捨てられぬ仮面、故に偽りか

「今日の晩御飯何がいい?」

 お茶碗にぺこぺこ白米を盛りながら問いかける。
 私の視線が完全に炊飯器に向いていたせいか誰も答えなかったので(万次郎は好き勝手言っている)、「あ、今のエマに聞いたよ」と訂正を入れる。
 今朝の朝ごはんは和食だ。おじいちゃんの知り合い経由でちょっといいお米が手に入ったのでここ最近は白米で始まる朝が続いている。

「なんでウチ? 何でもいいの?」
「いいよ。ほら、この前の体育で一番跳び箱飛べたんでしょ。そのお祝い…記念? どっちでもいいけど、そういうコト」
「やった、ラッキー!」
「ちょっとなまえ、なんでエマだけなの。オレは?」
「万次郎はもうちょっと真面目に勉強に励みなさい」
「なまえー、オレは?」
「貴方は論外です二十二歳児」

 男連中からブーイングが起きるが、生憎男二人対女二人なのでそこまでの効果はない。
 万次郎は基本的にいつもあれ食べたいこれ食べたい今日これじゃないと食べないとワガママいっぱいなので却下だ。真一郎は少し大人気というものを知れ。そういう子供の心を忘れないところも好きだけど。

 エマは小さな口でお米をもぐもぐ食べながら「うーん」と考え込んでいる。

「ちなみに今日は私午前だけで帰ってくるので手の込んだものも作れます」
「えっほんとに?」
「うん。テスト最終日だから完全にフリー」
「じゃあオレ今日学校サボろっかな」
「何がじゃあなの、ちゃんと行ってよ。今日掃除しっかりめにしちゃいたいし」

 エマは悩みに悩み、結局「決めるの学校帰ってきてからでもいい?」と苦悩の表情で申告してきた。
 私の作る料理でこれだけ悩んでくれるエマがあまりに可愛くて、じゃあ学校終わったら一緒に買い物も行こうか、と約束をした。
 渋る万次郎をエマが引き摺って家を出るのを見送る。

「いってきまーす!」
「クッソエマ放せよ、オレ今日行かねえってば」
「ここら辺不審者出てるって通報あったから気を付けてねー! 行ってらっしゃーい」

 その少し後に真一郎も出勤し、おじいちゃんは道場の方へ。
 私は宣言通り家の掃除に精を出し午前中を終えた。




 小学生が帰ってくるのは意外と早い。
 と言ってもちゃんと真っ直ぐ帰ってくるのはエマだけで、万次郎は場地やらドラケンやらと組んであちこち寄り道をするので世間一般の小学生の例はあてにならない。
 今朝一緒に買い物に行く約束をしたから、エマは多分いつも以上に急いで帰ってくるだろう。

 十五時を過ぎたあたりで出掛ける準備をしてソファで本を読んで待っていると、玄関のドアが開いた音がした。

「おかえりー」

 とは言ったものの、いつまで経っても返事がない。
 それどころか人が入ってきた気配もなかった。

 玄関の開閉音から十秒を数えたあたりで不審に思い、気持ち静かめに玄関へ向かった。
 やはり誰もいない。シーンとしている廊下に私がひとりできょろきょろしているだけだ。

「…?」

 一応、一応ねと誰にともなく言い訳をしながら、脱ぎっぱなしで放置してあった真一郎のサンダルを引っかけてドアを押し開けた。外を確認してみるつもりだった。

 ガチャリとドアを開けると、すぐ先には金色のポニーテールが見えた。
 それがエマの後ろ姿だとすぐにわかったので、「なーんだやっぱりエマじゃん」と内心で胸を撫で下ろしつつ「エマ?」と呼びかけてみる。
 エマはすぐに振り返った。


 彼女と同時に私を見る目があった。


 一瞬、状況が読めずに思考諸共動きが停止する。


 …玄関の扉を押し開けるサンダルの私。その正面にはランドセルを背負ったままのエマ。更にその向こう側には、……知らない男。

 ――知らない男だって?

