ごとん、と水月乙子の身体が地面を転がった。
 あちこちに付着した鱗粉が連鎖的に爆発し、あちこちに酷い火傷と裂傷を負った。ただ見た目ほどの威力が無かったのか、四肢が吹き飛んだだとか内臓が飛び出したとか、そういう怪我は無いようだった。
 それでも爆発の衝撃で内臓は腫れ上がり、肌は焼け爛れ、おまけに右目がまったく見えなかった。どうなっているのかはわからなかったけれど、爛れ腫れあがった皮膚を血なんだか涙なんだかわからない液体が絶えず伝っていくのだけがわかった。

 うつ伏せに倒れ込んだまま身動きが取れない。
 爪先に力を籠めただけでも、胸元からゴロゴロという嫌な音が響いてきて呼吸を遮ろうとしてくる。

 あんなにも恐れていたはずの死がこんなに間近に迫っても、まるで麻痺してしまったかのように何も感じない。
 沢山のものを犠牲にして生きてきた。死ぬのだけは嫌だと、自分以外の沢山のものを踏みつけにして今日まで生き延びてきた。

 だからきっと私は最後まで醜く藻掻き、愚かに逃げるべきなのに。
 こんな時にすら、なにも感じられない。
 本当に心が死んでしまったみたいだ。


 もう、それもどうでもいいけど。


 狂気に敗け、空ろな死の気配に身を委ねて瞼を下ろそうとする。
 呼吸ははじめから穏やかだ。
 もう誰の顔もはっきり思い出せない。沢山の未練に足をとられていたはずなのに、本当に血も涙も無い、薄情者―――。



 そのとき、額を覆っていた髪を持ち上げる指の感触がした。

 冷たい指が焼けた髪を払う。
 やがて露わになった私の顔を覗き込んだのは、涅さんの瞳だった。

「水月」

 感情の読み取れない鏡のような双眸で、涅さんはふいに私の名前を呼んだ。
 それに応えようと思ったけれど、身体はどこも動かなかった。私はただ、見える方の目で涅さんの目をなんとか見返すだけだ。

 何も言わない、何も応えない私を数秒見下ろしていた涅さんは、私の肩を掴むとごろりと丸太でも転がすように私の身体を仰向けにした。
 その拍子にすぐそばで水溜まりを踏んだような水音がして、たぶん私はどこかから激しく出血していて血溜まりを作っているんだろうとわかった。

「水月」

 もう一度涅さんが私を呼ぶのが聞こえる。
 涅さんは相変わらず私をじっと見下ろしていた。仰向けになったおかげで、その顔が幾分かはっきりと見えるようになった。
 爆発の余波で漂う煙でくすんでいるけれど、涅さんは何だかきょとんとした顔をしているように見えた。
 そのおよそ人らしい機微の削ぎ落とされた、爬虫類じみた眼差しがひどく懐かしく思えて、私は焼けて引き攣る皮膚を動かして微笑んだような気がする。実際にどうだったかはわからない。

 そういえば、どうして涅さんが此処にいるんだっけ? これは死にかけた、もしくは既に死んだ私が見ている幻覚なんだろうか?


 そんなくだらない思考は、再び集まってきた虚の咆哮に打ち消された。
 地面を振動させる足音と咆哮は、この上なく私に目の前の涅さんが現実の存在であることを思い知らせてくれた。
 そうと判っても、涅さんが現世に、私のそばにいることは不思議だったけれど。
 だってまるで、涅さんが助けに来てくれたみたいじゃないか。


 涅さんは私から視線を逸らさないまま、右手で斬魄刀の柄を握る。
 すらりと抜かれた白刃が、木々を燃やす炎の赤を反射して、綺麗だ。

「卍解――『金色疋殺地蔵』」

 最期に見た光景がこの人の姿だなんて、私の死は完璧すぎる。
 悲しさと寂しさが灰になって、冷たい双眸は私だけを見ている。

 ……ほんとうに、きれい。

いたみだけがうながす


 蒼く蠢く海に赤い血を敷き詰めた上に、その女は転がっている。
 いつも綺麗に結われ、風に揺れ微かに花のにおいをさせていた髪は焼け焦げ、爛れた肌はまるで腐った果実のようだった。

 見た目だけは儚く美しいものを寄せ集めたような女は見る影も無い。焼死体。放っておけば勝手に死ぬだろう焼けた身体がそこにはあった。
 どれほどの罪を重ねればこんな死に方になるのか。記録としてしか知らないその女の人生を思い返し、思わず溜め息を吐きそうになる。
 この女の罪深さに炎を伴った喧しさは相応しくない、と思った。


 より孤独で、より静謐な、暗い海底で溺死するのが似合いの結末だ。
 酸素が尽き、息苦しさに悶え、後悔を最期の一滴まで絞り出してから死ねばいい。


 名前を呼ぶ。悍ましいことに口に馴染んだ名前を声に出す。
 女は応えなかった。喉が焼けているのかもしれなかった。
 代わりにこちらを潰れた隻眼で見上げ、薄く微笑んだように見えた。
 その微笑みに何も感じなくなっている自分に嫌気が差す。炎と血の腥さに中てられ、一時的に気が狂ってしまっているのだろう。

 刀を抜いた。
 あの薄気味悪い笑みに文句の一つをつけてやるまで、この焼けた女に死なれては困る。
 理由はそれだけで単純だった。それ以上も以下も無い。
 水月乙子を生かそうとする理由はそれだけだった。


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