死化粧と怪鳥

※2019年に書いた短編のリメイクです。


 根暗で美人でもない葬儀屋の一人娘に、まさか縁談の話が舞い込んでくるとは思ってもみなかった。
 化粧台の前で、死化粧と自分の顔に化粧を施すのではまったく勝手が違うことを改めて思い知らされながら、幾度目かわからない諦念じみた驚きをなぞる。

 黒地の、足元に更紗模様の入った着物で椅子に浅く腰掛け、仕事道具でもある化粧鞄を開く。その傍らに一応普段使い用の化粧ポーチを並べるとまるで玩具のように見えた。
 この日のために慌てて買った、透明感が増すとかいう触れ込みの下地を塗り込み、その上からパウダーファンデーションを被せる。
 違和感のない程度に見せられる肌になったところで、アイブロウペンシルとブラシで眉を整えていく。
 無難なピンク系統でアイカラーを決めたら、申し訳程度にアイラインも引いておく。普段はここまでしないけど、一応、仕事ではないから。地味すぎると最悪やり直しがかかる。
 けれどあまり派手にしても似合わないだろう、とマスカラはやめた。これもこの日のために買っておいたけど使い時はなさそうだ。ポーチに仕舞う。

 最後に、唇に紅を引く。
 鏡に少し顔を寄せ、血色のあまりよくない唇に口紅の先端を押し付ける。手が震えてよれるのを防ぎたくて、より力が籠もった。

 お見合い相手が一般人であればまだ心臓が苦しい程度の緊張で済んだだろうが、今回ばかりはそうもいかない。


 父親と、唯一の従業員である等くんと、死穢八斎會で簡素な葬式を行ったのは三週間も前のことになる。
 うちは一般人の葬儀から、大っぴらには言えない職の人達の葬儀まで平等に執り行うことで定評がある。
 父が葬儀に至り、それを終えるまでの手続きの一切を代行し、私は死化粧やその他の細かい雑務、等くんは通夜・告別式の設営やおおよその力仕事を担当し、なんとか三人で仕事を回している。かなり小規模な葬儀屋の割にはそこそこお客さんからは定評をもらっていると思う。

 数いるお客さんのなかでも死穢八斎會の現組長と父は個人的にも親交があり(だめだろ)、娘である私と唯一の従業員かつ年下である等くんもかなり親切にしてもらっていた。
 昔ながらの極道らしい、気難しく他人にも自分にも厳しいけれど任侠の心を重んじる気のいい人だから、グレーあるいは完全にアウトな職業のお客さんのなかでは八斎會の組長が一番好きだった。

 葬儀の準備に組の事務所を訪ねた時も、組長は私達を快く迎えてくれた。
 問題は、父と世間話中だった組長の関心が、たまたまそばを通りがかった等くんに向いたことだった。

「おう等、相変わらずひょろっちいな。飯食ってんのか」
「食ってます」
「これだけ細いと頼りないですよねぇ。こんなに細かったら大事な人も守れないぞって言ってるんですけど」
「なんだ、女でも出来たのか?」
「それがまったく。……うちの従業員は揃ってそういう話がなくて。父親としては心配ですよ」

 少し離れた部屋の隅で活ける花を分けていた私の背中に父の視線が突き刺さる。
 べつに男なんかいなくたって生きていくだけなら問題はないし、職業のせいで更に出会いがない。友達すらほとんどいないのに男も女も出来るわけないだろ。

 聞こえない振りを決め込んでいると、組長がふいに「なまえ、今年でいくつだ」と問いかけてくる。
 仕方なく膝立ちのまま振り返り二十五ですと答えた。まだ行き遅れとか言われる年ではないと思うんだけど、組長達の年齢の人からするとすでに残り物判定なんだろうか。

「二十五か。うちにもそれくれぇの奴がいるんだがよ、そういう話がこれっぽっちもなくてつまらねェ」
「最近の若者って皆そうなんですかねぇ」
「丁度いいな。会って話するだけでも何か起こるかもしれねぇよ」

 おっと、流れが変わったぞ。
 反応したら負けだと思って特にコメントはしなかったけど、動揺しすぎて持っていた花の束を落としかけた。マスクの下で舌も噛んだ。こ、これはよくない流れだ……!
 今までにも父が知り合いの年齢が近い男の人を薦めてくることがあったけれど、そういう雰囲気になったり実際に対面しそうになる前に全てお断りしてきた。
 縁談とか時代じゃないだろ、と思っていたし、大前提父が連れてくる人は大体ヤバい。安心して表通りを歩けなくなりそうな人が主だった。

