「乙子ちゃーん」

 そんな声が聞こえて振り返る。
 思っていたよりも近くに白皙の美青年の顔があったので反射的に仰け反ると、記憶よりも背が伸びた彼――市丸くんがケラケラと笑った。
 なんだかこのやり取り、昔からずっと繰り返している気がする……。

「も、もうちょっと早めに声かけてほしいな……近くてびっくりしちゃう」
「ごめんごめん。乙子ちゃんのびっくりした顔おもろいから、驚かせたくなってまうねん」
「そういうもんかなぁ……」

 この間五番隊の副隊長になった市丸くんは、私を驚かせていちいち反応を楽しんで遊んでいる節がある。
 根っから悪い子ではなさそうだから強く怒るのも何か違う気がするし、そもそも目くじらを立てて怒るようなことをされているわけでもないし……という感じで、毎回甘んじて驚かされていた。
 霊圧で判るだろうと言われればそれまでなのだけど、どうも彼は私を本気で驚かせるためだけに霊圧を消しているようなのだ。何がこの子をそこまで駆り立てるのか、全くの謎である。

途切れ途切れの後悔をつないで


「乙子ちゃんがお仕事抱えてへんの珍しいね。どこかにご用事?」
「うん、四番隊に。……って、このやり取りにも何だか覚えが」
「あれ、覚えてるのん?」

 うん、と頷きながら細い糸を手繰るように記憶を遡る。
 確か……ひよ里ちゃんを見送ったあとに食堂に向かう途中で似たような話をした気がする。
 既視感というあまり馴染みのない感覚にそわそわしていることを誤魔化したくて短くなった髪を触ると、市丸くんはあの時のようにのんびり笑って「あの時はおにぎり作りに行く言うてたね」と言いながら隣に並んだ。どうやら行き先が近いらしい。

「市丸くんは最近どうですか? 副隊長、大変でしょう」
「まあ、ぼちぼち。藍染隊長がしっかりしてはるから、ボクはのーんびりやらせてもらっとるよ」
「そうね、藍染隊長がいるから五番隊は安定通り越して盤石か」
「せやよ〜。だから乙子ちゃん、ウチに来たらよかったのに」

 ――私が、五番隊?

 考えもしなかった可能性にゆっくり一つだけ瞬きをすると、市丸くんは後ろで手を組んでくふふと笑った。

「その反応だけで脈無しって解るわぁ、傷付いてまう」
「あっ、ごめんね、別に五番隊が嫌とかそういうことじゃないのよ」

 慌てて胸の前で手を振るが、市丸くんはわざとらしく「よよよ」と泣き真似までしてみせる始末。完全に遊ばれている感が否めない。
 とは言え、きっと誘ってもらっていても五番隊に行くなんて考えもしなかっただろうな、私は。

 藍染隊長が苦手という訳でもない。あの人はきっと私の人生のなかでずっと目標にするべき模範だ。
 市丸くんだって、ちょっと読めないところはあるけれど根はいい子だし。
 どうして五番隊の選択肢がまったく無いのかと訊かれれば、今まで過ごしてきた私という死神と五番隊の気風は微妙に合わないと言うか、明確な理由は無いけれど違和感があると言うか……。
 じゃあ九番隊はどうなんだと言われればそれまでなのだけど、九番隊には長い付き合いの東仙くんがいるし。


 ただ、五番隊の人達は皆穏やかで優しい隊士ばかりだから。
 たとえば集まりに顔を出したとき、薄い硝子に触れるような扱いをされたりだとか。
 向けられる眼差しが悪意なく私を憐れんでいることに気付いたりだとか。

 十二番隊から出た先でそれが日常化してしまったら、私は脳の端から再び狂気に蝕まれる予感がある。


「……五番隊は優秀な隊士ばかりですからね。私なんかじゃ、とてもとても」

 そう言いながら頬を掻く。別にそれも嘘じゃなかった。
 市丸くんはそれ以上追及することはなかったけれど、「乙子ちゃんが"なんか"だったら他の隊士みーんな使えへんことになっちゃうね」と笑顔のまま恐ろしいことを言ったりする。
 
