あっという間に月末を迎えてしまった。
 月末処理や会計報告は、以前から行っていた引き継ぎの最終試験という形で私は手を出さず、隊士達が協力して書類を提出するまでを見守った。
 どうしても困ったときの為に、とこっそり説明書も作って仕舞ってあるので、大体のことはもう彼らだけで乗り越えていけるだろう。
 九番隊に来てくれれば私もいる訳だし。

「じゃあ、あとは月初のお仕事ですね」
「正直不安ですけど……」
「大丈夫大丈夫、困ったらこっそり紙持って来て下さい。涅さんにはバレないようにね」

 笑って手を振ると、隊士達は寂しそうに眉を下げてそれぞれ頷いた。

 涅さんとは、あれから一度も顔を合わせていない。
 異動前に、と処理に追われる私を避けているのか、昼間のうちは研究棟から出てこないのだ。
 日が暮れると一応研究室から出ているらしい痕跡はあるので、不健康を極めすぎて倒れる、なんてことはないだろうが心配なものは心配だ。
 ……掻き乱しているのは私だし、早いところ出て行った方がいいのかもしれない。

 私はと言うと、無事眼帯を卒業する目処が立ち、義眼生活にも慣れてきたところだ。
 入院していた分の遅れと衰えを取り戻すべく、事務仕事が片付いたら道場に通って隊士達の稽古に混じったりもしている。――慌ただしい生活に救われている部分もあった。

 少しでも立ち止まって思考に余白が出来たら、鼓動する心臓を疎むのを今度こそ止められない予感がある。

嘘になってしまった、沢山のこと


 月初の九番隊新隊長任命式と同日に九番隊へ異動となる私は、当日に備えて私物の運搬や九番隊の面々への挨拶で午後からはあちこちの隊舎を歩き回ることとなった。

 九番隊は例の事件で上位席官がごっそりいなくなってしまっている。
 隊の毛色や職務内容が大きく異なる十二番隊からの異動、ということで最初はおっかなびっくりだったけれど、東仙くん曰く「あの十二番隊不動の四席・水月乙子が来る」とおっかなびっくりしているのは向こうの隊士も同じらしい。
 護廷十三隊の中では顔見知りの多い私なので、顔も名前も全く知らない、みたいな隊士は恐らく九番隊にはいないだろう。

 ……一応、最終確認程度で東仙くんには「副隊長になる気はないか」と尋ねられたけれど、丁重に辞退させて頂いた。
 九番隊は未だに副隊長が不在だ。形式的なお話だったので、東仙くんも特に追及はせず「そう言うだろうと思った」と苦笑したのだった。



「あら、乙子ちゃんじゃないの」
「京楽隊長。お久し振りです」

 廊下の曲がり角からぬっと姿を現した京楽隊長に内心びっくりしつつ、平静を装って頭を下げた。京楽隊長はかなり背が高い方だから、こうして突然笠と派手な羽織が視界に入ってくると毎回驚いてしまう……。

「退院おめでとう。言うの遅くなっちゃったけど、暫く忙しそうにしてたから」
「いえいえ、お気遣いありがとうございます」
「髪、本当にバッサリいっちゃったんだねぇ。伸ばしてたのに、残念でしょ」
「あ、これですか。いえ、伸ばしていたというより切るのが面倒で惰性で伸ばしっぱなしだったと言いますか……そこまで拘りは無いんです」
「え〜、そうなの?」

 腰下あたりまであった髪は、退院前に四番隊の立候補者によって肩口あたりで綺麗に整えてもらったのだ。
 長さに拘りは無いからいっそ短く、とお願いしたのだけど「せっかく綺麗な髪ですから長さを揃えるだけにします」と焼き切れたことがわからない程度に整えられた。
 それでも元がそれなりに長かったから、見る人によっては「あんなに長かったのに残念ですね」とか「また伸ばすの?」とか心配されることが多かったりする。

