涅さんの右手が再び東仙くんのそれと衝突する。
 鈍い音が響き、背後にいた局員達が怯えるように息を呑んだのが聞こえた。
 第五席とは言え、東仙くんだって六車九番隊で第一線を張り続けた実績がある。体格では涅さんと同程度でも、実戦経験は涅さんよりも豊富なはずだ。

 そんな彼が私への怒りをすべて防いでしまうから、涅さんは目を剥いて怒鳴る。

「あァ、何処へなりとも行けばいいとも。私の知ったことではないネ。その薄ら寒い作り笑いを二度と見なくて済むと言うのなら心底清々するヨ!」
「ならば決まりだな。……水月、立てるか」

 手を差し出した東仙くんが、頽れていた私を引き上げながら振り返る。

「聞いていたな。……君達には急な話で申し訳ないと思うが、水月は私の就任式と同日に九番隊の三席に任命するつもりだ」

 東仙くんのはっきりとした宣言を受けて、局員達が追い縋るように私を見る。東仙くんに両肩を支えられながら立ち上がった私を見つめる。

 ――その眼差しには、なぜだか見覚えがある気がして。

 涅さんに背を向けたまま、口の端だけ微笑んだ。
 見ていて苦しい笑顔だったろう。局員が次々に眉を寄せたり、唇を引き結んだりする。

「ごめんなさい、皆。……ごめんなさい」

 謝ることは自分の非を言外に認めることに他ならない。
 頭では解っていても、謝らずにはいられなかった。

水面には君という波紋


「すまない。見ていられなかったんだ」

 研究棟から出た折、東仙くんは私の手を引きながらぽつりと言った。
 ううん、と首を振って足を止めると、東仙くんもややあって振り返る。

「普通はそうだよね。わかってるよ、自分以外の隊士や局員が同じことされてたら、私だって止めに入るもの」
「それもそうだが、……水月には水月の言い出し方や別れ方があっただろう。それを全て無視することになってしまったから」
「……」

 十二番隊を離れ、九番隊に異動することを、私の口からはまだ涅さんにしか伝えていなかった。
 東仙くんの口からそれを聞いた局員達は、さぞ衝撃を受けたことだろう。……決して短くない時間を創設から共に過ごした局員達に対しては手酷い裏切りにすら映ったかもしれない。

 確かに、自分の口からとは思っていたけれど。

「……でも、今の私と涅さんじゃ何を話しても喧嘩になってしまうし、あのままじゃ皆も可哀想だったから。あの場はあれでよかったのかもしれない」
「水月」
「平気。気にしてないよ、何も問題は無い」

 平気、ともう一度繰り返すと、東仙くんは「そうか」と吐息のような返事をした。
 あとは無言で、十二番隊詰所まで二人で歩いていった。


* * *


 隊首室の戸口が叩かれる。
 「はぁい」と首だけで振り返って返事をすると、入口から阿近くんが顔だけを覗かせた。

「ああ、阿近くん」

 入院していた期間、誰も立ち入っていなかった隊首室には埃が溜まっていた。せっかく隊舎に戻ってこられたのだから、と掃除を始めたのだ。
 濡らした布で机や椅子、棚の表面を拭き取りながら、此処に縋れるのもあと少しか、と勝手な感傷に浸っているところだった。

 足音もなく近寄ってくる阿近くんを迎え入れながら、その無に近い表情の中に困惑や悲しみみたいなものを読み取ることが出来て、……小さな頭にそっと手を置いた。
 いつも、いつもしていたように、黒い髪を梳きながら手のひらを往復させる。

「もう、隊の方にも言ったんですか」

 ぽつりと阿近くんが呟いた言葉に手が止まる。
 何を指しているのか、なんて考えるまでもない。その静かな様子を見て、ああ、涅さんに最も近い阿近くんはずっと全て解っていたのかな、と今更ながら思った。
 病室を訪れ、何も言わなかった――何も言えなかったあの時の彼は、すでにこうなることを知っていたのかもしれない。

 それでも口を噤むことを選んでくれた彼の姿が蘇って、……目の前にいる阿近くんの小さな身体を抱き締めずにはいられなくなった。
 阿近くんは小さく「くるしい」と言ったけれど、今は華奢な、そしていつかは私より背が高くなるだろう彼の未来のことを思うと、力を緩めることなんて出来そうにもない。

「うん。……皆優しいから、誰も怒らなかったよ。……申し訳ないなぁってすごく思う」
「乙子さんが怒らないから、誰も怒れない」
「……、……阿近くんも?」

 そっと顔を離すと、阿近くんは珍しく私の胸に頬を預けたままぼんやりと遠くを見ていた。
 私の問いが届いているのかいないのか、ちょっとの間を開け、「局長は怒ってる」と囁く。そうだね、と弱く頷く。

