異動を意識のうちに据え始めた頃から、十二番隊隊舎内のあちこちに散らばってしまっている書類や備品を、詰所を中心にして回収・再配置する動きを続けていた。

 たとえば保存期間を定められている重要機密書類。これは十三隊それぞれに様々な種類存在して、十二番隊では技術開発局が出来たあたりから隊長・副隊長があっちこっちに移動して一所に落ち着かないせいで隊舎・局内にバラバラに置かれてしまっている。
 あとは日々の業務や任務の内容等を綴る記録用紙。こちらはある程度隊舎内で保存した後、期間を過ぎたものからまとめて場所を移して行き――最終的には編纂され、中央四十六室の地下議事堂にある大霊書回廊に収められることになっている。ほとんどは死神が罪を犯した場合、その者の過ごしてきた時間を情報として遡ることを可能にする目的だそうだ。

 細かく分類すれば他にも沢山あるけれど、とにかく隊それぞれで管理していなければいけない"紙"はとにかく多いのだ。
 それらが今は定位置を持たずふわふわと隊舎内を漂っている状態で、異動を考え始めた頃からこれらの整理整頓は私にとっての最後の大仕事にして急務だった。
 最後の最後で引継ぎ以上に骨が折れる仕事が残っていたのである。


「乙子さん、あの……」

 両腕に製本済みの日誌を抱えて廊下を歩いているとき、隊士がおずおずと呼び止めてきた。
 足を止め振り返ったとき、彼があまりにおどおどした表情を浮かべていたのでほんの一瞬驚いてしまった。
 なにかよくない事故やミスが起こってしまったんではないかと逡巡し、けれどそれらしいことが起こるような特殊業務はここ最近ではなかったはずだ、と首を振る。一番あり得るのは月末の会計書類に不備が発見された、みたいな話だけれど、手順を覚えてもらうために複数人に同じ処理をやらせて同じ結果になったし、私も最終確認で何度も計算をやり直し何度も数字を追った結果間違いは見つからなかった。

「どうしました? なにか不備で返ってきた書類でもありましたか?」
「今、乙子さんに客が来ていて……」
「私に? 誰でしょう、心当たりがまったくないですね……」

 首を傾げると、彼は言いづらそうに視線を彷徨わせた後、意を決した風に「貴族街からの遣いです」と低い声で囁く。
 耳鳴りのように響くその言葉を脳裡で反芻しながら、けれど心境はどこか落ち着いていた。

「装束に綱彌代家の家紋がありました。あれは――」
「わかりました。今から向かいます」

 本を抱える両手が震える。両脚から感覚が消え失せ、地に足がつかない独特の浮遊感に支配されて。
 当然のように恐怖に苛まれながら、まだ平静を装う余力があった。
 ずっとずっと覚悟を決めていたからかもしれない。

 私が十二番隊を出る動きを見せた以上、あの人が口出しをしてこない訳がない。そんなことは最初から予想出来ていた。
 あの人の存在は未だに私のなかの奥底に根を張る最も強い恐怖の象徴そのものだけど、私を恐怖させるために近々やってくることだけは解っていたから、強い覚悟を持って日々に臨むことが出来たのだ。
 この覚悟が記憶と共に損なわれる前に私の前に現れてくれる、あの人の気まぐれすらも今は運が私に味方をしているように思える。

 猶予は十分あった。
 水月乙子が最期に果たせる、十二番隊への献身。その仕上げだ。

旅も終わりに近づいたころ


 抱えていたものはすべて詰所に置き去り、隊首室横の応接室に向かう。
 遣いの訪問を知らせてくれた隊士は「外で待機していてもいいですか」と怯え混じりに申し出てくれた。
 そもそも貴族から死神への接触が吉事を生む訳も無い。きっと彼もそれを解っていて、けれど私を一人で矢面に立たせまいと考えてくれたのだろう。
 室内に立ち入らないこと、話の聞こえない隣室で待機することを条件に、今は一緒に板張りの廊下を歩いている。

