壁を丸く刳り貫き、木枠で飾った窓からは立派な庭が見える。
 季節の花々に青々と茂る木々。本邸から引いた水で満ちた池には華やかな色どりの魚が泳ぎ、時折尾をくねらせて水しぶきを上げた。

 小窓から見える風景は丁寧に拵えられた芸術品のように完成されているのに、出来過ぎている美しさを眺めれば眺めるほど憂鬱な気持ちにさせられていくのは何故だろう。
 外からはのどかな小鳥の囀りと風の音が聞こえる。生温い風が頬を掠め、髪を揺らすたび、対照的に死んだように静まり返っている室内の薄暗さを思い知らされるからだろうか。

 引き戸が開けられる微かな音に振り返ると、普段瀞霊廷で見かける死覇装ではない、深い藍色の着物を纏った綱彌代時灘が立っていた。

「待たせてすまないな、乙子。呼びつけたのは私だと言うのに」
「……いえ。窓からの眺めが素晴らしいので、時間など忘れていました」

 目を伏せ嘯く私に時灘様は微笑んだ。跪き正式な礼をする私を制すると、背後に控えていた給仕に目配せをする。

「今日は用向きがあって呼んだ訳ではないから、そう畏まるな。いやまあ、用がないと言えば嘘になるがね」

 黙々と給仕が茶托と湯呑を揃え、お茶を注いでいくのを横目に見ながら、神経を張り巡らせて時灘様の口にする言葉を一言一句聞き逃すまいと身構えた。
 そんな私を嘲笑うかの如く、時灘様は微笑んだまま「お前の快気祝いがまだだったろう」と言った。

 思わず零れそうになった笑いを噛み殺す。
 この――明るい外とは隔てられた薄暗い別邸の茶室で祝い事だなんて、酷い冗談だとしか思えない。

祈りも願いも胸の痛みも


 庭の景色を通して虚空に向いていた視線を戻し、隻眼で瞬きをする。
 遠慮も躊躇もなく正面に腰を下ろした時灘様が「祝いの品が茶なんぞで済まないが、お前は値打ちの品や華美な装飾品で喜ぶ女ではないから」と続けるのに浅く頷いた。

 この人との付き合いはどう誤魔化しても長い。私が霊術院にいた頃に出会ったから、短く見積もっても二百年近く。
 感情を排して考えれば、この人ほど水月乙子という女を心得ている人は他にはいまい。深く知っているからこそ、私が嫌がることを湯水が湧くように考えつくのだろう。

 私の趣味趣向を把握されているからと言って嬉しくもなんともないけれど、見るからに高価そうなものを贈られて困惑させられるより幾分かマシだ。
 食べ物飲み物なら残らないし、たとえ毒を盛られていても苦しむのは私だけだから。……時灘様が、そういう苦しめ方を今更してくるとは思えないし。


 香り高いお茶を捧げ、お茶菓子を残して給仕が退室すると、茶室は再びがらんとした静けさを取り戻した。
 本当に人払いをしているようで、普段はうようよいる供回りも護衛も影一つ見当たらなかった。霊圧も感じない。
 本当に、綱彌代時灘と、ふたりきり。

 震える手を誤魔化すように湯呑を握る。漂う沈香の臭いを掻き消したくて熱いお茶を一口含むが、予想通り刺激や異臭を感じることはなかった。

「私の言った通りになったな、乙子」

 自らも湯呑を持ち、普段より幾らかくつろぐ姿勢でお茶を含んだ時灘様がそう言った。
 視線を向けると、彼は目許に薄い笑みを湛え「私の言った通りになった」と繰り返した。

「だからあの時言ったのだ。涅を排し、お前の為だけの十二番隊を作ってやろうと」
「……申し訳ありません」
「怒ってはいないから謝るな。だが、これでわかっただろう。どのような者が自分に相応しいのか、相応しくないのか。それを図り損ねれば――」

 ふいに白い手がこちらに伸びる。
 反射的に身を竦ませると、細く長い指が右目を隠していた髪を避け、丁寧に耳に掛け、離れていった。

「――こういうことになる。まさか、乙子がここまで身を削る羽目になるとは私も予想していなかった。いやはや、驚いたよ」
「……ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした。……ですが、これは全て私の力不足によるものです。誰の咎でもありません、私の弱さの証明です」

 嘘ではない。本当に、全身に火傷を負い右目まで失うことになったのは私が死神として弱すぎるせいだ。そこには涅さんも誰も彼も関係無い。
 私が弱いから不幸が起こる。ならその不幸は私が引き受けなければ辻褄が合わない。