 状況整理のために順序だてて並べた人員のなかに、どう考えても不適合なやつが一人混じっている。誰だこいつは?
 しかも、今私はエマ越しにその知らない男と見つめ合っている。私が困惑しているように、また相手も困惑しているようだった。
 一応ご近所さんの顔とも思い出せる限りに照会してみるけどヒットはない。多分、本当に私は面識がない。

「エマ、その人――……」

 私が疑問をすべて口にするよりも早く、それを察したエマがふるふると、震えるように首を横に振った。
 言葉にしなくてもわかった。「知らない人。こんな人は知らない」と。
 鈍すぎる私はそれでようやく大体の状況を察知することができた。

 動揺半分、警戒半分の脳内だったけれど、怯えている妹を守らなければという唯一にして絶対の目的でエマと男の間に体を滑り込ませる。手を離した扉が背後でガチャンと閉まる重い音が響いた。

 そこまで接近してようやくエマが男に片手を掴まれていることに気付き、反射的に大きな手を叩き落とす。
 ついでにエマを背中に隠すように手で押すと、エマもランドセルの肩ベルトを握り締めていた手を解いて私の背中にしがみついた。

「い、妹に何かご用ですか」

 ちょっと声が裏返った。
 ぐるぐると頭の中で昨日ニュースでキャスターが話していた不審者情報が渦を巻く。
 『身長百七十センチ前後の痩せ型』――私より少し大きいくらい。多分そうだ。
 『黒いパーカーにジーンズで』――流石に服は違うけど。
 『二十代後半の男性』――多分そう。絶対そう。
 『下校途中の小学生が声を掛けられて』――声を掛けられたどころじゃない!


 多分人生で初めて遭遇した不審者だった。
 不審者不審者と言うからイメージばかりが極悪になっていたけど、目の前にいる男自体はそこら辺にいても別に変じゃない見た目だ。
 これは確かに、声を掛けられても逃げるべきか否か判断しづらい。

 男は明らかにエマより年上の私が出てきたことによって動揺しているらしく、「いや」とか「その」とか吃音混じりに言い訳を練っている。
 携帯も家の中に置きっぱなしで何より通報という手が動揺ですっかり頭から抜けている私は、変な律義さを発動させてしっかり言い訳が発せられるのを待ってしまった。

「いやあの、か、かわいい子だなってその……思って……ええと…」
「は、はぁ……?」

 時間をかけた末の答えがそれかい。思わず気の抜けた相槌が口から洩れる。
 そういう私の曖昧なリアクションがいけなかったのか、それとも佐野家のなかでも独特のオーラみたいなものがない私からはそうすれば逃げられると思ったのか、首を傾げた私を見た男の目つきが変わる。

「おっ」
「は…?」
「親でもねえのに出しゃばってくんな!! オマエに用なんかねぇんだよ!!」
「……?」

 急にボリュームが爆上がりした男の怒鳴り声。反射的に肩が跳ねた。
 背後でエマが震えあがった気配もあったが、それよりも私は突如豹変した男の様子にびっくりしてしまって、半ば呆然としながら訳の分からないことを喚き散らして何やら私に責任転嫁し始めた男を眺めることしかできない。
 言っていることの八割くらいがわからない。急に何語で話し始めたんだろうか、それとも何か地球産ではない宇宙の法則を取り入れ始めた?

 ていうかこの状況から自分の方に勝機が転がってくることがあると思っているのか? どういうことなんだ? ……いやマジでどういうことなんだ、わけわからん…。

 混乱して頭に宇宙を生み出しているうちに、一人過熱している男の手が私の肩を突き飛ばす。
 背後のエマが突然の衝撃によろけそうになった私を両手で支えてくれたので態勢を崩すことはなかったものの、驚きのあまり目を丸くして男を正視した。

