わたしの想いは鏡の中

(※捏造強め)



「たでーまー」
「おかえりー」

 家にいる時の構いたがりなお兄ちゃんと、外にいる時のちょっと気怠げな不良が混ざり合った真一郎の声に応えて挨拶を返す。
 実兄への恋心を拗らせた私にとって、帰宅した真一郎を玄関まで迎えに行くのもかなり重要なイベントだったりするので、他の兄妹がいない時なんかは積極的に玄関まで顔を出しに行ったりする。
 今日もその例に漏れず、ぼーっと見ていた午後のニュース番組をテレビのリモコンごと放り出して玄関に直行した。

「おかえりしんいちろ、…げ」
「げって何だ、げって」
「よう、なまえ。邪魔してるぜ」

 ひょっこり顔を出した私を見て、玄関で靴を脱ぐ真一郎と、土間に長い足を投げ出して廊下に腰を下ろした武臣くんがそれぞれ笑みを浮かべる。
 真一郎は「オレのダチに"げ"とか言うなよ」という苦笑。武臣くんは「幼馴染の妹が生意気盛りで今日も面白い」みたいな余裕のある笑み。
 ちなみに後者は完全に推測だけど、武臣くんは多分私のことを生意気で兄貴を取られたくない年頃の妹としか思っていないので大体合っているはずだ。

 肩につくかつかないかくらいの長く真っ直ぐな髪の隙間から覗く垂れ目がちの眼差しは、敵意を持っている私ですらもドキドキしてしまう。
 真一郎より断然大人っぽくて、いつも謎の余裕があって、暴走族の副総長というイカつい肩書があったって女の子からの引く手は数多だろうな。
 もちろん、生まれてこのかた真一郎一筋の私にとって、武臣くんは「めちゃくちゃ顔がいい兄の幼馴染」に過ぎないのだけど、会うたび高校生とは思えない色気を携えてやってくる彼を見ると毎回感心してしまうのだった。

「…ドーモ、武臣くん」
「おう」

 複雑な気持ちで、絞り出すように挨拶をすると、大人っぽい武臣くんがちょっと高校生っぽい仕草で片手を挙げてくれた。
 私がそれ以上武臣くんに噛みつかないことを確信すると、真一郎は「臣、ちょっと待ってろな」と言い残して二階に上がっていく。
 真一郎は戻ってきたらきっとまた臣くんとどこかに出かけるんだろう。晩飯は遅くなるからいい、とか言うんだろうか。

 真一郎が自分の分の晩御飯を断るのは食事を作る私への気遣いに他ならない。それは充分理解している。
 理解しているのだけど、じゃあ真一郎に私の晩御飯を放り出させて夜の街に連れ立って紛れていく武臣くん達を許せるかと問われたら、それはまた別の話なのである。
 大人気ないことに、精神年齢三十路のおばさんである××なまえは、未だに真一郎を連れていってしまう武臣くん達に対する不当な嫉妬心を拭いきれないでいた。


 とは言え、親友の家に寄った十代の青年に対して常に敵愾心を剥き出しにして塩対応を貫くのも心苦しい。だって真一郎を取られたくないのは私の勝手な都合だし。所詮私は真一郎の妹に過ぎず、また武臣くんも幼馴染に過ぎないのだし。
 人が訪ねて来ているんだから、好悪は一旦置いておいて接待くらいはすべきだと嫉妬心の裏側で常識の部分が抗議の声をあげる。
 これを無視してこのまま愛想悪くリビングに戻ったら、私、絶賛我儘放題の万次郎と変わらないのでは?