 組長が"うちにも"と言うことは八斎會の人――つまり顔も知らないその人も当然ヤクザである。ということは断らない理由がない。
 最悪結婚するにしても、籍を入れるなら相手は一般人がいい。危険な生活は御免だし、私は結婚と同時にこの葬儀屋を辞めたいと思っているので安定した収入と生活がある程度保障される職業の人が望ましい。もちろん結婚した後も葬儀屋以外でなら働く意思はあるけど。

 冷や汗をかいている間に背後でトントンと話は進んでいき、「じゃあ三週間後に」とその場で大体の日取りまで決まってしまった頃には、反応しなくても負ける時があることを察しつつあった。
 しかも恐らく当日私と机を挟んで向かい合うことになる人の顔も名前も知らないまま。
 どうして等くんから始まった話題なのに着地点が私なんだろう?

 疑問や異議は沢山あったけど、そういうわけで当人達を(おそらく)置いてけぼりにしたまま縁談というイベントが決定してしまったのであった。


* * *


「なまえ、まだ緊張してるのか?」
「黙っててお父さん」

 数歩先を歩く父が足を止め振り返る。
 顔に浮かんだ苦笑を睨みつけながら、きつく締めた帯のあたりを手で擦って息を吐いた。さっきから吐くばかりで吸えていない。身体が萎んでしまいそうだ。

 歩くだけでも請求が発生しそうな料亭の廊下。どうしたって動きづらい着物。いつもは薬用リップくらいしか塗らない唇はベタベタしているし血のように赤く見えるはずだ。もっと控えめな色を選んでおけば、いやそもそも口紅なんて塗らなければよかった……。

「化粧も似合ってるぞ。いつもそれくらいすればいいのに」
「ほんとに黙って」

 こんなフル装備で日々を過ごしていたら疲労で倒れるわ。
 私が着飾ったらそれはそれで等くんと「なにか嫌なことでもあったのか……?」とひそひそするくせに。

「父さん相手の子は前から知ってるけど、物静かないい男の子だぞ。お前の想像してるようなことには多分ならないだろうから安心しなさい」
「黙ってマジで、人の話聞いてる?」

 やたら歩かされた先に閉じられた白い襖が見えてくると、いよいよ父に悪態を吐く余裕もなくなった。とりあえず両手を揃えて、俯いて、防御姿勢だけはバッチリに。
 父が声をかけると、中から聞き慣れた組長が「入れ入れ」と大きな声で応える。

 遠慮なく襖を開け放ち父が何故か楽しそうにしながら部屋に踏み入るのに続いて、出来るだけ顔は俯かせたまま、座布団に滑り込むようにして座った。
 視線は畳と座布団に固定していたから、真正面に座っている相手のネクタイが多分黄色だということしかわからなかった。顔はもちろん見ていない。
 私はメドゥーサでも相手にしているんだろうか? 我ながら失礼すぎる挙動だ。
 視線を下げたまま何も言わない私を、組長が笑っている気配がした。

「あんまり粧し込んでるもんだから誰かと思ったぜ、なまえ」
「……ど、どうも……」
「んな死にそうな顔しなくても取って食ったりしねェよ!」
「……うっす……」

 まともな返事が出来ない。一応私の名誉のために断っておくと、普段の私はもう少しマシに会話が出来る。真正面から感じる突き刺さるような視線に身構えるのが精一杯で他に割く容量がないだけだ。

 父と組長は私が口下手で人見知りなのを承知しているので、私が自発的に口を開かないのを悟ると顔を見合わせて笑った。
 組長が隣に「慣れればもちっと喋るようになる」と囁いているのを聞いて顔から火が出そうだ。

「ああ、まずは紹介からだな。なまえ、こいつがお前の見合い相手だ」

 「治崎」と組長が小さな声で呼ぶ。
 その呼で律儀に姿勢を正したのか、正面のネクタイが黄色い男の人は衣擦れの音を小さく鳴らし、「治崎廻です」とはっきりした声音で言った。

 反射的に顔を上げる。

「初めまして」
「……どっ……あっ、は、初めまして……」

 思わず二度見してしまった。慌てて「みょうじなまえです」と付け足しながら、驚きのあまりそれまで恐れていた相手の顔をまじまじと観察してしまう。
 失礼だと思うけど、イメージとだいぶ違ったので本当にびっくりしたのだ。

