穿界門を抜けた先には断界がある。
 ここを安全に通ることが出来るのは地獄蝶を連れた死神のみだった。だから現世に向かう際には必ず飼育部署へ地獄蝶を引き取りに行き、それから開錠しなければならない。
 ……急いでいるときは余計に、その一連の手続きに焦りと苛立ちが募る。

「こんな風に飛び出してくるのは珍しいですね。乙子さんが一番乗りですよ、現世への救援」
「ええ、まあ。七番隊には恩があるので」

 頷きながら、飼育員が連れてきた一羽を引き取る。あとは穿界門を潜るだけだった。
 彼女が言った通り、私の他にはまだ救援に向かう死神の姿はない。確かに普段では考えられないくらい瞬歩を多用してここまで来たけれど、そんなに早かっただろうか?

「……きっと今に警報を聞きつけた十一番隊の猛者達が殺到しますよ」
「そうでしょうね。――では水月四席、お気をつけて」
「ありがとうございます」

 一礼し、穿界門の暗闇へと駆け出した。
 断界の暗く重苦しい空気は何度足を踏み入れても慣れない。現世に行くにはどうあっても断界を経由しなくてはならないから文句は言えないけれど、これでは新人なんかは現世任務の前から余計に緊張してしまうだろうに。
 
 道も半ばというところで、ふと、何か重いものを引き摺るような音が聞こえたような気がした。
 それはまるで遅く、緩慢な足音のようにも思えた。

「―――」

 足は止められない。何せ急いでいる。
 けれど断界のなかで自分以外の存在を感じることがどうしても気にかかって、意識だけで周囲を探る。……結果、何もわからなかったけれど。
 拘突ならばとっくのとうに姿を現して私を轢き潰しに来ているだろう。そもそも今日は拘突の出現周期には入っていないはずだし。

 何だろう。さっきから"何か"が引っかかるのに、その"何か"を上手く言語化出来ない。
 帰ったら、涅さんに訊いてみようかな。
 意味のわからない話をするなと怒られてしまいそうだけど、最近局員から断界の分析にも手をつけはじめたと聞いた気がするから、きっと渋々取り合ってはくれるだろう。


 そう思いながら、暗闇の果てを目指して走り続けた。


* * *


 現世の地に降り立った瞬間、嫌な焦げ臭さが鼻をついた。
 思わず腕で鼻を覆って目を細める。静かに周囲を見回すと、辺りの木々や地面にところどころ焼け焦げたような痕跡があった。明らかな戦闘の痕跡だった。
 更に意識を研ぎ澄ませると、かなり近い付近に微弱な霊圧が複数人分微弱に揺れていることがわかる。救援を出した七番隊の隊士だろう。

 佩いた斬魄刀に手を添えつつ地面を蹴った。
 ほどなくして、巨大虚の爪を懸命に斬魄刀で受け止める隊士を視界に捉える。今にも破られそうな拮抗状態に横槍を入れてやるべく、詠唱破棄で縛道を練り上げた。

「――縛道の三十『嘴突三閃』!」

 私の声で振り返った隊士のすれすれを三つの嘴状の縛道が奔っていく。それらはすぐに虚の両手と胴を地面に縫い付けた。
 けれど急ごしらえの詠唱破棄だったせいか、数秒もしないうちに拘束がギシギシと軋みを上げ始める。虚が縛道を破って再び襲い来るのは時間の問題だろう。
 前線が久しぶりだからって、加減が鈍ったんだろうか。
 小さく溜め息を吐きながら構えを解くと、「あ……水月四席……!」とか細い呼び声が鼓膜を震わせた。

「はい、水月です。救援に参りました。よく持ち堪えましたね」

 こちらを振り返って安堵の表情を浮かべる隊士の背後で、縛道に拘束されている虚がけたたましく叫んでいる。
 救世主でも前にしたかのような眼差しにちょっと苦笑しつつ、左手を上げ手のひらを虚に向けた。「破道の六十三『雷吼炮』」薄暗かった周囲が一瞬で雷の光に照らし上げられる。
 轟音と共に放たれた破道は一撃で虚の頭を消し飛ばし、残った胴体が灰のように脆く崩れていった。

「……それで、状況は?」
「は、はい……! 討伐任務に七番隊隊士複数名を連れて現世に来たのですが、すぐに複数の巨大虚に囲まれて……!」
「他の隊士は?」
「すぐ近くに鏡門を張っています。まだ任務経験が浅い者が多く、負傷者も多数……」
「承知しました」

