無い。

「ち……治崎さんは、どうですか?」

 それでもなぜだか彼に問うのを止められなかったのは、多分、金色の双眸が私から逸らされることがひと時たりとも無かったからだろう。
 後々「なんて大それたことを」と頭を掻きむしって後悔するのは目に見えていたのに、それでも問うのを止められなかった。
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