薄暗い廊下を迷いなく歩いていく。
 この迷宮のような地下通路を歩くことにはとうに慣れ、どこをどう曲がっていけば危険なゾーンに一直線なのか、どこを通れば目的地まで近道出来るのかなんてことまで把握しきっていた。
 それほどまでに慣れ親しんだ道だった。
 記憶を欠損させて生きる私がそれでもなお忘れなかった――忘れてもすぐに覚え直せるほどに一人で、あるいは誰かと共に、繰り返し歩いた道だった。

 局長室への道のりなどは最早言うまでもない。
 きっと目を瞑っていても辿り着ける。

 私が忘れることを頑なに拒んだからか、それとも空海月の気まぐれか。唯一奪われることなく残った記憶を巡る。
 これが最後になるのだという強い気持ちを抱きながら、一歩ずつ丁寧に。

 今日が終わったら、私は、十二番隊の水月乙子ではなくなる。

ただひとつの火がきみだった


 局長室に向かっているのは未練があったからだ。
 研究室で喧嘩別れのような状態になってから一度も涅さんの顔を見ていない。
 今まで散々迷惑を掛けた、けれども浦原前隊長が失踪してからは長いこと十二番隊を共に支えてきた。……手前勝手な話だけれど、私は彼のことを戦友のようなものだと思っている。本当に、烏滸がましいとは思うけど。

 そんな彼と一度も顔を合わせず、まともに言葉を交わさないまま九番隊に向かうことなんて出来っこない。
 何処へなりとも行けばいい。そう言われても――それ以上のことを言われたとしてもなお、私は彼のことが好きだった。
 彼のはっきりとした人となりが心地よかった。
 自分の心の中に、磨き抜かれた鏡のような強い美学を持ち、それに反するものには取り合おうともしない。そのひたむきさが好ましかった。
 涅さんは過去を振り返らない。今と、今が紡いでいく未来だけを見ている。

 過去に囚われない人。忘却を否定する人。
 そんな貴方が大好きでしたと口にしたなら、きっと彼はいつものように、心底不愉快そうに顔を顰めてみせるに違いない。

 それとも、もうそんな表情をしてもらえる権利すらも失ってしまっただろうか。
 それは、……とても、悲しいと思う。

「涅さん」

 私が呼びかける声に、白衣の背中は振り返らない。
 名前を口にするのも数週間振りだ。本当に、どれだけ彼の機嫌を損ねても、ほとんど毎日顔を合わせて何かしらの議論をしていたのに、全てが遠い過去のことのようだ。

 押し開けていた鉄扉を後ろ手で閉める。本当は私と同じ空間になんていたくないだろうけど、扉を開けっ放しにして他の局員に話を聞かれてしまったらちょっと恥ずかしい。
 初めていたたまれなさみたいなものを感じながら、そっと両手の平を擦り合わせて言葉を探した。

「すいません。私の顔はおろか声も聞きたくないだろうことは承知のうえなんですが、私、明日からはもう十二番隊所属ではなくなるものですから、ええと……最後にご挨拶がしたくて」
「―――」
「言い表せない感謝があります。何度も貴方に救われました。……迷惑を掛けた数も同じくらいでしょうか。私が忘れてしまっているだけで、本当はもっと沢山、貴方に叱られていたのかもしれないですけど。もし忘れてしまっていることがあるんだとしたら、……とても惜しいと思います」

 静まり返った局長室に私の声だけが響いている。涅さんはこちらに背を向けたまま、まるで彫像のように動かない。けれど不思議と私の言葉は届いているような気がした。

「相談も無しに、自己判断で此処を出て行くことを、許してほしいとは言いません。……言えません。私のことは許さなくて結構ですし、許さないで下さい」

 俯いた拍子に髪が頬を滑り落ちていった。見えていない右目を覆った髪をそのままに小さく微笑んだ。

「……たぶん私、この右目がまた見えるようになるなんていう奇跡が起こらない限りは、涅さんのことを忘れません。何をどれだけ奪われても、損なわれても、きっと私、涅さんのことを忘れません。信用無いかもしれませんけど、眺めて再認するだけの情報としての記憶とは比べ物にならないくらい、この"目"は私の確かな記憶で、思い出です。最後に、とても大事なモノを頂きました」

「今までありがとうございました」胸の前で手を握り締め頭を下げる。
 答えは無いけれど、満足だ。今度は感謝も謝罪も、きちんと伝えることが出来たから。


 そうして頭を上げたとき――背を向けていたはずの涅さんがこちらを向いていた。


 金色の瞳が私を見ている。
 心底からの呆れを含ませた眼差しを立ち尽くす私に向けている。

「……君の気色悪さは本当に留まるところを知らないネ」

 喉の震えを堪えて言葉を返そうと、……何か言い返さなければならないと思って口を開いたけれど。
 結局彼が嫌う笑みが浮かぶばかりで、気の利いた言葉は何も出てこなかった。
 せっかく涅さんが色々な感情を堪えてこちらを見てくれたのに、私は何も返せないなんて、なんて無様だろう。

「……涅さん、やっと振り返ってくれました」

 眉を下げ笑うと、「本当は振り返ったと同時に君のことは殺すつもりだった」と吐き捨てた。その貌には感情というものが無い。
 再びこの首に手を伸ばすことをしなかった己を悔いているのか、私などいつでも縊り殺せるこの状況に甘んじてしまった己に呆れているのか……涅さんの瞳には何の感情も浮かんでいなかった。