 ふと血の気のない隊士の顔を直視する。そうしてやっと、彼が比較的最近席官入りを果たしたばかりの男の子であることを思い出すことが出来た。
 何度か資料室で世間話をしたこともあった気がする。戦うよりも事務仕事の方が好きなのだとひっそり語った、気の弱そうだけれど優しげな笑顔が朧に蘇る。

 きっと部下の負傷で焦っただろう。引率が自分だけである状況に血の気が引いただろう。
 瀞霊廷内を移動中に流し聞いていた警報の続きには、席官一名を除き全員が真央霊術院を卒業したばかりの新人であることが含まれていた。
 決して短くない時間鬼道に霊圧を割きながら、同時に周囲の虚に立ち向かう。蒼白な顔色を見れば、彼が疲労困憊なのは一目瞭然だった。
 まるで昔の私を見ているよう、と覚えてもいない過去の自分に対する回顧みたいなものが胸の底から湧き上がってくるようだ。

罪悪と呼べばよろしい


「――それにしても妙ですね」
「え……?」

 空海月を抜きざまに意識だけで周囲をぐるりと見渡す。微弱な隊士達の霊圧を塗り潰すように、点々としていた虚の濃い霊圧が此処に集まりつつあるのが感じられた。
 私が現着してから、周囲に疎らだった虚の霊圧が明らかに此処を目指して集まってきているのが、嫌でも理解出来る。

 普通、相手が死神と判れば虚がおいそれと近寄ってくることは無い。虚にとって死神は天敵だ。相当力に自信のある虚であればわかるけれど、こんなに数の多い虚が弱っているとはいえ複数の死神を襲いに来ることなんて、聞いたことも無い。
 まるで示し合わせたかのように、視えない何かに操られるように群がって、私達のもとへ。

「席官付きとは言え研修にこんな魂魄が少ないだろう僻地が選ばれるのは妙ですし、そんな場所で示し合わせたように虚が集くのも妙な気がします」

 何故餌の少ない場所に虚が群れ固まるのか?
 この場所が重霊地というならともかく、ここら一帯はごく普通の土地だと記憶している。示し合わせると言ったって、奴らにそんな知恵があるとも思えない。
 もちろん、それなりの知性を有した虚が存在することは承知しているけれど、虚は基本的に単独で魂魄を襲う。群れを作ったり、他の虚と協力して獲物を狩るなんてほとんど例がない。
 なら誰が、何が、どうして、何のために?


 ……ああ、駄目だ。頭がこんがらがる。


「――よし、少し後退して負傷している隊士達と鏡門の維持に専念して下さい。虚の群れは私が相手をします」
「水月四席……」
「直に追加の救援が来るはずです。それまでは絶対に私が保たせますから」

 全て斃す、と断言出来ないのが実に情けない。
 以前現世で戦った時は豪雨の中だった。水の多い場所は空海月をより広範囲に展開しやすくなるためかなり有利だけれど、今は水気などどこにも無い、人口地からかなり離れた空き地。
 そびえる大木達と吹き荒ぶ風のせいで私自身の視界がかなり悪く、そうなると以前のように空海月無双、とまではいかなくなる。
 すべて、私自身の戦闘技能と経験値がものを言う。

 おまけに背後には庇わなければいけないものがあるし、鏡門だってそう長くは保つまい。
 同じ状況で私一人だったなら空海月の触手と毒でどうとでもなるけれど、今回に限ってはそれでは駄目なのだ。

 それでは、私がいの一番に駆けつけた意味が無くなってしまう。

「七番隊には恩を返しに来たんです。あんまり残念な戦いをしたら、あとで千鉄さんに怒られてしまいそうですしね」

 頼りになる気丈な七番隊副隊長の名を出すと、やっと七番隊の彼はほんの僅か強張った表情を緩めてくれた。それに微笑み返し、今度こそ正面に向き直る。
 木々の隙間、影に無数の白い仮面が浮かび上がっていく。十を超えたあたりで数えるのが馬鹿馬鹿しくなって止めた。

 現世に出て前線に身を置くのは何年振りだろうか。
 首の後ろがじりじりと焦げるような心地がする。短く息を吸って、吐いて。


「揺蕩え―――『空海月』」


 解号と同時に、一呼吸で空海月を抜き放った。


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