 本当は彼の申し出を断り、一切の関わりを持たせないようにしなければいけなかったはずだけど。
 恐怖と戸惑いに満ちた眼差しに見覚えがあって、どうにも首を振れなかった。


 応接室手前で約束通り彼と別れ、ひとりで戸口の前に立つ。
 失礼します、と室内に踏み入ると、予想通り上座に座っていたのは綱彌代家の遣いの者だった。
 立派な仕立ての装束は貴族の供回りの証。袖にはそれぞれの家紋が金糸で刺繍されていて、一目で何処の家の者かが解るようになっている。

 綱彌代家と一口に言っても、今日私を訪ねて来た遣いは綱彌代時灘の私兵のようなものだ。時灘様に付き従っているところを幾度となく目にしているので、顔にも覚えがあった。
 相手も私を見留めると、慣れた様子で「四大貴族筆頭、綱彌代家の時灘様からの遣いで参った」と言った。

「……このような場所までご足労をお掛けし、申し訳ありません。本来であれば私の方から出向かねばならないところを――」
「御託は良い。時灘様からのお言葉である。膝を折って有難く聞け」

 貴族の遣いが横柄な態度を取るのはいつものことだ。大人しく跪くと、使者は懐から手紙を取り出して広げる。

「時灘様がお前をお呼びだ。明日の正午、綱彌代家別邸に参れ。時灘様は水入らずをご所望である。くれぐれも連れなどは伴わぬよう」
「承知しました。私一人で参ります」

 どれだけ仰々しい訪問でも、貴族からの遣いと言ったらこの程度のことだ。もちろん、総隊長や他の……たとえば京楽隊長宛であればもう少し形式が違うのだろうが、事情があるとは言え一席官の私相手ではいつも「どこそこへ行け」とか「誰某が呼んでいる」とか、そういう報せである。

 今日来た使者は以前、自分の主に"目をかけられる"私を疎むあまり余計な『私語』を繰り返し、時灘様に叱られたと聞いた。
 報せが思いのほか簡素で手短になっているのはそのせいだろう。
 いつもは書状で済ませる程度の内容にわざわざ人を寄越したのは、私を怯えさせたかったからかもしれない。

 とは言え、使者の傲慢な態度は見ていて気持ちのいいものじゃない。
 これ以上話を長くしないよう従順に頷いていたおかげで、報せを終えた使者は早々に十二番隊舎を後にした。
 去っていく背中を形ばかり見送っていると、足音が遠ざかるのを聞き届けて隣の部屋から待機していた隊士が顔を出す。

「な、なんだったんですか、あれ……?」
「……ふふ、内緒です。大したことじゃないし、敦賀くんには関わりのない話だから」

 冷たくならないよう語気を和らげながらそう言うと、彼はぎゅっと眉を寄せて「でも」と言い募る。
 気が弱く、いつもおどおどしがちな彼にしては珍しい。

「俺達じゃ、浦原元隊長みたいに巧くやり過ごせないし、涅三席みたいに跳ねのけたりも出来ないけど……それでも、乙子さんがあいつらに嫌な思いさせられてるのはわかってるんですよ」
「……」
「何が出来る訳じゃないけど、もしすごく腹の立つことを言われたり、嫌なことを言われたんだったら、一緒になって怒ったり悲しんだりすることくらいは出来るかな、と思って……」

 ぱちり、と音が鳴りそうなくらいゆっくりと瞬きをした。
 そんなこと、初めて言われた。

 護ってあげるとか、庇ってあげられなくてごめんとか、そういうことは何度か言われてきたけど。一緒に怒って、悲しむことは出来るなんて、そんなやさしいことは初めて言われた。
 恐怖を共にする。そんな選択肢、考えもしなかった。巻き込んだら最後、誰も彼も不幸にしてしまうと知っていたから、選ぶ余地もなかった。


 なんだか今、昔言われた言葉達の意味がわかりかけた気がしたけど――もしそれを選べていたなら、何かが変わっていたんだろうか。

 すべての終わりにこんな『もしも』を考えたって、仕方がないことはわかっているけど。


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