涅さんにも注意されたことだし、と久しぶりに食堂に顔を出してみることにした。
 私を見つけて声をかけてきてくれる後輩達の誘いを丁寧に断り、壁に掛けられた献立表を見て腕組をする。

 食事をしに来たのは確かなのだけど、料理名を見てから自分がそれを食べる姿を想像しても一向に食欲が湧かなかった。
 勿論、食堂の料理が不味い訳では無い。こうなる前はお昼に食べられるほかほかの白いご飯が楽しみだったはずだ。
 ここまで来て「やっぱりやめた」なんて言って帰ったら、下手をすれば詰所にいる隊士達に追い返されてしまうかもしれない。最近の彼らは本当に私の健康状態について口うるさいのだ。

 ――と、背後から右肩を掴まれる。

「……あら。東仙くん」
「やっぱり水月か。食堂で見かけるのは久方ぶりだったから、よく似た別人かと思ったよ」

 微苦笑を浮かべた浅黒い肌の朋輩の軽口に微笑み返した。
 確かに、以前は一緒の席で食事を摂ることもままあった。今では私が食堂に寄りつかなくなったのですっかりその機会が無くなってしまったけれど、その記憶のいくつかは思い出すことが出来る。

「食べたいなぁって思えるものが無くて。ここまで来て決意が揺らぎそうだったところです」
「そうか。最近は気温も高いからな、食欲が失せる気持ちは解る」

 言いながら、東仙くんはそうだな、と顎に指をあてて数秒思案するような仕草をする。

「うどんはどうだ? おろしにすだち」
「あ、いいね。……それなら食べられそう」

 毎年ほぼ確実に入ってくる夏季限定のすだちと大根おろしの冷うどん。もうそんな時期だったのか。
 忙しさにかまけて、時間の経過を考えることを止めてしまっていた。……あれからどれだけの時間が経って、どれだけ私が停まったままでいるかを実感するのが怖かったのかもしれない。

 東仙くんがさっと前に出て、私の分も冷うどんを注文してくれた。
 受け取りの列に彼と並びながら小さく息を吐いて、吸って、吐いて。

待ち人は来ぬものなれば


 うどんの器が載ったお盆を持ち、東仙くんと向かい合わせで席に着く。どうやら私が完食するのを見届けるまで席を立つ気はないらしく、彼は「頑張れ」と言って割り箸を割った。
 私もそれに倣って割り箸を割る。麺を何本か箸で摘まみ上げると、すだちの爽やかな香りがした。白く太い麺を口に含んで、適当なところで噛み切る。もう一口、噛み切る。もう一口、もう一口。

「……よかった。食べられそうだな」
「うん。意外と平気」

 私が不調を訴えないことを確認すると、東仙くんも自分の分のうどんに手をつけ始めた。

 九番隊は例の事件の被害が最も大きかった隊だ。
 調査隊として派遣されていた隊長格二名に加え、上位席官のほとんどが巻き込まれる形で死亡した。運良く生き残ったのは東仙くんだけだったと言う。
 ……そういう訳で、東仙くんには勝手に負い目を感じていて、しばらくは真っ直ぐ顔も見れない日が続いていた。
 盲目の彼がそれに気付いていたかどうかはわからないけれど、少なくともこうして食事を共にするということは、やはり私の罪悪感は独り善がりだったということだろうな。
 あまつさえ気を遣わせてしまって、私はなんて駄目な死神なんだろうと自己嫌悪が肥大化する。……苦しいのは私だけじゃないのにな。

「最近はどうですか? ……少しは落ち着いた?」

 首をもたげてくる暗い気持ちを誤魔化すように顔を上げる。ここ数か月は自分がそう訊かれてばかりだったので先んじて質問してみた。
 東仙くんは啜ったうどんを飲み込んでから「そうだな」と頷く。

「以前よりは。京楽隊長が大分気を遣って下さっているから、何とかなっているよ」
「そっか。そうよね、十番隊はまだ隊長不在のままだものね」
「穴が多すぎて逆に埋もれてしまった感じだな」

 そうよね、と納得すると同時に京楽隊長の懐の広さに感服する。自分も副官を失っているのに、他所の隊も気遣える。
 普段は少し緩い優男の面が表に出ているけれど、あの人は私達とは比べ物にならないくらいの時間を死神として過ごしているのだ。こういう言い方は好きじゃないが、そういう強さが羨ましい、と思ったことも無くはない。