「……外暑かったでしょ。お茶とか、飲みます?」

 そろりと近寄りながら様子を窺ってみる。武臣くんは首だけでこちらを振り返ってちょっと笑った。
 こういう風に、私が内心感情の競り合いでモヤモヤしながら距離を詰めてきた時、武臣くんは決まって一層愉快な顔になる。
 大人っぽい垂れ目の眦を更に下げて、口角を上げながら「じゃあもらうよ」と想定内の答えをくれた。

 宣言通り、冷蔵庫から作り置きの麦茶のポットを取り出して、コップの七分目くらいまで注いでから玄関に戻った。
 両手で握った透明なガラスのコップを手渡すと、武臣くんは「ドーモ」とさっきの私の真似をした。

「もう、真似しないで」
「悪い悪い」
「悪いと思ってないでしょ」
「思ってるよ、悪かったって」
「…」

  私の自我年齢の半分くらいしか生きていないくせに、どうしてこうも年上に弄ばれているような錯覚に陥ってしまうんだろう。
 真一郎を取られたくない一心で私はこんなに武臣くんを敵視しているのに、武臣くんはそれを面白がっているだけで歯牙にもかけない。色んな意味で悔しすぎて頭を掻き毟りたくなった。
 真一郎の仲間はみんな等しく嫉妬の対象なので苦手意識を持っているけれど、武臣くんに対してはどう頑張っても精神的優位を取れそうにないという諦念もあって特に苦手だった。

 ほんの少しの据わりの悪さを内包した空気のなか、武臣くんの半歩分後ろに正座して真一郎を待った。
 外はまだ明るく、帰宅途中の小学生の声や蝉の声が微かに聞こえてくる。
 黄色っぽい光に照らされた武臣くんの横顔はほんの少しだけ汗ばんでいた。走ってきた…わけはないから、自転車だろうか。流石にバイクで登校はしないだろう。
 バイク。私も乗れるように練習しようかな。

「………弟が増えたんだって?」
「えっ」

 急に武臣くんが喋ったので、横顔を眺めたままだったのがバレたのかと一瞬ぎょっとした。
 私の視線なんか『軍神』にはきっとお見通しだったろうけど、気付かないふりをして適当な話題を振ってくれたのかもしれない。
 それにしては話題選びが唐突かつ今の私の中ではセンシティブなジャンルに該当するチョイスだけど。
 ちょっとがっくりしながら頷いた。

「なんで武臣くんが知ってるの?」
「真から聞かされた」
「口が軽いんだから……」
「流石にもう慣れっこか?」
「慣れるわけないよ、今までと違うから。イザナあのこは――」

 ――血が繋がってないんだから。

 思わず口からまろび出そうになった言葉を慌てて飲み込む。ぱちんと両手で口を覆うと、武臣くんがちらりとこちらを見た。
 佐野なまえはイザナと佐野家の血縁関係について『まったく知らない』。だからイザナと私達の肌の色とか、瞳の色とか、そういう違いについて若干の疑問は抱きつつもそれを口にしてはいけないのだ。危なかった。
 武臣くんを前にしてどんどん心理的余裕が剥がされていくのはわかっているんだから、もう少し気を付けて喋らないと。

「…施設にいるから。エマとはまたちょっと違うよ」
「そうか? ここまで来たらもう何人増えようが違いはそうねぇだろ」
「確かに、まだ腹違いのきょうだいがいるって言われてももう驚きはしないだろうけど。何人も増えるのは困るよ」

 二重の意味で肩をがっくり落とすと、武臣くんはいよいよ声をあげて笑った。
 他人からすれば愉快な家族構成だけど、当事者になってみるとただ笑っているだけでは済ませられない感情のあれこれがあると言うのに。一周回って気持ちいいくらいの笑いっぷりだった。


 流石にもうきょうだいは増えないはず……だけど、万が一増えたとしてもきっと驚かない。私は××なまえとしての意識が強いから、突然現れる家族に対しての違和感は他の兄妹よりも稀薄かもしれなかった。多分、驚きはするだろうが、その存在を受け入れることに対して躊躇はあまりない。
 武臣くんの言う慣れがそれだと言うなら、私はきっと兄妹が増えることに慣れていることになるだろう。
 家族の概念がガバガバなのか、それとも他者がパーソナルスペースに入ってくることに対して寛容なのか。
 どちらにせよ、「結局自分は部外者だ」という認識が根幹にあるのは間違いない。


