それは今まで聞いたことの無いほどに乾いた声。
思わず「冗談です」なんて、今からでも発言を取り消したくなってしまうくらい、温もりの無い声音だった。
けれど不思議と恐れは無かった。一度死にかけているからだろうか、緊張こそすれ射殺すような眼差しに震えは起きない。
私を見下ろす金色の眼差しには人間性が一切無い。本当に、一言でも言葉を発すれば殺されそうな雰囲気だ。
「なぜと言われましても……」
「理由も無くそんな莫迦げたことを言ったのか?」
「理由が無いわけでもないんです、ええと、映像庁との連携契約の締結をする時に私が言ったこと、憶えていますか」
涅さんは何も答えてはくれない。
私じゃあるまいし憶えていないことは無いだろうけど、いつまで待っても答えは返って来ないので私の方から記憶を辿ってまだ確かな記憶を舌に乗せた。
「十二番隊の重荷になるようであれば、と。今がその時だな、と私なりに腹をくくりまして……」
静かに微笑みながら告げると、顎を掴んでいた涅さんの手が離れていった。そうして初めて、涅さんの手が私よりも温かかったことを知る。
いつもは逆なのに、不思議だ。
「君が重荷かどうかを判断するのは君の所有者である私だ。水月乙子の所有者は私だ。君自身もそれを認めただろう」
「それはそうなんですけど、でも、私が重荷だと確信してからでは遅いんです。……ええ、もう遅すぎたくらいなんです」
殺意ほどの強さで
――私の言葉を遮るように、涅さんの両手が私の首に伸びた。
自然な動作で、指の一本一本がまるで独立した生き物のように火傷の残る皮膚に爪を立て、その力に負けた私は簡単に消毒液の臭いのする布団に逆戻りしてしまう。
与えられる肌の痛みと息苦しさとは対照的に、見上げた涅さんの顔は冷静でいるように見える。
無機質な瞳がじっと私の隻眼を見下ろしていて、この今までにない直接的な暴力が涅さんのどういう感情に起因するものなのかは一切読み取れない。
けれどその感情が私の言葉に因るものであるのなら、与えられるものが暴力であってもいいと思えた。
「そんな勝手は許可しない。君は死ぬまで――魂が滅びるまで、十二番隊に居るのだから」
「出来ません、ごめんなさい」
ぐ、と力の籠った親指が気道を圧迫する。
暴力では私を根本的に従わせることは出来ないというのに、どうやら涅さんはそう見えないだけで冷静ではないらしい。
突然の報告を怒られるだろうとは思っていたけど、まさかこんな風になるだなんて思っていなかったから、少なからず困惑させられてしまう。
そっと眉を下げた私に、涅さんは呪うような声音で囁いた。
「……君は恐怖の根源に立ち向かったように見せて逃げている。隊の為私の為などと笑わせるなヨ、君は不幸ありきの生に耐えられなくなって逃亡しようとしているだけだ。己を許すことも恨み続けることも耐えられないが故に、ただ考えることを止めただけの愚かな逃避。抗うことを初めから放棄しているだけの停滞だ、君のそれは」
「……逃避でも停滞でも、もう構いません」
「逃げる者には最早罪も罰も与えられることは無い。――気の遠くなるような責め苦の先に、もしかすればあり得たかもしれない許しでさえもだ」
「それでもいい、です」
「―――」
涅さんがついに絶句する。
臆病者で愚か者の私を一体何がここまで頑なにさせているのかと、困り果ててすらいるように見えた。
「私は、十二番隊が好きです。十二番隊の形だけじゃないんです、涅さんも、阿近くんも、みんなみんな、……ひよ里ちゃんも、……本当は浦原隊長だって大好きでした。でも、もう十二番隊には何もありません。みんな、いなくなってしまう」
「……」
「私が居るからみんないなくなったんです。私がもっと早く決断して、もっと早く此処を離れていれば。……涅さんだって、きっといずれ消えてしまうかもしれない。私は、…そんなのには、耐えられない。もう、誰にも居なくなってほしくないし、不幸になってほしくないです」