 パリッとした黒いスーツに短く切られた黒髪。白いマスクをしているから顔は目許しか見えないけれど、切れ長の鋭い眼差しは確かに只者ではない雰囲気がある。理系ヤクザっぽい。IQ200くらいありそう。
 けれど威圧感みたいなものは微塵もなく、いっそ胡散臭いくらい爽やかな顔だ。マスクしているけどそんな感じがする。
 体育会系の部活に所属してレギュラーで活動しながら同時に委員会にも入っていそうだ。実際どうかは知らないけど学生時代は風紀委員とかやっていなかったかな。

「治崎くん、久し振りだね。元気だったかい?」
「お久し振りですみょうじさん。ええ、おかげ様で大きな怪我はなく。お世話になるのはまだ当分先のようです」
「ははは、それがいいよ。ごめんね、うちの娘、初対面の相手とは緊張で喋れなくなるタイプなんだ」
「いえ、娘さんがいるのは知ってましたが、想像を超える美人が来たので俺も緊張してます。喋れなくなりそうだ」

 うるせー人見知りとコミュ障は生まれつきだわほっとけ!!
 「緊張してます」とか言う割に受け答えは泰然としているし、多分私があまりにも酷い状態だから気を遣って共感するフリをしてくれているんだろう。同い年と聞いていたけど相手があまりに大人すぎて最早心が折れそう。

 ちらりと顔を上げる。視線が合うと、金色の瞳が静かに細くなって速攻で俯いた。
 べつに冷たい感じはしないし、何をされたわけでもないけれど、なんだか仕草のあちこちの妙な穏やかさと静けさが蛇のようでどうにも……。

 そんなことを思って震えている私を置いてけぼりにして、父は「治崎くんとはなかなかタイミングが合わなくて紹介出来なかったね」と呑気に微笑んでいる。
 わざわざ紹介だ何だと言い出すあたり、もしかして目の前の……治崎廻さんは八斎會のなかではかなり組長に近い場所にいる人なのかもしれない。若いのにすごいな。余計に帰りたくなってきた。
 ちなみに、私は顔よりも職業と人柄で伴侶を選びたい。
 人並みな美的感覚は持ち合わせているつもりなので、そりゃあ顔はいいに越したことはないけど、別に顔面の善し悪しは生死に関わることはないので優先度は高くないのだ。
 日常生活のなかに銃弾や怒声が乱入してくるような家庭は死んでも御免だ。ヤクザと結婚なんて嫌だ。サラリーマンとか、普通に育って普通に今を生きている人がいい。

「保護者が間に入ってても仕方ねえ、そろそろ俺達はすっこむぞみょうじ」
「そうですね。ああでもその前に、治崎くん」

 座布団から立ち上がろうとする組長を引き留め、父は笑みを崩さないまま治崎さんを見る。治崎さんは、爽やかな表情を保ったまま「何でしょう」と父の言葉を待つ。

 私は何となく父の言わんとしていることがわかって、そっと視線を床に落とすことで我関せずの態度をとった。
 私の話だから、我関せずも何もないけど。
 ちょっと過去に色々あったものだから、父はちょっと敏感になっている。下手をしたら私よりも。


「うちの娘は無個性なんだ。君は個性持ちだろう? もし無個性の娘が嫌だと言うなら、どうか今この場でそう言ってほしいんだ」


 私は無個性だ。
 父と母は個性持ち。私は現代社会では当然の異能の遺伝子を引き継げなかった希少種、ということになっている。
 今の私は無個性で不自由していることはないから、ただ葬儀屋として生きていくだけなら、個性の有無をそこまで気にしていない。
 ただ、過去――特に学生時代は無個性のせいで揶揄われたりして嫌な思いをすることがあったから、父は私以上に私の無個性を気にしているんだろう。

 治崎さんはほんの僅か金色の双眸を丸くして、けれど告げられた事実になにか反応を示すでもなく、一言「無個性」と父の言葉を復唱した。

「個性があろうがなかろうが、娘には出来るだけ幸せな人生を歩んでほしいと思うのが親心ってもんだろ? 僕ら家族以外になまえを守ってくれる人が現れてくれればいいな、と思っているよ。
 けれど組長の紹介だからと言って考えなしに頷かれるのは困るんだ。君がそんなことをするような人じゃないのは承知しているけど、僕は何より娘の心が大事だから」

 ……実際問題、個性の強さがそのまま社会での立場の強さに繋がる異能社会で、無個性の女を側に置くメリットは皆無だろう。
 個性持ちのヴィランや犯罪組織の台頭によって力が弱まりつつある極道が現代社会でも生き残るためには、強い個性を持つ人間を身内に引き込むのが定石と言ってもいい。そのはずだ。