 勝手に自己分析を進めつつ、初めて武臣くんの思考を「そうかもしれない」レベルで肯定できた。憎いはずの彼が私の思考に少しばかり寄り添ってくれた気がした。
 私は調子に乗って彼の隣までずりずりと摺り寄っていった。武臣くんはそんな私を見下ろして片眉を上げる。

「じゃあ、ねぇ、どうするのが正解だと思う?」
「どうって、何がだよ」
「新しいきょうだいに、どういう風にしてあげたらいいと思う? 私」

 私よりも精神が成熟してるって言うんなら、ちょっとくらい良い助言をくれないだろうか。『軍神』って呼ばれるんだから、詳しいことは知らないけど頭がいいんだろう、きみは。
 「武臣くんもきょうだいいるんでしょ。真一郎から聞いたよ」と言うと、武臣くんは「あのヤロウ」という顔をして後ろ髪に手を突っ込んで乱雑に頭を掻いた。


 イザナと出会ってから私が抱えている、彼の将来に対する不安と同情。
 それから、真一郎が望んでいる兄妹全員の仲が良い未来とやらに少しでも近付きたい願望と下心。
 そういうのを一つにまとめて叶えてしまえる道は、きっと私には思いつかないだけで存在すると思うのだ。
 地頭があまりよろしくない私がこれからタケミっちにすら手の出しようがなかった佐野家の最大にして最悪の捻じれ問題に頭を突っ込もうと言うんだから、軍神の知恵を少しくらい借りたって罰は当たらないはず。

「普通オレに訊くか? 真に相談してやれよ、喜ぶぞ」
「こればっかりは真一郎だけじゃ駄目」

 「真一郎がいいお兄ちゃんなのはわかってるけどね、でもそれだけじゃ駄目なんだよ」と腕組をして囁いてみる。

  黒川イザナの暴走に関して、真一郎の落ち度はほとんどなかったと思う。もちろん、万次郎やエマにしたって同じだ。
 あのきょうだいたちは多分誰も悪くなくて、じゃあ誰が悪いのかと言われれば、イザナだけを施設に連れていった黒川カレンが悪い気もしてくるし、そもそもイザナを黒川カレンのもとに置いていったイザナの実父が悪い気もしてくる。
 ともかく、真一郎は兄として出来る限りのことをしたのだと私は確信している。
 誰も他人の心を覗くことなんて出来っこないから、真一郎に万次郎という弟がいたことを知ってイザナの心が爆発してしまったのはもう仕方のないことなのだと思う。確定イベントみたいなものだ。
 だけど、真一郎の精一杯をもってしてもあの問題を解決に導くには至らなかった。多分羽宮一虎に彼が殺されなければ、もう少し打てる手もあっただろうけど……駄目だ、真一郎の死に関して考えると秒で鬱になる。

 要するに問題は、確定イベントである「コイツ"お兄ちゃん"じゃねーの?」が発生した後、どうやってイザナの心を解し未来の関東事変――エマの死とイザナ自身の死を回避するか、それのみである。

 現状拗れた未来の破滅エンドを知っているのはあまりにも戦力外すぎる私だけ。だけど先を見て動けるのも私だけ。
 そういうわけで、真一郎だけでは救えなかった黒川イザナを、どうにかして救うために私が助力を加える必要があった。


「私も頑張らないと、大変なことになっちゃうから」


 私は勢いよく言い切ってしまった。
 それから慌てて、「大変なことになっちゃうと思うの。ほら、血縁関係がただでさえ拗れてるから」と付け加える。
 けれど、目の前の軍神にはきっと何かが伝わったに違いなかった。
 武臣くんは一気にコップのなかの麦茶を呷ると、呆れたような声音で「どうするもこうするも、答えは自分で今言ったじゃねぇか」と言い聞かせるように言った。

 言われたことの意味がわからず、私は「え?」と前屈みになって武臣くんの顔を覗き込んで訊き返す。
 すると、武臣くんは仕方がないと言わんばかりの表情になって、私の空になったコップを差し出しながら"答え"を明かし出した。