「殺して下さると言うなら、私はそれでも構いませんけど」
「馬鹿を言え、水月。君、死にたいんじゃなく私を苦しめたいんだろう。その手には二度も乗らないヨ、諦め給エ」

 言われたことの意味がわからず、ぱちぱちと瞬きしながら首を傾げる。
 私が涅さんを苦しめたい? なぜ?
 そんな私を他所に、涅さんは「"なぜ"はこちらの台詞だ、被害者面するな」と溜め息を吐いた。

 どうせ終わるなら涅さんの手で終わりたいだけだ。
 このまま何もせず、決定的な言葉も無いまま私が此処から消えたとして、彼のなかでいつか水月乙子という女の記憶が薄れ、ただの思い出として埋もれていくのは堪えられないから、いっそ私を殺したという事実を醜い傷として刻み付けてほしい。ただそれだけだ。

 私は、涅さんに忘れられたくない。
 忘れたくても忘れられない、瞼を閉じれば手折った首の感触までありありと思い出せるような――そんな悪夢になりたい。
 それだけなのに。

「その手には乗らない。君の求める『生きた手帳』になどなって堪るか」
「涅さんとあの手帳が等価値なんて思ったこと無いですよ。私にとっては涅さんの方が大事です」
「欠けることのない記憶媒体としてかネ? 虫唾が奔る」

 まるで揶揄うような口ぶりで言った涅さんがふいに表情を歪める。
 私はその青白い光に照らされる白い顔をじっと見つめている。

「……白状すると、君にその空になった眼孔を満たすばかりで見えることは無いを入れてしまった時点で、全ては終わっていたのかもしれない。今はそう思うヨ」
「後悔していますか?」
「しているとも。醜い火傷の痕跡と光を反射するだけの玉を思い出などと宣った君を背にしている間、流石に悪寒が止まらなかった」

 苦笑が零れる。そんなに変なことを言っていただろうか、私。
 別に火傷や右目を失った怪我のことを思い出などと言っている訳じゃない。怪我は怪我だ。それ以上でも以下でもない。
 涅さんがくれた、空洞を満たす眼の形をした玉――それが思い出になると言っているのだ。

 手で触れられて、確かめることが出来る記憶の形。実体を持った思い出。
 それは多分、永遠だから。

「涅さんがくれたものです。返せと言われても返しませんよ、私」
「言わないヨ。どうせもう会うことも無い、君がその瞳でどんなことを嘯いても、それが私に届くことは無いのだから」
「……そうですね」
「なんだ、その顔は。冷徹無慈悲の君らしくもない。まだ永遠なんてものを求めているのか?」

 私と、そして自分自身を軽蔑するような口調で涅さんは続ける。

「実際、永遠と形容される概念は存在しない。どんなモノでも、現実世界に存在している以上は気の遠くなるような速度で進歩にしろ劣化にしろ変化を続けている。己の指向性を求める標本としての『永遠』を求める君にとって、それは比較的長持ちする消耗品でしかない」
「……」
「ああ、だが別にその性質を卑下する必要は無い。ヒトは誰しも記憶を介して他人を消費して生きている。別にそれは君だけに限った性質じゃアない。君が恥じるべきは『永遠』などという言葉で飾り立て、消耗品が自分にとって価値のあるものとして尊ぶ虚偽そのものだ」
「……必要だから求めているんです。それがないと、私はすぐに空っぽになってしまうから」
「その前提思考がそもそもの間違いだとまだ認めないのか。喪失こそが生の形である君が、どれだけ『永遠』を集め抱えたところで意味など無いと言うのに」

 掴んだそばから取り零すのだから、と呟かれた低い声に視線を落とした。
 胸元で握っていた手で死覇装の襟を握りしめる。

 涅さんの言葉はいつも私を抉っていく。図星だからなのか。それとも単に傷付いているのか、わからずじまいだ。
 傷付いているって言うのなら、涙の一つくらい出てほしいものだけど、そう都合よくはいかないみたい。

 涅さんは、立ち尽くす私を一瞥すると目を細めて溜め息を吐いた。

「そんな不細工な顔をするくらいなら、いっそ大人しく泣いたらどうだ」

 出来たら苦労しないんですよ。出来ないから困ってるんです。
 深く項垂れる。泣けばいいなんてやさしいことを言うこの人に、情けない表情をこれ以上見られないように。

 深く息を吐いて、吸う。
 肺を充たす薬品のにおい。
 私を見据える金色の瞳。

 忘れたくないと言ったら、嘘だと言われてしまうかな。


「涅さん」

 そっと顔を上げる。私の隻眼と、彼の月の色の瞳が視線を合わせる。

 忘れたくはないけれど、それは嘘じゃないけれど、私はきっと貴方がいないこの先の未来も、今までと変わりなく生きていくんだろう。今までもそうだったろうし、これからもそうだ。
 私が忘れたくないと藻掻く気持ちと、失われていく記憶とはまた別の問題で、確かに貴方の言う通り私の生は喪失と伴にある。
 此処を離れたら、もう私は、自分の意志で貴方や、十二番隊の記憶を留めておくことは出来ないかもしれない。そう思ったら、やっぱり今此処で死んでしまいたい気持ちに苛まれるけれど。


 怒りと憎悪で充ちていたはずの瞳を、泣きたくなるくらい静かに細めて、私の言葉を待ってくれているから。
 貴方がそんな風に私を見送ってくれるなら、浅ましい願いなんかは口に出来ないですね。


「さようなら。……貴方と出会えて、本当によかった」


 涅さんは相も変わらず冷淡な顔つきでうなずいた。


「在りもしない安らぎを求め、暗い水底へと沈んで行くがいい。深く、深く――誰の声も届くことのない彼方まで、一人で。君などいなくても私は未来さきに進む。
 さようなら、水月乙子。道を違えたのは君の方だ。


 もう二度と、私の前に現れてくれるなヨ」


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