意識が途絶える間際、忙しない足音が二人分、病室に侵入してきた。
 私の上に馬乗りになっていた涅さんが誰かに引き剥がされていく。焼けた肌が空気に触れてじくじく痛む、首を掴んでいた両手が離れていく――離れてしまう。喪失感に咳き込み喘いだ。
 彷徨う私の両手を抑え、耳元で「ゆっくり息をして下さい」と囁かれる。女性の声だった。ややあって、それが卯ノ花隊長の声であることに気付く。

 私の思いとは裏腹に、身体は勝手にその言葉に従って呼吸を再開するために喉を開いてしまう。
 軋む身体を丸めて咳き込んでいる間に、涅さんは山田くんが取り押さえてしまったようだった。

 肌を刺すような殺意をこちらに向けたまま、涅さんは頑として私から目を逸らさない。
 私も湿った目で涅さんの影を追った。私は今、どうしても、怒りで満たされた彼に殺されたかったのだ。
 ……なのに。

「お二人とも、そこまでにして下さい。…涅さん、水月さんは本来面会謝絶の重傷人です。このような殺人未遂を起こす為に、特別な入室許可を与えていた訳ではないことくらい、聡明な貴方ならわかっているでしょう」
「死にたがっているのはその女だ。私は部下の願いを叶えてやろうとしたに過ぎない」

 獣の唸り声のような低い声だった。傍らで私を支える卯ノ花隊長が、一瞬眉を顰めたように感じる。

「――事情は後で聞きましょう。ともかく、貴方がたが四番隊の管轄領域にいるうちは殺人など許しませんから、そのおつもりで」

 微かな溜め息交じりに卯ノ花隊長が厳しい口調でそう宣言する。
 四番隊を取り仕切る、護廷十三隊最古参のうちの一人である彼女には流石の涅さんでもそれ以上言葉を重ねるのは諦めざるを得なかったらしい。

 涅さんは答えなかったけれど、自分を取り押さえる山田くんの手を振り払い無言で踵を返した。白い背中が遠ざかっていく。
 今度こそ私は一人になる。

 ずっと昔はそれでよかったはずなのに、今は心身が楽になるどころか全身の疼くような痛みは増すばかりだ。
 絞められていた首が、焼け腫れあがった内臓が痛い。痛みにも苦痛にも人より強いつもりだったけれど、こんなに耐え難いのは初めてかもしれない。


 まるで身体の中心をごっそり抉り取られていったような。
 心臓は一度遠のきかけた生を取り戻そうと躍起になって拍動しているのに、おかしな話だ。馬鹿げている。

 ――一世一代の勇気を振り絞ったのに、結局殺してすらもらえなかったなんて。

今日の日に背いて


 卯ノ花隊長の計らいで、それから私は一週間、本当の意味での面会謝絶となった。
 義眼のこと、その他の事情を汲んで特別に入室を許可されていたらしい涅さんすら謝絶となれば、もう私の病室に立ち入れる者は誰もいない。

 四番隊の隊士達が皆甲斐甲斐しく看病してくれるので不自由はあまりなかったけれど、山田くんは相変わらず私の言われたくない言葉を率先して選んでちくちく刺しながら治療にあたってくれた。
 それが嬉しいような、嫌なような微妙な心地で奇妙だったことを覚えている。

 ……実際は全身の痛みが本格的に襲ってきて、鎮静剤やら痛み止めやらで意識が朦朧としていることが多かったから、ここ一週間のことはあまり正確には思い出せないのだけど。


 そうして面会謝絶の掲示が取り払われた日の午後。
 阿近くんが病室を訪ねてきた。

「あ、阿近くん。お久し振りです、十二番隊、ちゃんと仕事回ってますか?」

 恐る恐る扉を開けて顔を覗かせた阿近くんに、やっと固定器具の外れた右手を挙げひらひらと振る。
 数週間振りに見た阿近くんは、記憶しているよりも目つきが悪くなってしまっているような気がした。手を振る私から目を逸らさないまま、そっと病室に一歩、また一歩と踏み入ってくる。

