灰空観望

(※過去に関する捏造過多)


 まだ私が少女と呼ばれて違和感のない年齢だった頃、近所で不審者がひと月近く出没し続けた期間があった。
 女……主に小学校低学年の女子児童を狙って突然声をかけてきたり、身体を触ったりといったタイプで、顔をマスクや眼鏡で隠していたうえ大きめのサイズの服を着ていたせいでなかなか有用な証言が集まらず、逮捕までにひと月の時間を要したというわけだ。
 だからと言ってひと月もそこまで広くはない町に限定して犯罪を繰り返していたロリコン野郎が野放しにされていたというのは警察の怠慢や力不足だったんじゃないかと思わなくもない。

 犯人が捕まったのはお昼を少し過ぎた頃だった。
 平日に参観日があって、いつもより帰宅が早かった日だった。参観日だから親と一緒に下校する子供が多かったし、通学路には不審者を警戒したボランティアの大人達が立っていたのだけど、それでも事件は起こった。
 親と一緒に下校する児童が過半数である一方で、PTA役員なんかで学校に残って会議に参加する親も一定数はいたので、児童の何人かは子供同士だけでいつものように帰っていた。私もそのうちの一人だった。


 並んで隣を歩いていたはずの友達の身体が突然宙に浮いた時の衝撃を、今でもよく覚えている。



「なまえー、帰りにカラオケ行かない?」

 机の中身を鞄に突っ込んでいると、友達である朝子が正面に回り込んできてそう言った。
 教室内や廊下はまだ生徒でごった返していて、みんなどこか浮かれた様子で友達や彼氏彼女なんかと放課後の予定について話し合っているようだった。
 最後のペンケースを突っ込んでから鞄のチャックを閉めつつ「朝子」と諭すように彼女の名前を呼んだ。

「いくら一週間部活がなくなったからって浮かれすぎじゃない?」
「運動部にとって問題行為発覚以外の理由で部活動が停止になるのは奇跡に等しいことなのよ。文化部のなまえにはわからないでしょうけどね〜」
「わかんないですね〜ごめんなさいね〜」

 言いながら鞄を肩にかけようとすると、鞄の紐を掴んだ朝子がぴとっとくっついてくる。そのまま強請るようにゆらゆらと腕を揺らされて、教室内の騒がしい話声に耳を傾けながら内心溜め息を吐く。

「……こういう時に遊びに行きたくなる気持ちはわかるんだけどね、放課後の自由時間のためじゃなくってはやく家に帰らせて生徒の安全を確保するためでしょ。私は早く帰るべきだと思うよ」
「もう、なまえ、ほんと頭固いよね。正論パンチが痛いよぅ」
「正論だと思うなら真っ直ぐ帰ろうよ……」
「大丈夫だって、いつもよりは早く帰るようにするし! ね、ね!」

 どうあっても私を連れていきたいらしい。
 呆れを含んだ苦笑を浮かべながら、そっと窓の外に視線を流した。

「女子高生を狙った通り魔事件――もし犯人と遭遇したらどうするの」
「だからぁ、そんなのとばったり会っちゃうなんて天文学的確率の話でしょ? あたしらが会うわけないじゃん」
「……絶対大丈夫、なんてのはないよ」

 二週間前からおよそ三日に一回のペースで帰宅途中の女子高生が刃物で切り付けられる事件が起こっていた。
 犯人はいまだ捕まっておらず、被害者は一昨日の東校の生徒で四人目。いずれも暗くなってからの犯行でみんな犯人の顔は見ていないと言う。
 そういうわけで、ここら一帯の学校は放課後の部活動を一斉停止し、生徒達を明るい時間帯に帰そうという試みが行われているのだった。

 放課後の部活動停止が宣言されたのが週明けである今日、月曜日の朝で、生徒達は事件のことなんてそっちのけで放課後に後ろめたくない自由が出来たと盛り上がっている。
 バレーボール部に所属している朝子をはじめとした運動部は特にテンションが上がっていて、多分運動部の半数以上が今日は駅前のカラオケに殺到するんじゃないだろうか。