「……あ、私はここで。市丸くんも副隊長のお仕事頑張ってね」
「せやなぁ、乙子ちゃんが副隊長って呼んでくれたらやる気出るかも」
「頑張って下さい、市丸副隊長」
「えへへ」

 最後に子供っぽく笑って、市丸くんはもと来た道をのんびり戻っていった。

 ……あれ、ずっと一緒に歩いてきたからてっきり彼も四番隊に用事があるのだと思っていたんだけど。
 話相手でもしてくれていたんだろうか、と首を傾げながら四番隊の詰所へと入っていった。

 今日は眼帯の取れる日なのだ。




 翌日の午後、十三番隊の隊舎を訪れた。
 先日京楽隊長に言われたこともあって、隊長不在の十二番隊を長らく見守ってくれていた浮竹隊長にお礼と報告もなく十二番隊から異動することを謝る為だ。

「御免下さい、十二番隊第四席・水月です。浮竹隊長はこちらにいらっしゃいますでしょうか」

開け放たれた詰所の戸口から顔だけで覗き込むと、十三番隊の『実質』副隊長の志波海燕さんがぱっとこちらを見た。
 「おっ」と声を上げて大股で歩いてくるのを迎えながら、私もお辞儀をして室内に一歩踏み入る。

「久し振りだな水月! 重傷で帰還と聞いてたが意外と元気そうじゃねぇか」
「お久し振りです海燕さん。はい、見えるところにあった怪我はほとんど治りました。ご心配をおかけしてすいません」
「いっつも硬いんだよお前はー、そこは一言"元気です!"でいいんだっつーの」

 海燕さんと直接顔を合わせ、しかもこうして雑談出来るのは本当に久し振りだった。
 十三番隊は浮竹隊長の体調が優れないことも多く、隊長業務を海燕さんが代行していることが多いので、海燕さんは多忙なのだ。これでどうして副隊長じゃないのか私にはよくわからないが、そこに突っ込むと「別にオメーでもいいんだぜ、副隊長」とか言われてしまうので触れないことにしている。
 とはいえ、忙しなさと疲労を決して表に出すことのない溌剌とした雰囲気ときっぱりした物言いで多くの隊士に頼られる、これまた模範的な死神だ。

 ばしばし背中を叩かれる感覚に懐かしさが込み上げてくるのを感じながら、持っていた紙袋を差し出す。

「これ、初瀬のどら焼きです。十三番隊の皆さんでどうぞ」
「おう、ありがとな。水月の選ぶ甘味にゃハズレが無いってんでウチの奴らも皆楽しみにしてんだ。特に隊長が」
「あはは、それは何よりです」

 いつかに初瀬のどら焼きを差し入れに持って行ったとき、浮竹隊長が「あれはとても美味しかった」としみじみ喜んで下さったので、十三番隊を訪ねるときの手土産は大体どら焼きだ。
 甘すぎない餡と優しい味わいの生地が評判の人気店で、初瀬の甘味は何処に持って行っても大体喜んでもらえる。

「隊長なら今は雨乾堂だぜ。別に具合が悪い訳じゃなく休憩してるだけだから、そのまま行って構わねえよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「こっちこそ、どら焼きご馳走様」

 垂れ目を弓なりに細くして笑う海燕さんに見送られながら、十三番隊詰所の廊下を抜けて雨乾堂へと歩き出した。

 渡り廊下を抜けると、庭の池にいる鯉に餌をやっている浮竹隊長がすぐに見えた。
 浮竹隊長もこちらに気付いて、歩いてくるのが私だと知って「水月!」と明るい笑顔で手招きしてくださった。

「お久し振りです、浮竹隊長。休憩中にお邪魔して申し訳ありません」
「いやいいんだ、休憩とは名ばかりのサボりだからな。俺が言うのも何だが、もう身体はいいのか?」
「はい、大分いい具合です。……いつもと逆ですね」
「そうだな、何だか新鮮だ」

 顔を見合わせて笑っていると、浮竹隊長が持っていた袋をこちらにずずいと差し出してくる。鯉の餌が入った袋だ。
 定期的に海燕さんが買いに行っているもので、ちょっと目を離すと浮竹隊長は餌をあげすぎると愚痴っていたっけ。

