「失礼します、水月です」

 珍しく手ぶらで開発局を訪れた私に、局員の何人かが「乙子さん」「こんちわ〜」と大変ゆるい挨拶を返してくれた。
 一つ一つに応えながらきょろきょろ周囲を見回すと、近くにいたニコちゃんが「局長ですか?」と問いかけてくる。

「そうなんです。提出が午後までの書類、私の判子も要るんですけどお忙しいみたいでなかなか返って来なくて」
「あー……局長、確か今日で三徹目だったような……」
「相変わらず不健康路線まっしぐらですねぇ」

 恐らく局長室にいるだろうとのことだったので、お礼を言って研究棟の奥へ進んでいく。
 慣れた足取りでほの暗い廊下を歩いていくと、局長室に明かりが灯っているのが見えた。控えめに扉を叩く。

「涅さぁん、水月です。週の頭にお渡しした在庫表と材料経費、午後までの提出なんですが」
「そこの棚の上にまとめてある。勝手に持って行き給え」

 きっぱり言われてしまったので、「失礼します」と断って重たい扉を開いた。
 目に悪そうな機械や電子機器の立ち並ぶ室内には涅さんだけがいる。こちらを一瞥もしないまま、私に対して嫌な顔をすることすら忘れているようなので、本当に忙しいらしい。
 邪魔しては悪いと思いつつも、決して書類回収の為だけに来た訳でもないので、申し訳なさを堪えて「涅さん」と白衣の背中に声をかける。

「未出荷表と残高表、計算してみたら合わないんです。一応こっちでも再計算しますけど、局の方でももう一度確認してもらってもいいですか? そんなに急ぎじゃないので、今抱えてるお仕事がひと段落したらで大丈夫ですから」
「……週末に」
「いやいや週明けで充分間に合いますよ。酷い顔です、涅さんらしくないです」

 顔だけで振り返った涅さんの、お化粧で判りづらいけれど明らかに疲労の滲んだ相貌に思わずこちらが眉を下げてしまう。
 何と言うか……前局長と違ってブレーキが無いように感じる。いつもの涅さんは自分の限界をしっかり理解しているから決してこんな風になるまで無理はしないはずなのに。

 局長と隊長をこれから兼任する、という環境の変化につられ、いつものペースを見失ってしまっているのかもしれない。
 本当に珍しい、と思う反面、こうして局の奥に籠られては止めることも出来ないので心配が大きくなる。
 そっと歩み寄り、青白い光に照らされる顔を覗き込むと、私を見下ろした涅さんの手が私の頭をぎゅっと押さえつけてきた。

「君にだけは言われたくないヨ」
「あいた、いたっ、涅さん痛い、そんな毬みたいに」

掌は忘れてくれない


 涅さんは今日の終業まで局長室に籠るらしい。
 あのまま放っておくと本当に睡眠も食事もしないまま、翌朝局長室で変死体を発見しそうな雰囲気だったので、急ぎの仕事を片付けた私は一旦食堂の厨房にお邪魔して片手で食べられる軽食を用意することにした。

 お昼時は邪魔になってしまうので少し時間をずらして、お米を炊いて、簡単なおにぎりを握る。あとは食べてくれなかったら局員にでもあげようと卵焼きを焼いた。
 不味くはないと思うんだけど、涅さんの舌に合わなくて酷評されたら悲しい。思えば涅さんと一緒にご飯を食べたことが無いし、彼の好みもよく知らない。
 私、涅さんのこと何も知らないんだなぁ。

 そんなことを思いながら、再び開発棟の最奥に舞い戻る。
 お皿におにぎりと卵焼きを乗せて入室すると、今度は机に向かっていた涅さんがきょろりと爬虫類じみた瞳をこちらに向けた。

「何の真似だネ?」
「涅さん、忙しくて今日も食事を摂られそうにないと判断したので、勝手に用意しました」

 ことりと目の前にお皿を置く。涅さんの目がきょろきょろと私の顔とおにぎりを見比べて忙しない。
 私が室内にいることによって不快度指数が高まって食欲が失せる、とか言われたら退室しようと思っていたけど、特に何も言われなかったので机の側に立って様子を見ることにした。ちなみに局長室に椅子は一脚しかない。

 お仕事の邪魔をしないように黙っていようと思っていた。
 静かに瞼を閉じ、紙の擦れる音、衣擦れの音、涅さんの小さな息遣いを数えていると、不意に涅さんが「最近、他所の席官に尻尾を振っているそうじゃないか」と言い出した。
 他所の席官、尻尾を振る、と言えば心当たりは東仙くんくらいしか無かったので、目を開き肩を竦ませる。

「尻尾って、ひどい言い方ですね。私と東仙くんは至って健全で真っ当な仲ですよ。上下の関係もありませんし」
「どうだか。君は節操がないからネ」
「せっ……さっきからひどいですよ」
「君の何もかもは私の所有物であり十二番隊の資源だと言ったのをもう忘れたのか」

 きょとり、と瞬きをする。涅さんがあまりに当然である風にそんなことを言ったので、一拍理解が遅れた。
 そりゃあ、言われたことは逐一メモしているしまだ覚えているけれど。そう何度も所有権を主張されると居心地が悪いやらむず痒いやら。

 じわじわ口角を上げながら、手持ち無沙汰で髪の一束に指を差し込んで目を伏せる。
 いつの間にか涅さんはお仕事にひと段落つけていて、置いてあったお皿から一つ目のおにぎりを取っているところだった。とりあえず拒否はされていないようで何よりだ。

「……正直、私が私のものであったことが今までの人生ほとんど無かったので、そう断言されるのは居心地が悪くもあり、嬉しくもあり、です」
「使えるモノを有用に使うには相応の頭脳が要る。付け加えると、君は放っておくと一人で勝手に破滅するからネ。その理由が実にくだらないから余計に手に負えない。よって私が所有権を持つのは至極当然のことだヨ」
「そうですね、そう思います。――そうだったら、嬉しいです」

 今度は涅さんが動きを止める番だった。
 はた、と手を止めて私を見る。眼鏡のレンズ越しに金色の双眸と視線を合わせる。私には無い"不変"がそこにあって、私はつかの間の安息に小さく息を吐いた。

 ああ、言わなければ。伝えなければ。
 私はもう此処には居られないことを、此処に居てはいけない存在であることを、貴方に害をもたらすモノになってしまったことを――


 ―――ガンガンガンガン!!!


 突然鳴り響いた警報音に小さな呼吸が掻き消される。
 お互い口を閉ざし、告げられる警報の内容に耳を澄ませた。

『緊急警報!! 緊急警報!! 現世にて任務中の七番隊隊士より救援要請有り!! 手空きの席官は救援へ向かって下さい!! 場所は――』

 警報が目的地まで言い終えるのを聞き届けると、私は踵を返し扉へと早足に歩き出した。
 涅さんが「水月」と呼び止めてくる。珍しいな、と小さく思いながら振り返りざまに「行きます」と答える。

「覚えていますか、以前の記憶と感情を反転させる虚の事件。あの時、うちの隊士を助けてくれたのは七番隊の隊士でした」
「恩を返す、と?」
「はい。隊長不在の今、これ以上の被害を受けるのは七番隊には酷です」

 じっとこちらを見つめる涅さんの眼差しに、ふと微笑んで頷いた。

「それに、借りは返すに越したことは無い、……ですよね?」
「……行き給え」
「ありがとうございます」

 しっしと手を振る上司に一礼して、瞬歩で開発局を後にした。


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