 手を伸ばせば何とか触れられそうな距離にまで来て、唐突に阿近くんは足を止めてしまった。
 私はまだ一人で身動きが取れないので、そっと隻眼で阿近くんを窺い見る。
 そうして初めて、午前の白い光に照らされた頬が怒りとも恐怖とも知れない感情に引き攣っているのに気が付いた。

 あまりに険しい表情に彼を深く傷付けてしまったらしいことを思い知り、居ても立ってもいられず身を乗り出して黒く短い髪に触れる。
 子供特有の華奢な首の後ろに手を滑らせて、まだ私より小さな身体を抱き寄せた。

「……ごめんね、心配かけました」
「―――」

 阿近くんは何も言わない。私を詰りもしなければ、蔑みもしない。
 大人しく、私の包帯まみれの腕のなかで、小さく、不規則な呼吸をしているだけ。

 この身体が焼ける前、最後に触れた黒髪の感触を思い出しながら、やっと生きて帰って来たんだな、という実感が降って湧いたように現れた。
 微かに震える背中に手を添える。
 何も答えず、何も責めない阿近くんの子供にしては低い体温を感じながら、つかの間静かに互いの呼吸を数えていた。


* * *


「聞きましたよ。十二番隊を辞めるつもりとか」

 阿近くんが帰ったあと、卯ノ花隊長が入れ替わりで回診にやってきた。包帯を交換する時間だったのだ。
 特に火傷の酷い右半身の消毒をしながら、溜め息交じりにそう言われ、曖昧に頷いた。

「ええ、はい。辞めるつもりと言うか、退院したらすぐにでも異動願いを出すつもりです。自分で言うのもどうかと思いますけど、涅さんをすごく怒らせてしまったので異動自体は出来るんじゃないかと思ってます」
「……何もこんな時でなくても。水月さん、退院許可と完治は違うのですよ」

 曳舟元隊長と同じく、死神になったばかりの頃の私をよく助けてくださった卯ノ花隊長にも頭が上がらない。
 言われている意味は理解出来ているので、余計に得も言われぬ気持ちになって笑って誤魔化すしかなかった。

「貴方の場合は寛解です。その右目も経過観察と定期的な治療が望まれる重傷ですよ、ましてや"その右目"を造ったのが涅さんともなれば……」
「わかってます。……本当に、時期的には最悪なことは承知なんです。やっと十二番隊が持ち直してきて、仕事が回るようになって、査定もまだ済んでいないって言うのに私がここで抜けるのは十二番隊にとっては損害でしかない。それは理解しています」

 でも、と言葉を区切って息を吸う。

「もう私というモノは其処に在るだけで害を及ぼす災厄みたいなものになっているようですから。一所に留まるのがどれだけ危険なことか、私ったらここ数十年ですっかり忘れてしまってたみたいで。……思い出した時には、すべて遅かったですけどね」

 午後の日差し。決して綺麗とは言えない、無骨な鋼色の地下通路。扉を開けた先の、私を振り返って笑う呼び声たち。
 頭を押さえつける容赦の無い手。苦笑交じりに差し伸べられる大きな手。裾を引く小さな手。
 思い出しあわせの在り処。


「これ以上は、壊したくないと思って」


 引き攣る肌で微笑む。
 死神でいなければ生きられない。けれど死神でいるためには犠牲が生まれてしまう。
 それでも、犠牲ありきで生きていたくはない。

「……貴方は救われないとしても?」
「もとより救いがあるなんて思っていません。初めに『悪いこと』をしたのは私です。まだその罰を、受けていません」

 私を正しく罰してくれる人なんてこの世界の何処にもいないのかもしれないけれど。
 それが世界の仕組みで、真理なら、なればこそ私は死ななければいけないのだ。

 見るに堪えない表情を悟られたくなくて深く項垂れる。
 卯ノ花隊長は嘆息して、けれど包帯を巻く手は止めずに言った。

「この世に罪を犯さない人間などいません。貴方が今受けるべきは、罰ではなく治療ではないですか」
「身体のことなら、四番隊の皆さんと涅さんのおかげで――」
「水月さん、貴方は自分の心を蔑ろにしすぎる」