「外人の子供なんかいる家なんかロクな親いねぇんだろうが!! ア!? 図星だろうが!! まともな教育も受けてねえ分際で盾突きやがって――!!」
「…」

 論点をずらしながら怒りに更なる薪をくべていく男の声が途端に遠くなる。
 代わりに耳の奥に蘇るのは聞き慣れた"声"たちだった。

 道場に私達を呼び出していきなり「兄妹だ」とか言い出したおじいちゃんの大きな声とか、マイキーになると宣言した万次郎の優しい声とか、エマを笑わせてやりたいと言った真一郎の声とか。
 ――「ママはウチのこと嫌いだから」と言って泣いたエマのさびしい声。


 ぎゅう、と唇を噛みしめる。


 確かに佐野家の兄妹に生みの親はいないけど、だからってまともな教育を受けていないことなんてない。常識も道徳も欠けているけど、優しさだけはみんなしっかり持っている。
 正直目の前で人目も憚らず叫び散らして意味不明なことを喚いている男よりよっぽどまともだ。

 外人の子供? ――おかげでめちゃくちゃ可愛くて将来美人確定な妹ですが?
 親でもないのに出しゃばるな? ――エマのお赤飯炊いたのもブラ一緒に買いに行ったのも勉強見てるのもお弁当作ってるのも私ですが!?

 順当に積みあがっていった理論武装が、めったに役に立たない私の怒りに点火する。
 目的はただ一つ。
 目の前の何も知らないくせに口汚く喚いて家を馬鹿にするクソ野郎を黙らせること。


 ダン、と左足で踏み込む。小さく開いた唇から短く洩れる呼吸音が笛のように鳴る。
 万次郎のように予備動作なしで相手の側頭部に爪先が届くほど足は上がらないけれど、狙う場所は別に頭じゃなくたって構わない。
 腰を回しながら股関節と膝を一直線に振り上げ、鞭のように蹴りを放つ。
 まさか物理的に反撃をされるとは思ってもみなかっただろう無防備な脇腹に足の甲がブチ当たり、衝撃で爪先に引っかけていただけの真一郎のサンダルが道路へ飛び出した。
 ふう、と息を吐く。

 一応これでも道場には真一郎より真面目に通っていた。
 万次郎ほどの才能は当然なかったけれど、相変わらず万次郎は私より小さい。つまり私の方が大きいので下手な回し蹴りでも当たれば痛い!

 衝撃にわけもわからず脇腹を押さえて尻餅をついた男を見下ろして怒鳴り返す。

「エマの保護者は実質姉の私です!! 貴方の言っていること一ミリも正当性がありませんけど文句があるなら私が聞きます!! この子に関する何もかも、誰よりもまず私に話を通すべきでは!?」

 「異論あります!?」と強い口調で言うと、すでに回し蹴りで意気消沈した男がぶんぶんと首を横に振る。
 たぶん本当は「うるせえ黙れ」だけでよかったんだろうけど、生憎真正面から喧嘩を売っていく度胸は私にはなかった。

 すっかり場の主導権は私が握ってしまったので、とりあえずエマに頼んで携帯を家から持ってきてもらって、私は外でこの不審者を見張っていようと思った。
 吹っ飛んでいったサンダルを回収すべく敷地の外へ右足が裸足のまま敷地の外へ、一歩。

「あっ」
「えっ?」

 素っ頓狂な声に思わず顔を上げる。突然声を発したのはそれまで黙っていたはずのエマだった。

「場地だ」
「えっ?」

 馬鹿の一つ覚えのように困惑しながらきょろきょろと周囲を見回す。

 確かにエマの言う通り場地がいた。
 ランドセルを背負っていなかったので、家からウチに遊びに来たのだろう。残念ながらまだ万次郎は帰ってきていないから無駄足だね。

 …とかなんとか、そんなことを言いながら挨拶する余裕はなく、多分その場の全員が突如現れた場地を見つめた。ちなみにエマと、私と、尻餅をつく不審者。
 場地も一瞬困惑した顔をした。
 半泣きのエマを見て、右足が裸足のまま静止している私を見て、それから不審者を見る。ぽかんと開いた口から八重歯が見えた。