 もちろん組長が個性の有無で人を判断するような人ではないことは父も私もわかっている。けれど、あくまで組長と治崎さんは別の人間だ。二人の思想や目的が一致していているとしても、組長の意見に百パーセント治崎さんが同調するわけではない。
 普通は、無個性の女を差し出されて「はいそうですか」なんてことには、恐らくならない。

「組長が信頼を置いている君なら僕も信用出来る。ここで君がこの縁談を無かったことにしたいと言ったって、僕や娘が君を恨むことは絶対にないし、答えによって組長が君への対応を変えることも絶対にない」

 父は無個性の女は不要であるという思想を後出しじゃんけんの要領で出されることを警戒している。……私も、出来れば今ここでこの縁談自体を否定してほしい、と思っている。
 無個性コミュ障根暗の最悪三冠女なんて一体誰が欲しがるものか。
 別に結婚しなければ死ぬわけでもないんだから、いつも通り破談になればそれでいい。断れ、断れ、断れ……!
 深く項垂れ、強く願った。


 ──治崎さんのマスクが微かに動く。


「少なくとも、俺にとっては、個性の有無は些事です」



 果たして彼は、私の祈りを裏切った。

 ガツンと頭を鈍器で殴られたような衝撃。
 思わず顔を上げる。治崎さんは金色の瞳でこちらを、私をじっと見ている。
 満足そうに笑んだ父に対して「人間、重要なのは中身ですから」と付け足すのを聞きながら、決して逸らされない瞳に射抜かれたまま硬直していた。
 理由はわからないけれど、今目を逸らしたら何か取り返しのつかないことになる気がして。

「いや、それが聞けて安心したよ」
「よく言った治崎、答えによっちゃ殴ってたぜ」
「勘弁してくれ組長オヤジ、俺のことなんだと思ってるんだ」

 私を置いてけぼりにして繰り広げられる会話がいまいち頭に入って来ない。
 真剣に、ヤクザの上層部に食い込んでいるだろう彼が、無個性の私を拒絶しなかった理由がわからなかった。
 単に組長の手前、何かと便利な葬儀屋の娘を個性の有無で差別することが憚られたのかとも思ったけど、聡明な組長の前ではそんな嘘なんてすぐに見破られてしまうだろう。たぶん言葉の通りぶん殴られることになるはずだ。

 そうなると治崎さんがとてつもなく嘘を吐くのが上手いか、本気で個性があろうがなかろうが気にしていないかのどちらかになる。
 ……確率で言えば後者だろうか。別に返答次第で即結婚が決まるわけでもないし、「お宅のお嬢さんが無個性だから縁談を断るわけではないですよ」という前振りがあった方が穏便に事を済ませることが出来るからかも。


 父は本当にその問答で満足してしまって、組長と連れだって「あとは若者同士でゆっくりして」と言い残し退室してしまった。
 取り残された私は治崎さんの言葉の意味をぐるぐる考えたままだ。視線は磨き上げられた机の天板に固定され、何かを話す余裕もない。

 部屋から足音が充分遠ざかったのを聞き届けた治崎さんが、正座を崩し胡坐に切り替える音に肩を震わせる。
 何か話して沈黙を破らなければいけないような強迫観念に唇を戦慄かせたとき、彼はまるでそれを見越していたかのように「落ち着け」と短く言った。

「え、あ……あのっ」
「少なくとも周囲に人の気配はない。無理に会話をする必要はないし、そのつもりもない」

 「少なくとも俺は。お前はどうだ」先ほどまで漂わせていた爽やかさが嘘のように冷たく、淡々とした表情で問いかける。がくがく頷くと、白い手袋をした大きな手が机の上で指を組んだ。
 お行儀よく正座したままの私を見据え、手元に視線を落とし治崎さんは言う。

「ここまでお膳立てした組長やお前の父親の面子もある。俺達がこのまま即解散したなら、お互い不要な詮索を受けて余計な面倒が増えるだろう」

 繰り返し頷いた。
 あとで「相手のどこが気に入らなかったんだ」とか「すぐに三十代突入だぞ」とか「元気でいられる時間は短いぞ」とか言われる。経験則で知っている。
 治崎さんも、もしかしたらそういう経験があるのかもしれない。どうしてこう……父の世代から上の人達はやたらめったら結婚を急かすんだろう?