 緩やかに目を伏せたわたしが急に表情を失くしたのを見て、朝子がほんの少し気まずそうな顔を見せる。
 別に朝子とカラオケに行くのが嫌なわけではないのだけど、不審者と遭遇する確率がゼロでない以上はさっさと家に帰って大人しくしていたいのが本音だった。
 このまま朝子を説得して、あわよくば朝子の帰宅まで見送ってから帰りたいな、と思っていると、それでもめげずに朝子が両手を叩いた。

「じゃ、もっと人呼んで大人数で行こうよ! みんなで歩いてれば狙われないでしょ!」
「いやそういう問題じゃ……」
「ねーねーみゆ、カラオケ行かない?」
「……あさこぉー……」

 運動部あるある、交友関係がとにかく広い。

 止める間もなく他のクラスにまで声をかけにいった朝子は、同じ部活の子達を引き連れて「これで文句あるまい」と胸を張った。……悪い子じゃないんだけどちょっとおつむがアレなんだよなぁ。
 しかも更なる私の拒否を想定してか男子も何人か連れてきたようだった。何がそこまで彼女をカラオケに惹き付けるのかわからなくてちょっと引く。年がら年中部活で忙しくしているから友達と遊びに行ける機会が滅多にないというのもわからなくはないんだけど、だからってここまで必死になるものか?

 もうこれは収拾つかないな、と半ば諦めの気持ちで放置された朝子の鞄を回収して廊下に向かおうとしたとき、背後から「あの、」と控えめな声で制止がかかった。
 足を止めて振り返ると、クラスメイトの諸伏くんが遠慮がちにこちらを窺っていた。

「みょうじさん、カラオケ行くの?」
「あー、うん。まあ仕方ないから……」

 どうやら事の顛末はすべて聞いていたらしかった。心配そうな表情をしている諸伏くんはどうやらこの機会に乗じて遊びに出ようと計画する大多数ではなく、私と同じ「真っ直ぐ家に帰るべき」派のようだ。

「……みょうじさん」
「なぁに?」
「俺も一緒に行っていい?」

 お……?
 思わず目を瞬かせた私をじっと見ながら、諸伏くんは「あ、隣のクラスの降谷も誘いたいんだけどいいかな」と付け加える。

 私と同じ意見のはずの諸伏くんが急にこのカラオケ行きに参加すると言い出した理由がわからない。首を傾げて「いいよ」も「だめ」も言えないうちに、諸伏くんはさっさと朝子の方へ行って「俺と隣のクラスの降谷も参加で」と自己申告をしに行ってしまった。
 朝子も人数が多ければ多いほどいいと思っているので簡単にオッケーしてしまう。

 どんどん増えてしまう人数にちょっと気持ちがげんなりしてくるのを感じながら、ここまで来たらもう逆に参加しないで一人で帰る方が危険だと自分に言い聞かせて諸伏くんの後を追った。


* * *


「駅前はみんな行くだろうから混むよねぇ。ちょっと遠いけど東町の方まで行こっか!」

 朝子の号令でぞろぞろカラオケ一行が歩き出す。
 結局女子5人、男子4人が集まり、9人という中々の大所帯になってしまった。私がまともに話したことがあるのは同じクラスの諸伏くんと、男子バレー部所属で朝子にこっそり片思いをしていてたまに相談に乗る生田くんだけだ。
 諸伏くんが呼んだ隣のクラスの降谷くんと生田くんが連れてきた浜丘くんに関しては喋ったことがない。

 降谷くんは地毛で金髪に浅黒い肌で結構目立つ生徒だったから顔はよく知っている。諸伏くんと親しいのも何となくわかっている。
 ……その降谷くんは朝子が連れてきた他の女子に両脇を固められているので自己紹介すら出来なかった。
 朝子は生田くんと並んで歩いているし、浜丘くんはもう一人の女子とゲームの話題で盛り上がってしまっているので、必然的に私は諸伏くんと最後尾を歩くことになった。

「……ごめんね諸伏くん、ホントはカラオケ興味なかったんじゃない?」
「え? あ、いや、そんなことは……」
「いいんだよ、私だって正直こんな人数集まらなかったら朝子引き摺って帰ろうと思ってたし」