 ――次の瞬間、場地が不審者に飛びかかった。

「ちょちょちょちょ何してるの圭介、圭介!?」

 何も言わず何も問わず、黙って不審者に馬乗りになって殴り始めた場地に、流石に燻っていた怒りの炎が消火される。
 慌てて止めに入ると、場地はやっぱり困惑した表情でこちらを振り返った。

「いや…よくわかんねえけどエマ泣いてっし、なまえちゃん怒ってるし、裸足だし……どうせこのオッサンが何かしたんだろうなって」
「もういいよ、もう私一回蹴っちゃったし、これ以上は過剰防衛で怒られちゃうよ」
「蹴らなきゃいけねえようなことされたってこと? じゃあもっとボコっといた方がいいよコイツ」
「あーーー駄目だ話通じない! エマ! エマちょっと中入って私の携帯持ってきて!!」

 疑問符が浮かんでそうな顔のままなのに振り下ろす拳に躊躇いがなさすぎる…。
 場地が問答無用で味方をしてくれる心強さを誇ればいいのか、問答無用で知らない相手をぶん殴るヤバさを窘めればいいのか。
 もう何もわからない。何でもいいけど座って休みたい。今更足が震えてきた。


 なんて年長者が弱音を吐くわけにもいかないので、慌てて携帯を持ってきてくれたエマをもう一度家に戻し、警察に通報し、まったく話を聞かない場地を何とかボコボコの不審者から引き剥がし…。
 結局場地共々私達が自由になったのは日が暮れた後で、私の蹴りはともかく関係ない場地の暴力でお叱りを頂いた。


* * *


 もう一から料理を作れる時間ではなくなってしまったので、エマのリクエストはまた後日という約束をしてスーパーにお惣菜を買いに行くことになった。
 色々あったということで私はエマと手を繋いで、万次郎と一緒にウチにやってきたドラケンをボディーガードに、いつもの道を四人で歩く。

「…でね! なまえが『誰よりもまず私に話を通すべきでは!?』って言ったの」
「しつけーよ、オマエそれ何回目だよ」
「だって、怒り方ヘンで面白かったんだもん」
「いやもう何も言わないで……すごく反省してるから……」
「エマもマイキーもそこら辺にしてやれよ、なまえちゃんマジの落ち込みだぞ」

 不良の兄弟が二人もいるんだからもう少しマシな啖呵の切り方なかったのかな。
 まあでも所詮私は外面佐野家の中身××なまえアラサーおばさんだから…実際百パーセント佐野家ヒューマンかと訊かれたら微妙だから……。

 事件直後はずっと私の手を握って離さなかったエマもほぼ復活し、いつもの調子で万次郎と一緒になって私をイジって遊んでいる。
 変にトラウマになるよりはよかったけれど、勇気振り絞りすぎて回し蹴りまでしてしまった私への労わりがほぼなくて切なかった。

 ……と言いつつ、少し私が存在しなかった正史の世界に想いを馳せる。
 私のいない世界のエマも同様に不審者に声をかけられ絡まれたとして。…いつもマイキーや真一郎が助けてくれていたんだろうか。
 もしそうでなく、あの理不尽で恐ろしい大人にエマが一人で立ち向かわなければならない時が一瞬でもあったんだとしたら。……小さな体で懸命に涙を堪えて、じっと相手を睨み付けていなければいけない時があったのなら。

 ――ほとんど役に立たない、存在理由がいまいちわからない私も、佐野なまえとして生きていてよかったかもしれない。

「ねえねえなまえ、ケッコンの挨拶もなまえんとこに行ったらいい?」
「…ん? 待って何の話?」
「普通に考えてそうだろ。そういうの、真一郎じゃ頼りになんないだろうし。なまえとじーちゃんが認めればオッケーなんじゃね?」
「じゃあドラケン一緒になまえに挨拶行こうね! あ、今しとく!?」
「ドラケンはいいよ。もう実質家族だよ。私より佐野だよ」
「いやオレは龍宮寺だよ」
(title by FELICITE)

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