 京楽隊長もそのクチだったようで、「もう伸ばさないの?」と顎を擦りながら私の後ろ髪を覗き込んできた。

「さあ、どうでしょう。面倒なので伸びてきたらそのままにするかもしれませんね」
「そっか。まあ、乙子ちゃんなら短いのも似合うだろうからこれを機に切っちゃうのもいいかもね」
「うふふ、そうですかねぇ」

 微笑みながら首を傾げると、以前より短くなった髪が肩を滑り落ちていった。
 京楽隊長はそんな様子を見て、ほんの少し安堵したように息を吐くと私の背中をぽんぽん片手で優しく叩く。

「塞ぎ込んでるとか、そういうことはとりあえずなさそうで安心したよ。浮竹も心配してたから、余裕がある時にでも隊舎の方に寄ってやって」
「わかりました。ありがとうございます、京楽隊長」

 ぺこり、ともう一度頭を下げる。京楽隊長は片手を挙げて横をすり抜けていった。

 ――と思ったら、数歩で足を止めて振り返る。

「すっかり忘れてたけど、乙子ちゃん、九番隊に異動なんだって?」
「え、あ、はい。一応明日の東仙くん……東仙隊長の任命式と同日に」
「いやいや、やっと隊長格の空席が一つ埋まるって言うんですっかり忘れてたけど、そっちも中々の衝撃だったよ」

 まあ、そう言われれば確かに四捨五入すれば百年近くを十二番隊で過ごしてきた私が他所に行くとなれば、皆驚くものか。私だって、こんなことになるまでは十二番隊を離れるなんて夢にも思わなかっただろうし。

 首肯すると、京楽隊長は声を潜めて「で、十二番隊は涅くんが隊首試験に臨むと」と言った。
 隊首試験を近々受けるということは知っていたけれど、もう日取りまで決定していたのか、と内心驚きつつ「そのようですね」ともう一度頷いた。

「涅くん、よく乙子ちゃんが九番隊に行くの許してくれたね」
「許しはもらってないです。私が勝手に辞めるだけですから、ほとんど勘当みたいなものですかね」

 今度は京楽隊長が驚いたように目を瞠った。何か変なことを言っただろうか、と首を傾げる。
 人の往来が多少ある廊下なので、京楽隊長は更に声を潜めて言った。

「喧嘩してるってことかい……?」
「喧嘩……ではないと思います。そもそも私と涅さんじゃ喧嘩にはなりませんよ」
「うーん……そうかなァ……」

 ケロッとしている私の何がそんなに不思議なのか、京楽隊長は腕組みをして唸り出す。
 実際には涅さんから徹底的な無視を喰らっているのはかなり悲しいのだけど、全て自分で蒔いた種なので耐えるしかなかった。
 それにしても、喧嘩。

「……いやね、十二番隊内部の話に関しちゃボクは外様だから下手なことは言えないけど。何かあるなら、しっかり話し合って別れるべきじゃないかな。乙子ちゃん、彼に嫌気が差して出ていくとかじゃないんでしょ?」
「はい。私は涅さんのことも十二番隊のことも好きですよ」
「じゃあ、余計に話はきちんとするべきだ。言わない・話さないことが良いことも時にはあるけど、ボクの経験則じゃあそれは稀なことだよ」

 優しい笑みを浮かべている京楽隊長に、んん、と言葉が詰まる。
 正面切って話をしに行ったら、必ずと言っていいほど暴力沙汰になってまた一騒動起こしてしまう予感がするけど、京楽隊長の言うことにだって一理ある。

 ――今のこの状況が良くないことくらい、私にだって解っている。解っているのだけど、理解と実践はまた別物と言うか。

 そっと唇を噛んで俯くと、もう一度大きな手のひらが背中を叩いた。

「ま、別に異動したからって一生会えない訳でもないさ。時期は乙子ちゃんが見極めて決めなさいや」
「……はい。ありがとうございます、京楽隊長」

 深々頭を下げる。優しい声で「ボクは何もしてないよ〜」と今度こそ隣をすり抜けて京楽隊長は立ち去って行った。
 大きな背中が見えなくなるまで見送って、言われたことをもう一度頭の中で繰り返す。


 ……話はした方がいい、か。


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