 呑気に先頭を歩いている朝子のポニーテールの後頭部を見ながらそう言うと、諸伏くんはちょっと苦笑して「早く帰ろうって言ってるのが、なんていうか、珍しくてさ」と言った。

「クラス中みんなカラオケだのゲーセンだの言ってただろ? だからみょうじさん、本当に真面目にあの通り魔事件のこと考えてるんだなって」
「ああ、……うん、まあ、色々あって。不審者出没とか通り魔とか、あんまり他人事に思えなくて」

 そう言いながら目を伏せる。思い出すのはいつも小学生の頃のことだ。もうあれは過去のことで、犯人だって捕まっているって言うのに、未だに私はあの事件に取り憑かれてしまったように忘れることが出来ずにいた。
 地雷を踏んだと思ったのか諸伏くんが慌てて謝るのを制して苦笑する。

「昔、小学生の頃ね。通ってた小学校の区域内に女子児童を狙う不審者が出て、それがひと月くらい続いてね。結局事件は6人目で犯人が捕まって終わったんだけど」
「……」
「その6人目、私の隣を歩いてた友達でね」


 ――隣を歩いていた友達の小さな身体が唐突に宙に浮く。

 あっと思った時にはもう遅く、友達の両脇に大きな手が差し込まれていて、見知らぬ大人が友達を抱き上げたのだと気付いた。
 マスクと眼鏡で顔を隠してはいたけれど、すぐに例の不審者だと理解した。そして恐怖した。今までの話じゃ声をかけたり触ってきたりするだけだって、連れ去りなんて起こってないって聞いていたのに。

 不自然な早歩きで友達を抱え逃げようとする男が背を向けた瞬間、それまで金縛りにあっていたように固まってしまっていた両脚が急に自由になった。
 ランドセルなんか投げ捨てて、必死に大声で大人を呼びながら男の足にしがみついて、……何度か振り払われそうになったり蹴られたりして。
 そうこうしているうちに私の大声や友達の泣き声に気付いた大人達が駆けつけてくれて、犯人は友達を放り出して逃走。その日の夕方には逮捕された。


「友達、それですっかり男性恐怖症になっちゃって。結局事件の半年後に引っ越しちゃって今は疎遠なんだけど、今でもたまに思い出して、怖かったなぁって思うの」
「……そっか」
「だから今も通り魔がまだ捕まってないって聞いて、正直ビビってる。……気にしすぎかもしれないし、朝子の言う通り遭遇する確率だって天文学的かもしれないけどねぇ」

 そう言いながらも、頭のなかでは今朝のニュース内容を意識がなぞってしまう。
 4人目が襲われた場所はここから結構近い。4件目ともなると犯人も手慣れてきたようで、目撃者もほとんどいなかったと言う。

 被害者はいずれも人通りの少ない道を十八時以降に通っていた女子高生だ。
 今はまだ十六時を少し回ったくらいだし、考えすぎだと笑われたらそれまでなんだけど。
 人目を盗み犯罪を犯す奴らは慣れで少しずつ犯行を大胆にしていく。
 あの時もそうだった。5人目まではすべて夕方以降に事件が起こっていた。けれど6人目は大胆にも白昼堂々、至近距離ではないとは言え大人や警戒する見回りボランティアがいる場所をわざわざ狙って連れ去りをしようとしたのだ。
 自分をまだ捕まえられない警察に対する侮りか、周囲に人がいるなかでの犯行にスリルを覚えていたのか、はたまたそれ以外に理由があったのかは知らないけれど。

「……まあ、そういうわけで真っ直ぐ帰りたかったのです。ごめんね、楽しい話じゃなかったよね」

 前を行くみんなは楽しそうに会話をしている。お通夜のような状態になっているのは私と諸伏くんだけだった。
 せっかくこれからカラオケなのに、とかでもこういう話題振ってきたのは諸伏くんだしな、と悩みながら隣を見遣る。

 苦痛に歪む表情。
 オレンジがかった太陽の光を受けてなお白く見える顔は何かの感情を堪えるように唇を噛んでいて、とてもじゃないが放課後遊びに行こうとしている高校生には見えない悲愴さを孕んでいた。
 視線はどこか遠くの宙に向いたまま、ただ瞳だけが苦しげで―――。

