「乙子さんが重傷で四番隊に担ぎ込まれた時から一週間くらいは普通だった気がするんですけど……」
「ある日突然怒り心頭って感じで四番隊から帰って来たと思ったら、ずっと苛立ったままで……水月四席がいないから忙しいせいなのかって思ってたけど、どうもそうでもないみたいなんです」
「暫くはかなりの頻度で四番隊に通ってたのに、突然行かなくなったし……乙子さんの容態を聞いても何も教えてもらえないし……お見舞いに行こうって話をしてたらすごい剣幕で怒られて」
「阿近くんが上手いこと抜け出して乙子さんの様子見に行って、私達初めて乙子さんの怪我の様子とか知ったんです」
半泣き状態の隊士達の話を聞くに、どうやら私の意識が戻ったあたりから涅さんの様子がおかしくなったらしい。
ちょっと……いや何となく涅さんの異変の理屈は想像出来てしまったのだけど、俄かには信じがたいと言うか。私程度の存在には影響を受けないあの人の不変性を私は何よりも信頼していたと言うか。
色々な思考が頭を過ってうーむ、と顔が険しくなっていく。
まさかこんなことになるなんて思っていなかった。
どうしようか。
「……まぁ、悩んでも仕方がないか」
「乙子さん、本当に開発局行くんですか?」
「しばらくやめておいた方が……」
「大丈夫です、叩かれるのも怒鳴られるのも慣れてますから」
むん、とまだ少し引き攣る掌を握りしめて拳をつくってみせると、隊士達は不安げにしながらもほっと息を吐いてくれた。
局から戻ったら、彼らにも十二番隊を異動することをちゃんと伝えておかなければ。
運がいいことに私が倒れる前から引き継ぎの動きはあったし何とかなるだろう。
正しく願うことはできなかった
意外にも涅さんは局長室ではなく、研究棟の最浅部にある実験室にいた。他の部屋より比較的局員達の出入りが多い場所だ。
隊士達から聞いた通りに様子がおかしいのであれば局長室に籠もっているのではないかと思っていたのだけど、扉を開いたら最奥に白い猫背気味の背中を何よりも早く見つけてしまって思わず目を瞠ったものだ。
数週間ぶりの私の入室に局員達は隊士達とは違った動きで歓迎してくれた。人の顔や入れ替わりにあまり頓着しない人が多いと思っていたから、私の顔を忘れていないようで嬉しかった。
素直にそう言うと、「乙子さんじゃないんだから」と苦笑されてしまって、私も思わず微笑んだ。
私の後ろについてきていた東仙くんを指して「ここまで介護して下さった東仙くんです。開発局に用事があるそうですよ」と紹介すると、皆揃って「乙子さんがお世話になりました」と丁寧にお辞儀をしていた。一斉に頭を下げられ、東仙くんも勢いで会釈を返す。何だか面白い光景だった。
さて。
私が輪から外れ涅さんの方に足を向けた途端、局員の何人かが「乙子さん……」と戸惑うように声をかけてきた。
それを片手で制しながら、完全に私の存在を無きものにしている背中に「おはようございます、涅さん」と呼びかける。
反応は無い。
確かに少し、いつもと様子が違う、気がする。
あまりに長いこと病室にいたから、自分のなかにある『いつも』に自信がないけれど、こんなに完全に無視をされるのは初めてだ。
そっと一定の速度を保って歩み寄る。
「退院許可が下りましたので戻って参りました」
「―――」
「それでですね、以前お話した件なんですけど、引き継ぎが完了次第、」
予兆なく振るわれた裏拳に反応が出来なかった。
ガッという鈍い音が響く。
右側頭部に衝撃を受け、堪えきれずに踏鞴を踏んだ。「乙子さん――!!」「局長ッ」局員達の悲鳴を背に、ぐらぐらと揺れる頭を押さえて何とか踏み止まった。
今私が倒れたら、余計に局員や隊士達を混乱させてしまう。
涅さんは半身を翻したまま――私を殴った拳すらそのままの姿勢で、けれど金色の瞳が今度こそ私を正視している。
思わず口元が微笑むのを誤魔化せなかった。
涅さんは溜め息を吐いた。
心底疲労したように、嫌なものを見たように。
出会ったばかりの頃のように機械的な仕草で首を捻る。
「なぜまだ生きている?」
問いかけは単純だった。
きっとこの場では私と涅さんだけが解る疑問だ。
私は微笑みが張り付いたまま答える。
「四番隊の――卯ノ花隊長のお世話になったなら、タダでは死なせてはもらえませんよ」
「死にたいのだろう? この十二番隊は最早不要なのだろう? ならばなぜ戻ってきた? なぜ生きている?」
「……涅さん……」
「三度目を言わせる気かネ?」
蒼白くざらついた視界で再び涅さんが拳を振り上げるのが見えた。避ける必要も無い。
白塗りにされた拳が暗く見えるほどの距離まで接近し、今度こそ直撃すれば死にかねない殴打が直撃しようとする瞬間――黒い背中が私の前に躍り出る。
東仙くんだった。
思えば私がここまで直接的に涅さんに暴力を受けているのを見るのは初めてだったはずだ。
正義感が強い彼のことだ、きっと我慢ならなかったのだろう。
涅さんの拳を片手で防ぎながら、東仙くんは言う。
「やめろ涅。これ以上水月を傷付けるな。彼女はまだ怪我人だぞ」
「……はァ、誰かと思えば。随分上手くソレを手懐けたものだ。……が、上司が部下をどう扱おうが、余所者の君が口を出すことじゃア無い」
東仙くんの手を振り払った涅さんが「退き給エ」と低く唸る。
怒りの矛先が東仙くんに移りつつあるのは馬鹿でも判る。思わず「東仙くん」と呼びかけるけれど、彼は身を乗り出す私を制すると無言で顔を険しくした。
「……だから此処に水月を置いておけないんだ。涅、お前の下にいては彼女が潰れてしまう」
「ホウ、それで? その女は"十二番隊"に魂を捧げた隊士だヨ。潰れようが野垂れ死のうが本望だろう」
「――水月は私が九番隊に連れて行く」
ああ、と声にならない声が洩れた。
終わった、と思った。
私が終わらせるつもりだった。私は私の意志で十二番隊を離れるのだと、他でもない私自身に理解させる為に。
けれどそれももう叶わない。
だって、東仙くんの肩越しに見える涅さんの瞳が――ひどく冷え切って、色を失くしていく。
「つい先日、隊首試験の内定を受けた。翌月には私が九番隊の隊長となる。彼女にはそちらで席官を務めてもらう」
別に東仙くんが悪い訳じゃない。彼はあくまで親切心と正義心で、涅さんの暴力から私を庇おうとしてくれただけだ。
でも、それでも、これじゃあ―――。
「お前は水月を護らなかった。上官としてあまりに不足だ。例えお前が認めなくとも、水月は自らの意志で九番隊に来る。――潰れようが死のうがいい部下だ、何処に消えようと文句は無いな?」
自分で決めた箱庭の終わり。
そのはずなのに、どうしてか、まるで世界が跡形もなく消え去ってしまうような苦しさが胸の穴に這い寄って来るような。
今更になって悲鳴を上げる弱い自分を飲み込むように、そっと顔を伏せた。
東仙くんに目もくれず、私を只管見つめる涅さんが、どんな貌をしているかも判らずに。