「――局長!」

 もうすっかり口に馴染んだ呼称を荒い息と共に吐き出す。
 重い鉄扉を開け切る間さえ惜しくて、ほんの少し開いた隙間に身体を滑り込ませると、鬱陶しげに真っ白な背中が振り返った。
 廊下から差し込む光に顰められた黄金色の双眸が、肩を上下させる俺に呆れている。
 もう一度「局長」と、機械のように呟いた。

「何かネ? お前にしては珍しく騒々しい。急な依頼は受け付けないと先日触れを出したはずだが」
「――いま、救援に向かった隊士から、断界内に複数の虚がいると報告が、入りました……!」


「……何だと?」


 思い浮かべるのは恐らく同じ、つい四半刻前に此処を出て行った眼鏡の女隊士。翻る長い髪、淡い微笑みが脳裡を過る。
 白く細い指が髪を梳く感覚が嫌にリアルに蘇ってきて、背筋がぞわりと粟立っていった。

 局長が一瞬にも満たない静止を振り切り、正面の一番大きなモニターの内容を切り換えた。
 画面は俺にも見覚えがある。地獄蝶無しで断界を渡る手段を開発出来ないかと、最近開発局全体で研究に着手し始めたばかりだったから。

「どういうことだ、断界に虚だと?」
「救援に向かった第二陣……十一番隊と七番隊の隊士から同時に報告がありました。俺も、その通信内容は聞いていたので、確かな情報です」
「……、……第一陣は」
「断界内に霊圧が無いことから、恐らく既に現世には着いていると思われます」

 第一陣と言っても、先んじて救援に向かったのは乙子さんただ一人だ。乙子さんが穿界門を通過するところまでは技術開発局でも観測が出来ていた。
 ただそれ以降の様子が――。

「現世への監視システムが、救援の示す座標を中心におよそ3000間の範囲で死んでいます。……復旧は既に始めていますが、完全復旧はいつになるかわかりません」
「……」
「――現地で戦闘中の七番隊隊士7名、および単独で先行して救援に向かった乙子さんの安否は、依然不明……」

瞳の青をもっと酷い物に喩えたいのに


「全く――あの女は一人で現世に行くと必ず問題を起こす呪術にでも掛かっているのか?」

 思いのほか、部下の安否不明という言葉に対する局長の反応は薄い。ただ忌々しげに眉を顰め、本人には届かない嫌味を吐き捨てる。

 十数年間、これだけは変わらなかった、俺の知る十二番隊の確かなかたち。俺はこの十二番隊しか知らない。
 だからきっと、……嫌味と罵声に苦笑する上司の片割れの不在に心をざわつかせられてしまうのも、仕方がないことなのだ。

「阿近。一応お前の意見も聞いておくが、技術開発局副局長としてどう思う?」
「……虚の断界への侵入と、現世の映像監視システム障害を、ですか」
「それ以外に何がある?」

 思考の遅延を隠すために口をついて出た意味のない言葉に、局長は顔を更に顰めてしまった。この人が余計な言葉遊びを嫌うのは昔からだ。
 巨大なモニターが発する青白い光に照らされて、白く塗られた顔は余計に化け物じみて見えた。
 その"いつも通り"を網膜に焼きつけながら、急速に脳から感情的な思考を廃していく。

 ――でも、思い返してみればこうして感情と思考を分離させるのだって、乙子さんを見て覚えた術だ。
 どれだけ切り離そうとも、俺を人として再構成した要素として大きすぎるあの人の微笑みが底に在った。

「……虚の断界への侵入は前代未聞だし、現世の監視映像通信を妨害されるのもここ十数年で初めてだ。この二つが重なる言い訳にするには、偶然は大分弱いと思います」
「そうだろうとも。断界の件はともかく、監視映像システムの問題は確実に人為的な攻撃だと見て間違いないだろう。さもなくば、私が手ずから統べる管理体系が故障する訳が無いからネ」

 「……一体誰が……」思わず心のうちから疑問が洩れる。
 身内贔屓を無しにしたって、局長が再編成したシステムに瑕疵は無かったはずだ。あの乙子さんをもってしても「血も涙も無いですね」「無慈悲過ぎます、私が現世の人間だったら泣いて人権を盾に訴えてますよ」とまで言わしめたほどの監視体系だ。
 内部犯である可能性は極めて低い。局内部で尸魂界に対する謀反ともとれる行動に出れば、俺達『巣』出身の奴らは確実に『巣』に送り返され二度と日の目を見ることが叶わなくなるか、叛逆行為を理由に処刑されるかのどちらかだからだ。
 そして何より、局長の支配下にある此処でそんなことをすれば、事件が起こる前に局長に足跡を追われ気付かれる。

 そうなると犯人は技術開発局及び十二番隊の外の者になる訳だが、これも心当たりがさっぱり無い。
 今の瀞霊廷では尸魂界に張り巡らされた監視・管理システムのほとんど9割を開発局が運営している。他所の隊士では、技術的にも設備的にも不可能だと言わざるを得ない。


 でも、じゃあ、一体誰が、何が、どうやって、何のために?


 局長も同じことを考えているようだった。
 一切止めることなく手を動かしながら、無言でシステムログと管理設定に目を凝らしている。

「……穿界門と断界自体は生きているのだろう? 野蛮人どもには虚を斃して現世にそのまま向かえと伝えろ。現状こちらで断界の管理までは不可能だ、無念なことだヨ」
「了解です」
「監視映像システムを先に復旧させる。私はこちらに専念するから局にやって来る話の分からん凡人共は一人も通すな」
「……はい」

 今、十二番隊の指揮権を持っているのは局長だ。だから俺はその指示に従う。局長の言う通りのことを終えたら、俺も部屋に戻って復旧の手伝いをするつもりでいた。

 再び重い鉄扉を開こうとした俺に、背後から局長が「それと、」と珍しく言葉をつけ足そうとする。
 すぐに振り返ったけど、局長はこちらを見てはいなかった。

「救援第二波には『十二番隊うちの四席は会話が可能な状態で必ず連れ帰れ』と伝えておけ。別に他のどこが欠けていても構わんが、面倒事ばかりを持ち込んで来る迷惑っぷりには一度文句をつけなければ気が済まないからネ」
「……必ず伝えます」

 溜め息交じりに預けられた、嫌悪らしい、けれど単純な嫌悪ではない何か。
 開口一番に気味が悪いだなんだと酷いことを言う局長だけど、帰って来ない、戻って来ないものには罵声の一つも届かない。
 それを思い知っているから、遠回しな「生きて帰って来い」が口をついて出たんだろう。
 俺も、……乙子さんにはまだ教わっていないことが山ほどある。字だって、まだ及第点すらもらえていない。
 まだ死なれたら困る。何かあっては困る。あの人が此処からいなくなったら、困る。


 それが、十二番隊に残された絆だった。
 それだけが、副局長・・・と四席の唯一不変の繋がりだった。


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