 理想はこの場は適当に時間を潰し、後日「やっぱり考え方が合わなくて……」とか適当に理由をつけて別れるのが無難だ。
 そもそもお見合いというのは互いの相性や性格の一致不一致を窺うためのものだから、合わない相手も当然現れる。
 私と彼は考え方が合わなかった。そういうことにすれば誰も傷付かない。

「じゃ、じゃあ、あの……!」
「まあ、俺は異性と籍を入れることが最終目標だと組長が言うんであれば、お前が相手でも構わないが」
「は?」

 ぱちんと口を手で塞ぐ。この人は急に何を言い出すんだろう?
 絶対、共謀してこの場を切り抜けてからお互いいつもの平穏な生活に戻る手筈の流れだったのに。

 言葉を失くした私を治崎さんが見つめている。──この部屋に入ってから治崎さんの目が私から逸れた瞬間があっただろうか?
 値踏みするような、観察するような、あるいは威圧するような眼差し。

「『個性』という病に罹っていない人間は稀少だし、健全なカタギよりある程度この"世界"の仕組みやしきたりに理解があるお前の方が都合がいいこともある」
「え……ええと……?」
「俺は組長の望みを叶えたい、お前は父親を安心させたい。……それとも面倒な紹介や縁談を終わらせたい、か? どちらでもいいが、お互いに利があるだろう」

 滔々と語られる言葉の意味がわからない。わかりたくない、という気持ちも少しある。
 まるで組の規律を破って詰められる下っ端構成員の心地。何も悪いことはしていないのに、治崎さんの両目が私を追い立てるようだった。

 いや、確かに言っていることの一割くらいはわかるんだけど。
 それよりもまず重要なことがある。何よりも大切だ。
 結婚が利害の一致の結果だと思っているようだけど、私は、

「籍を入れた場合、お前は恐らくウチで生活するようになるだろうが──」
「あの」
「なんだ」

 皺になるくらいぎゅっと着物の布を握り締め、恐る恐る金色の瞳を直視する。急に話を遮った私に、治崎さんはすべての生物的な仕草を止めて続きを促す姿勢だ。
 いっそ非人間的なくらい固定されたまま動かない視線を一身に受けながら、震える喉を叱咤した。

「……私、結婚は好きな人としたいので…………ごめんなさい……」




「は?」



 いや普通はそうだろ。
 この縁談を穏便に終わらせる方向なら手を組んだかもしれないけど、逆なら話は別だ。正直、治崎さんの言っていることには微塵も共感していないし。

 ぎゅっと瞳を絞り、恐らくマスクの内側で口を開けたままにしているだろう治崎さんの視線が突き刺さる。
 治崎さんが滅茶苦茶嫌とかそういうわけではないけど、だからと言って結婚出来るかと言われたら答えはノーだ。不安要素が多すぎる。
 好きな人と結婚したいのはもちろん、大前提危険な職業に就いている人とは籍を入れたくない。私からすれば、最初から破綻した縁談だった。

 それを父や組長に伝えることを諦め、端から怠惰全開で臨んだ私も悪かったけれど、気持ちも将来も置いてけぼりにした利害しかない結婚に前向きな治崎さんも治崎さんだ。
 そんな目で見たって駄目だ、人生に大きく関わることなんだからそう簡単に負けないぞ……。

「……正気か? この状況で?」

 治崎さんの言わんとしていることはわかる。
 "親"同士が親しいとは言え彼はあくまで極道だ。彼の意に反して首を横に振り続ければ何が起こるか予想がつかない。

「正気だからこそです……」
「……」
「できません、すいません……」

 背中を変な汗が伝っていく。机を挟んで、治崎さんがほんの僅か身を乗り出すような仕草をした。私は目だけは逸らさないように、けれど我慢出来ずに背中を丸めていく。
 せっかく丁寧に着付けたのに、これじゃ台無しだ。

 私がこれ以上何も言わないのを悟ると、治崎さんは組んでいた指を解き、短く切った髪に指先を差し込んで軽く撫ぜるように掻いた。

「……イニシャルコストとランニングコスト、どちらが高いか考える」
「イニ……え?」

 そのまま黙り込んでしまった治崎さんとはその後三十分ほど室内で過ごし、結局結論が出ないままその日は解散となった。

 帰り道、車内で「どうだった? 治崎くんどうだった?」としつこく訊いてくる父に見向きもせず、私は今後の不安で肺を充たし、再びそれを吐き出すため身体が萎んでしまいそうなくらい溜め息を吐くのだった。
 どうかこれで終わってほしい。
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