「……諸伏くん?」

 俯き気味に黙ってしまった彼の正面に回り込んで小さく手を振ると、大袈裟なくらいの仕草で、相変わらずどこか怯えたような表情の諸伏くんが弾かれたように顔を上げた。
 じわりと滲んだ汗は夕陽が直撃して暑いから、ではあるまい。

「大丈夫? 具合が悪いなら帰る?」

 か細い呼吸のまま、呆然として私の言葉を咀嚼している。もう一度同じトーンで同じ内容を繰り返すと、ややあって諸伏くんは首を横に振った。
 短いさらさらの前髪を指で掻き分けながら溜め息を吐く。

「大丈夫。……ちょっと、よくないことを考えていて」
「……そう?」
「平気だよ。それに、平澤さんじゃないけど、女子だけで行くよりは男子もいた方がまだマシかもしれないだろ。今帰ったらここまで来た意味がないからね」
「あ、そういうことだったんだ。なんかごめんね、付き合わせちゃって」
「ううん。俺が自分でついて行くって言ったんだ」

 道理で普段頻繁に遊ぶような仲じゃない諸伏くんがニコイチの降谷くんを連れて一緒に来るわけだ。
 親切で生真面目な諸伏くんが私達女子だけでカラオケに向かうことを心配して男子を増員してくれたなんて、そんなのは言われるまでわからなかった。ますます朝子を説得しきれなかったことが申し訳なくなって、もう一度ごめんねと手を合わせる。
 若干顔色のよくなった諸伏くんが眉を下げながら「気にしないで、俺の勝手だから」と首を振った。


 ――そんなことをしているうちに目的地のカラオケが見えてくる。
 5階建てのビルの中に入っているカラオケで、ここら辺は学校からは少し離れているせいで学生が通りかかることはあまりない。狭い道が多いから車もあまり寄り付かないし、正直ここに来るくらいなら多少待っても駅前の広いカラオケに行った方がよかったんじゃないか、なんていう今更な考えが頭を過る。
 まあ、待ち時間が長くなって帰る時間がその分遅くなったら意味ないんだけど。結局どっちを選んでも不安が残る。カラオケを諦めて真っ直ぐ帰るのがやっぱり一番いい手だっただろうな。

「時間、長くても2時間でやめさせて帰りたいんだけど、諸伏くん協力してくれる?」
「もちろん。全力で駄々こねて1時間半まで短縮するのが目標かな」
「諸伏くんの全力駄々こねが見れるの? すごい期待しちゃうな〜それは」
「ははっ。うん、期待されたら頑張らないわけには――」

 笑顔の諸伏くんの言葉を遮って、先頭から朝子の短い悲鳴が飛んでくる。


 反射的に前を歩いていたみんなを押しのけて駆け出す。「朝子!」後ろから諸伏くんもついてくる気配があった。
 朝子はワイシャツを腕まくりした右腕を押さえていて、隣を歩いていたはずの生田くんは呆気に取られ数歩後ろに立ち尽くしている。わたしがもう一度「朝子!」と叫ぶと、朝子は微かに震える唇で私の名を呼んだ。

 ――朝子の日焼けした腕から、一筋、血が流れる。
 頭が真っ白になった。眉間には深いしわが刻まれていく。

 生田くんがいたはずの場所には見知らぬ男が立っていた。
 帽子にウィンドブレーカーにジャージのようなズボン、靴に至るまですべて黒。おまけにマスクも黒い。
 ああ、そりゃあ夜道でこんなのに襲われたら咄嗟に犯人の姿なんか見えないだろう。
 街灯の少ない夜道に、銀色のナイフの刃だけが浮かび上がるように光って。

 ひどく恐ろしい思いをさせられただろう。

「―――」

 ひゅっと喘鳴のような呼吸音を洩らしたのは私だったか、後ろの諸伏くんだったか。
 わからないうちに、身体が勝手に駆け出していた。全身黒ずくめの不審者がまだナイフを手放していなかったから。

 私が朝子のもとに飛び込むのと、男が再び軽い仕草でナイフの刃を突き出したのはほぼ同時だった。
(title by ユリ柩)

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