 ゆっくりと瞬きをして顔を上げると、卯ノ花隊長は白い布団に広がった包帯に視線を落としたまま、はっきりと私の欠陥を語る。

「今の貴方をそう・・形作ってしまったのは周囲の大人達です。誰もが貴方の特異性と過去につけ込み、口を噤ませ、時には非道な行いをさせたこともあったでしょう」
「……」
「惨い記憶と経験を傷と認識していながら、貴方はそれらから目を逸らすのが巧かった。痛むはずの傷を無視して生きた貴方の人生は、傷によって変質してしまっている。……今の水月さんが十二番隊から離れることに、何より貴方の心が耐えられないはずです」
「そうでしょうか。我慢強さには自信がありますよ、私」

 それに、心が耐えられないと言うのなら、水月乙子は浦原十二番隊が壊れたあの夜明けにとっくに死んでいるはずなのだ。
 幸福を奪われる苦しみも、私の息の根を止めるにはあと一歩足りない。
 だから今もこうして焼けた醜い身体で息をしている。

 ぎこちなく肩を竦めると、卯ノ花隊長は眉を下げて仕方がない子供を見るような目つきになった。

「……面会謝絶だった一週間、見舞いの花が来ていたことは知っていますか」
「はい、ありがたいです。七番隊の隊士達も来てくれたと聞きました」


「――綱彌代家の名が入った花束があったことは?」


 ぴくり、包帯に包まれた腕が震える。
 けれどそれ以上の感情を外には洩らさない。黙って瞼を閉じ、病室に入りきらず廊下に並べられた見舞いの花達の彩りを思い返す。

「……気付かなかったのなら僥倖です。麻酔で水月さんの意識がはっきりしていませんでしたから、私も面会謝絶を強く訴えることが出来ました」
「………どの花ですか」

 卯ノ花隊長はややあって「壁際に置かれた花蘇芳です」と静かに答えた。
 紅色の特徴的な形の花が窓越しに確かに見えた。

「裏切りと不信仰……」

 呟きながら、相変わらず暇なのかと勘繰りたくなるくらい耳が早い、とげんなりした気持ちになった。
 よくも"信仰"なんて言葉を含む花を選んだものだ。
 死神という存在が身近に存在する尸魂界には信仰や宗教といった概念はあまり耳にする機会がないけれど、信仰とは神の存在を信じ拠り所にすることではなかったか。
 拠り所と言うなら、よっぽど―――。

「……」

 ともかく、十二番隊を離れようとする私の動きをどこかで察知し、その行為を"裏切り"と批難しているのだろう。
 ……私の魂が擦り減って無くなるまで使い潰したい彼らにとっては、私を動かす材料が減ることは確かに不利益かもしれない。
 空虚な心地で紅色の花弁を眺めながら溜め息を吐いた。

「……すべてを打ち明ければ、違った道もあると思いますよ」
「そうですね。でも、そちらでは私の望む未来は勝ち取れない」

 私の望む最良の未来は、涅さんがこの先百年後も二百年後も今と変わらず十二番隊にいることだ。
 十二番隊が永遠に続いていくことだ。
 私がいては、叶わない。
 私が消えることでしか得られない最良が、確かにあるはずだ。

 そうだと深く信じることで、何とか生きている自分を一秒一秒許すことが出来る。

「……ありがとうございます、卯ノ花隊長。でも私、まだやれます」

 卯ノ花隊長は眉を険しくさせたまま深く深呼吸をすると、右腕を覆った包帯の結び目をぎゅっときつく結んだ。
 それがあまりに痛かったので、仕方なく笑った。


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