 目を伏せた私を時灘様がふっと笑った。
 どんなに穏やかな瞳で父親のように笑ったとしても、この残された左目にはそれが悍ましい悪意の予兆にしか映らない。

「昔の乙子なら泣いてどうしようもなかっただろう。成長したな、私も年を取るわけだ」
「……時灘様」

 この人の名前を自発的に口にするのは何年ぶりだろうか。
 私が自ら口を開いたことに多少驚いたようで、いつもは蛇のように細められている切れ長の瞳が丸くなった。

 いつもこの目が怖かった。
 この眼差しに射抜かれると、散り散りになったはずの恐怖を思い出す。
 肉を裂き、骨を髄まで断ち切るような恐怖に竦み、私は雨の中立ち尽くして泣くちっぽけなこどもに戻ってしまう。


 でも不思議。
 今はこの人の目より、皆を失うことの方が怖い。
 私を本気で殺そうとしてくれたあの人の為になることをしたい。あの人に殺されるに足る愚者でありたい。

 その想いだけで、弱い私を奮い立たせる。


「私にはもう、十二番隊は必要ありません」

 泣いているこどもの口を塞ぐように、耳を塞ぐように、嘘を吐く。

「散々駄々を捏ねて、こんなことになって……ようやく思い知りました。私はもう、今の十二番隊とは合わないということを」
「乙子」
「ご報告が遅れた不義理をお詫びします。申し訳ありません、時灘様」

 彼が何かを言うより先に、畳張りの床に両手を付き頭を下げる。
 こうして頭を下げるのはいつ振りだろう。昔は私が惨めったらしく泣いて謝るのをとても面白がっていたから、よくこうして壊れた機械のように謝っていたっけ。
 どうして、何の為に謝っていたのかは、今となってはもう思い出せないけれど。

「水月乙子は十二番隊を出ます。もう、二度と戻ることはないでしょう。
 貴方様のご期待に沿えず――自ら手放していく不信心をお許し下さい」

 床に額をこすりつけながら言った。もう何もかも、どうでもいいのです、と。
 これも本心だ。何もかもどうでもいい。
 とうに失ってしまった過去の幸福以外は、どうなっても構わない。

 貴方という絶対的な神に背いてでも、私には護りたいものがある。


 床に伏せる私の頭に白い手が触れる。
 促されるままに頭を上げると、見上げた時灘様の顔は薄らと微笑んでいた。
 指先から悪寒が奔っていく。

「そうか――そうか」

 操り糸を切られた人形のように身体の自由が利かなくなる。
 ヒトを魂から恐怖させるような笑み。悪意の発露そのもの。幾度となく直視してきた人の形をした闇。

 恐怖に屈しそうになる脆い心を奮い立たせ、悲鳴を上げそうになるのを唇を噛んでやり過ごす。
 悍ましい手のひらが肩を掴んだ瞬間に息を呑んでしまったことに、きっとこの男は気付いているだろう。私が恐怖しているのが伝わっているんだとしても、それを表には出さない。
 この男の望む通りに泣いてはいけないし、屈してもいけない。

 私は此処で、戦いに来たのだから。


 時灘様は口を引き結んだまま無言でいる私をじっくりと観察し、ようやく「そうか」と言葉を切った。
 長い、長い、永劫に続く拷問のように感じた。

「……お前は自らのことを"弱い"と評したが、昔と比べれば充分強くなったと言えるだろう。昔の乙子なら、そのように私の目を真っ直ぐ見返すことなど出来なかっただろうからな」

 嬉しいよ、と囁かれる。言葉は返さない。無言で顎を引いた。
 どこに触れても反応を示さなくなっていた壊れかけの玩具が息を吹き返して、"嬉しい"。
 掴まれた肩から伝わってくる冷たい霊圧が、そんな言葉の真意を余すところなく語っていたからだった。

「ということは、あれだな。快気祝いに壮行会が重なる訳だな? これは目出度い、そうとわかっていればこんな茶室ではなく料亭を貸し切って祝いの席を設けたと言うのに……そうだ、乙子。十二番隊を抜けた後は何処に行くのだ。お前がこれから尽くしていく上官は何という者なのだ? 私に教えてご覧」
「……九番隊に内定を頂いております。先日隊首試験に合格した東仙五席が――」

「東仙? ……東仙だと? あの東仙要か?」

 時灘様が笑い出す。肩を揺すり、顔を覆って笑う。
 東仙くんとこの男の関係はわからない。私は何も知らない。流魂街の出だと言っていた東仙くんと貴族であるこの男の関わりなど、考えるまでもなく碌なものではないことだけは確かだろうけれど。

 何か愉快なものの兆しを見たように嬉々として私の頭を撫でる手の嫌な感触に目を伏せ、どうやら彼の関心が私個人から多少は分散したらしいことを悟った。
 好きにすればいい。笑っていればいい。

 最早私は、彼の拵えた舞台で転げまわる憐れな玩具にはならない。
 私を苦しめるものは、手の届かない遥かな過去にだけある。


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