「真一郎だけじゃ足りなくて、でもなまえも頑張らないといけなくて、何をすればいいと思う? って、もうそれ答えずっと言ってるだろって」
「なに、どういうこと? 徹夜ゲーム明けでいつもの三割増しバカになってる真一郎に説明するみたいに言って」

 他人行儀の皮すら完璧に剥がれた私の物言いに武臣くんが苦笑する。

「だから、新しい弟が何かしでかすかもしれねぇって思ってるんだろ? で、それは真がついてるだけじゃ抑えきれないとなまえは思ってる」
「ウン…」
「じゃあ、なまえも真と同じことをそいつにしてやればいいじゃねぇか」
「……ウン?」
「見守る目が倍になれば単純に強いだろってこと」
「………なる…ほど……?」

 つまり、具体的手段は真一郎の真似ということ?
 真一郎だけではイザナを繋ぎとめるには不足なら、なまえという家族を更に鎖として追加しろと?

 特別なことなんて何も必要なくて、ただ私が家族としてイザナを繋ぎとめてやればいいって、そんな単純なコト。
 …あくまで部外者、傍観者として世界の流れを俯瞰しているつもりの私にとって、一番身近でコストの低い手段にも関わらず、近すぎて見えなかった手だったかもしれない。


 正直なところ、イザナにとっての私はあくまで真一郎のおまけに過ぎない存在であると勝手に確信していた。
 だから私がどうこうして足掻いたところでイザナの人格形成や思考回路に影響を与えることはできないと高を括って、『佐野家の長女』という武器の価値を蔑ろにしてきた。
 あまりに距離を置きすぎて万次郎のように敵視されても敵わないから、嫌われないように、とりあえず嫌われないように努力をするだけ。

 …でも、もしも武臣くんの言う通り、その一見効果の薄い、解決策にもならなさそうな守りの手にも意味があるのだとしたら。
 真一郎をなぞって、私がイザナの『きょうだい』を努め続けた先で。


 ――血の繋がりなんてなかったと絶望するイザナの罅割れる心を、繋ぎとめる資格が得られるのだとしたら?


 ふと、武臣くんの大きな手が私の頭の上に置かれる。
 びっくりして息を止めると、武臣くんは真一郎と喋っている時に極まれに浮かべる穏やかな薄い笑みで私を見ていた。

「まぁ、あんま難しいことは考えんなよ。オマエ、何だかんだ言って真と頭のキャパ変わんねぇから」
「めっちゃ優しく貶されてるよね。今武臣くんのこと三センチくらい好きになりかけたけど六センチ嫌いになったよ」
「貶してねぇって」

 私を揶揄う声音は相変わらずだったけど、何だかすごく武臣くんの"お兄ちゃん"っぽいところを感じた気がした。
 …前世の私の記憶は関東事変が終わって、何か誰かの結婚式にみんなが参加しているめちゃくちゃハッピーな時点で消しゴムをかけられたように薄れてしまっているので、武臣くんちの兄弟については詳しく知らないのだけど、それでも武臣くんも真一郎が私達にするように、自分の弟か妹に対して接することがあるのだ、と今この瞬間に思い知った。

「なまえはやっぱり笑ってんのが一番だよ」
「一番かわいいってこと?」
「一番強いってこと」
「攻撃力の高い笑顔ってなに? やっぱり貶してる?」

 廊下の床をずりずりと摺って距離を取ると、武臣くんは穏やかな顔のまま「オマエら顔は似てねえけど、笑った時だけは兄妹っぽくなるからな」と言った。
 そんなことは初めて言われた。真一郎と万次郎は似ていて、私はそのどちらともあまり似ていなくて、エマも似ていないから丁度いいバランスのきょうだいだと思っていた。
 私にも真一郎と似ているところがあったらしい。

 愛する兄と似ていると評されたことを喜べばいいのか、愛の障壁でしかない血の繋がりを嘆けばいいのか、曖昧に笑って誤魔化した。
 すると武臣くんは目を細めて、「やっぱ笑ってろ」と頷いたのだった。
(title by FELICITE)

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