真心だった。本当に、十二番隊が好きだった。いつしか私にとっての十二番隊は曳舟隊長のいた十二番隊ではなくなっていた。
……浦原隊長がいて、ひよ里ちゃんがいて、涅さんがいて、私がいて、みんながいる、十二番隊が大好きだった。
それが跡形も無く欠けたことが悲しくて苦しかった。涅さんと二人取り残されたことが痛いくらいに寂しかった。
あの時の私は愚かだったから、何も守れなかったし、何も出来なかったけれど。涅さんにだけは迷惑を掛けたくない。私のせいで涅さんに苦しい思いをしてほしくないから。
全部言い訳かもしれない。涅さんの言う通り、ただ苦しさから逃げるための耳触りのいい方便かもしれない。
でもこれは間違いなく私の本心でもあるのだ。
離別だけが私の示せる愛だった。
そうだと信じていたかった。私にも愛があるのだと信じていたかった。
そして願わくば、……この愛を涅さんに肯定してほしかった。
涅さんの親指がぼこぼこと盛り上がった火傷をなぞっている。首を絞める手が恐ろしくないのは、きっと涅さんの手だからだろう。
そうして私は私なりに信頼を態度で示しているつもりなのだけど、涅さんはそれが不快なようでみるみるうちに眉を顰めていく。
「――私が、消えると?」
「……限りなく現実に近い、可能性の話です」
「浦原喜助のように、……私が?」
「私は……涅さんに、……いなくなってほしくない、です」
そう答えた瞬間、急に喉を押さえつけていた指に万力のような力が籠る。
私の募った思いの何かが涅さんの怒りを煽ったことだけは理解出来た。
「ごめん、なさい……私、さっき、嘘をつきました。……本当は私、死ぬつもりだった」
「――水月、もういい」
「死ねば、すべて丸く収まると思って」
「――もう、何も喋るな」
憎しみと怒りに満ちた、低い怒声。
涅さんが本気で私の首を絞め出したのがわかっても、私は大した抵抗もせずにただその瞳を見上げるだけだった。私の上に涅さんの影が降り、逆光になった金色の瞳だけが爛々と輝いている。
視界が段々と白んでいく。私を見下ろす一対の星だけになる。
「何も無い? ……いなくなってほしくない? 私があの男と同じ轍を踏むとでも? 浦原喜助のいない十二番隊には最早価値が無いと?」
「……っぁ、……」
「君がここまで愚かだとは流石に想定していなかったが、そうか。そうか――」
酸素を求めて喘ぐ私を見下ろす双眸はこの上なく冷ややかだ。
今までに聞いたことのない怨嗟を押し込めたような声で、けれど淡々と涅さんはそうか、と繰り返す。
やがて、水月、と名前を呼ばれた。
「そんなに死にたいのなら、今此処で殺してやる」静かな声で囁かれ、
「ああ。……貴方になら、いいです」穏やかな声で答えた。
本当に、それでいい、それがいいと、心の底から願った。
置いていかれるくらいなら、その手で殺してほしかった。もう二度と孤独を感じないように。もう二度と忘却を恐れないように。
残された貴方を失うことが私にとってどれだけ恐ろしいか、きっと貴方にはわかるまい。
握り潰される細い首。これでは呼吸困難の前に骨が折れるだろう。休むことの無い握力は、ただひたすらに私を殺すことだけに傾倒しているようだった。
冷えきった私の肌とは対照的に熱い指が首に食い込んで皮膚が裂ける。血が流れる。包帯を湿らせる感触は最期の生の証だ。
呼吸を止めて、その殺意と怒りを受け入れた。
感情に永遠はあり得ないと知っている。……だからせめて、私を貴方のなかに悪夢として残してほしい。
感情は幸福な思い出すらも歪め、くすんだ過去へと消耗させるから。どうせ劣化してしまうなら、最初から最悪な過去として在りたかった。
耳の奥で残響する雨の音と、誰かの泣き声が、
ようやく、止みそうだ。