 断る理由もなかったので両手を揃えて皿を作る。思っていた三倍餌を出されてしまった。
 浮竹隊長の隣にしゃがみ込んで、一緒に餌を撒く。

「浮竹隊長、私、九番隊に異動します」
「ああ、聞いたよ。淋しくなるな」
「……すいません。今まで沢山お世話になったのに、直接報告出来なくて」

 一握り、餌を撒きながらそう言うと、浮竹隊長はとうに撒き終わって自由になった両手を払いながら「うーん」と唸った。
 幼い頃に病気の影響で真っ白くなってしまったという髪の、結ってまとめた房がさらさらと肩を滑り落ちて、まるで絹のようだな、と漠然と思った。

「月並みな言葉だけど、水月、色々あっただろう。つらい決断を迫られること、誰かの為に悩まなければいけないこと、我慢しなければいけないこと……」
「……」
「"そんなことはない""この程度で"、と君なら思ってしまうんだろうけど、実際その程度を測る基準は、水月自身のなかに残っている苦しみやつらさの記憶だろう。……君は若い頃から人とは違う環境に身を置いて、他人が経験しないような恐怖や苦痛に晒されて来たから、自分の苦痛を測る尺度が普通より高いんだ。
 これは嫌な言い方だが、君は人より苦痛や恐怖に対する経験が豊富なせいで、いざそういう状況に陥った時、過剰に客観的になってしまうんだろうな。知っている――刻みついている嫌な記憶と比較して無意識に今の自分を軽視してしまう」

 私の撒いた餌に鮮やかな色の鯉が群がる。池の水面に波紋があちこち生まれては消え、鯉の尾びれが水中で暴れる音が激しく鳴っている。

 恐怖を感じるたび、愚かな私の視野はどんどん狭まって、本当に少ないいくつかのことしか考えていられなかったように記憶しているけれど。
 客観視しすぎる、と改まって言われれば確かに、と思わなくもない。
 いつからか、生きていけないほどの激しい絶望や怖れは感じなくなっていた。
 本当は感じていたのかもしれないけれど、少なくとも私の頭と心は必ず最低限の理性というか、感情とは繋がらない隔絶された凪のような部分を持ち合わせ、そしてそれを守っていたような。

 自分のことなのに、よくわからない。
 身を浸す絶望の冷めた感触や、心臓の内側を引っ掻かれるような苦しみを思い出そうとすると、思考がぼんやりあちこちに散らばって、上手く考えられなくなる。
 過去も今も他人事になってしまったようだ。

「……激しい感情を客観視して心を守ることは、俺は人として正しいことだと思う。そうしなければ心が壊れてしまうから。だけどな水月、心を遠ざけすぎたら、いつか自分を見失ってしまうぞ」
「………、……難しいですね」
「そうだな。難しいな、生きていくのは」

 気が付けば私の両手も空になっていた。
 池の前でしゃがみ込んだまま、浮竹隊長は薄い微笑みを浮かべてもう一度「難しいな」と呟いた。
 その横顔をぼんやり眺めながら、どれだけ遠ざけて他人事のふりをしても褪せることのない記憶のことを思う。

 
 大丈夫。覚えてるよ。
 忘れてなんかないよ。


 息を吐いて微笑み返すと、浮竹隊長が腰に手をやりながら立ち上がる。
 私もそれに倣って立ち上がった。

「……水月は沢山悩んで考えて、十二番隊を抜けることを択んだんだよな。世話になったのは俺の方だ、君にはよく助けられた。俺に出来る範囲で、これからも十二番隊が安定するまで見守っていくよ」
「はい、ありがとうございます」
「だから、水月は水月の戦いをしなさい。そうすると決めたんだろう?」
「――はい」

 今更別の道には引き返せない。痛いくらい、解っている。
 頷いて笑うと、浮竹隊長も笑ってくれたけれど、ほんの少しだけ眉が下がっていた。

 たまに、浮竹隊長と京楽隊長が似たような曖昧な感情を滲ませた表情を私に向けることがあった。
 お二人からしたら、私なんてまだまだ子供ということだろうか。


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