「涅さんにはずっと迷惑かけっぱなしだったから、怒られるのは仕方ないんだ」


「――乙子さん、何にも解ってない」

 阿近くんの声が、初めてほんの少しの棘を含んだ。私に対する感情のささくれであることは確かだろう。
 困ってしまってちょっと眉を下げながら、「そういう風に言われるの、今日二回目」と苦笑した。

「局長、乙子さんが十二番隊を出ていくのを裏切りだって言ってた」
「そうだね。裏切りかもしれない。……これからだって時に、一人で他所に行くんだもの。裏切ったって言われるのは当然かも」
「だから、違う。解ってない、乙子さんは」

 きっぱりそう言い切って、阿近くんの小さな握り拳がトン、と気持ち控えめに私の鎖骨のあたりを叩く。


「――俺達・・は、乙子さんになら。……地獄に落とされてもよかった」


 それはあまりにも。
 ……あまりにも優しい怨み言だった。

「貴方がいるなら、此処が何に成ったって、構わなかった、のに」

 ――今更冷たいこと言わないで下さいよ、ここまで来たら一蓮托生でショ
 ――君の何もかもは私の所有物であり十二番隊の資源だと言ったのをもう忘れたのか



 血を吐くような声で私を引き留める声が、耳の奥で残響をつくる。
 いつの間にか小さな手が私の指を掴んでいた。私は呆然としてしまって、それに応えられない。
 拙い手の感触に、意識が現実へ融けていく。

 今までのことの全てが、水月乙子に刻みついたままの記憶の全てが、まるで走馬灯のように蘇った。
 その全てを思って、私は、……私も、同じ気持ちだったことを今更になって思い出す。
 忘れていたのか。いや、忘れていた訳じゃない。ただ考えないようにしていただけだ。
 思い出してしまったら、自分がどんなに酷いことをしているのかも思い知ってしまうから。それが苦しいから。


 阿近くんが僅かに身じろぐ。
 泣いているんだろうか。涙を流す価値を、私に見出してくれているんだろうか。
 その仕草を観察しながら、こんな時にばかり心が麻痺したように動かなくなる自分を深く強く呪った。

 こんな時くらい、心が、痛くなれ。
 涙の一滴くらい、流してみせろ。



「私は、嫌だなぁ」


 そう絞り出すのが限界だった。
 珍しく嫌がらない阿近くんを抱き締めながら、漂白されたように透明になっていく思考から目を逸らす。

 透明な雨のなかで、私は、好きを護る為に、好きを諦める。

「私は、皆を地獄に落とすのは嫌だな」

 そう、ただそれだけだ。
 誰かを、皆を道連れにするのが怖いだけ。私のせいで不幸を被る誰かを見るのは、他でもない私がその辛さに耐えられない。
 だから応えない。此処に全て置いていく。

「皆には、私が見えないところで、ずっと生きててほしいなぁ……」

 やさしいようで傲慢な、独り善がりのようで慈しみに満ちているような願い。
 例え私がいなくては成り立たない過去が確かにあったとしても、これから先の未来に私は必要ない。
 私を必要としない未来を、絶対に、護りたい。

「だからごめんね。此処にいる誰も、私と同じところには連れて行けないや」
「……」
「ごめんね、でも大好きよ」

 月並みな言葉がまどろっこしい。
 皆の為なら死んでもいいと心から思っている。十二番隊の為にこそ死にたい。それは今もこれからもずっと変わらない本心だ。
 人として最低最悪な私は、十二番隊を護る為に、他の人を犠牲にする覚悟まで決めた。
 だからもう、今更引き返せない。

 ぎゅっと両手に力を込めると、また僅かに身じろいだ阿近くんがぽつりと「泣いても駄目ですか」と言った。
 阿近くんが泣くところなんてあまり想像がつかないけど、そうだなぁ。

「うん、今回ばかりは泣いても駄目。阿近くん知ってるでしょう、私も涅さんに負けないくらい頑固だって」
「……字だって、まだ認めてもらってないのに」
「たまに見せに来てよ、死神辞める訳じゃないんだから」

 苦笑すると、阿近くんは憮然とした表情のまま一言「嘘吐きだ」と私を詰った。あはは、といつものように笑って誤魔化す。
 

「ごめんね、嘘吐きな大人で」
「許さない、……絶対許さない」
「うん、そうだね。――ごめんね」

 責め立てる言葉とは裏腹に、小さな手が死覇装の袖を弱く掴んだ。

 苦しいなぁ。


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