 それから黙々とうどんを食べ、食後の温かいお茶に口をつけていると、東仙くんがふいに「隊長不在と言えば」と切り出してきた。

「うん?」
「隊首試験を受けることになってな」
「……あら」

 ぱちりと瞬きをすると、東仙くんも湯飲みから口を離してこちらに顔を向ける。

 護廷十三隊の隊長に昇進するには、「隊首試験の合格」「他隊長からの推薦」「現行の隊長を一騎打ちで打ち倒すこと」という三つの条件のうちのどれかを満たす必要がある。
 九番隊の人事の選択肢としては他所の隊から実力のある席官を新しい隊長格として受け入れるか、隊の中から昇進する者を決めるかの二択があった。恐らく隊の中でもかなりの議論を重ね、最終的に後者を選ぶことで意見がまとまったのだろう。

「藍染隊長が推薦して下さったんだ。月が変わったら試験を受けて、結果次第では――」
「東仙くんが九番隊の隊長になる、と」

 首肯を受けて、何となく涅さんが脳裡に過った。
 涅さんも絶賛斬魄刀改造中のようだし、もしかしたらぼちぼち他所の人事もこういう形で埋まっていくのかな。
 いくら涅さんとは言え一応隊首試験を受けることが決まったら一言くらいはあるだろうし(あると信じたい)、きっとこの分だと東仙くんが隊長になる方が早いかもしれない。

 あと人事に空白を抱えているのは二番隊、三番隊、五番隊……は副隊長がこの間市丸くんで内定したと聞いたし、七番隊、八番隊、十番隊、そして我が十二番隊か。十三番隊はほとんど海燕さんが副隊長みたいなところがあるし除外。
 十番隊は前隊長が戦死されてから長いこと隊長が不在だけれど、その状態に隊士達が最早慣れてしまっているから、そこら辺はまた先送りにされてしまうことだろう。

「そう言えば二番隊……というか隠密機動も、総司令官の選考に入ったって訊いた。色々動き出したねぇ」
「……相変わらず耳が早いな。どうして隠密機動の情報まで持っているんだ……」
「知り合いが多いと自然とこうなりますよ」

 微苦笑を浮かべ肩を竦めると、東仙くんはちょっと頬を掻いて迷うような仕草を見せた。
 決断力の強い彼らしからぬ様子に首を傾げる。何か言いたいことがあるけど、この流れで口にしていいものか、という感じの雰囲気。
 「どうぞ、何でも言って」と促すと、東仙くんは観念したように一つ頷いた。


「もし私が隊長になったら。――水月、九番隊に来ないか」


 思わず「え?」と訊き返してしまった。
 素っ頓狂な声の上げ方をした私を正面に据え、東仙くんはなおも続ける。

「君が心底十二番隊を愛しているのは承知している。それに、どうしても異動したくない……九番隊は嫌だと言うのなら、無理にとは言わない」
「―――」
「だが水月、君がそうして疲れ果て摩耗していく様は見ていられない」

 言葉に迷う。

 出来るだけ先延ばしにしたくて、考えたくなくて、けれど出来るだけ早い方がいい。
 このままでは、水月乙子は今度こそ十二番隊を壊してしまうから。
 ただ行き先が無かった。私はどこに行っても迷惑をかけてしまう。私の背後にはずっと死神よりも死神らしいひとが取り憑いていて、私が少しでも安息を感じればそれを奪いに来てしまう。

 正直に白状すれば。
 私は、私自身の意思で次の在り処寄生先を選ぶのが恐ろしかった。

 それは十二番隊の代わりに壊されてもいい場所を選ぶのと同義だったからだ。何を選ぼうが、結局は同じ不幸を繰り返すだけだ。
 だから本当は、私が消えれば何もかもが丸く収まる、一番善い選択肢なのだけど―――。

「……私は、生きていちゃいけないって、最近は特に強く思うんです」

 私はしばらく黙り込んで、迷いながら、言葉を選びながらそう囁いた。
 昼のピークを少し過ぎた食堂の喧噪は多少なりを潜め、午後の光に私の呪うような低い声が溶かされていく。

 東仙くんは何も言わず、ただ私の言葉に耳を澄ませている。

「これは私の独り善がりの自己否定とか、自己肯定感の欠如みたいな問題じゃなくて、客観的な事実です。だからね、私を引き取ったら最後。……きっと後悔するよ」
「……」
「十二番隊から離れなきゃいけないって思ってるのは本当。……誰にも内緒だけど、それしかもう私に出来ることが無いから。でも、次の行き先だけが決められなくて。……行き先を選ぶのは、次に不幸をもたらす先を決めるのと同じだから、私にはその勇気がなくて」

 誰にも言えなかった――涅さんにすら打ち明けられなかった胸の内を、ほんの少しだけ晒してしまう。
 多分これは、私の中に残ったほんの僅かな人間性の仕業だった。リサちゃんの次に親しいと感じている、東仙くんだからこそ口にしてしまう、限りなく本音に近い言葉。

 止めなければいけない、誰にも言わずに消えなければいけない、お前はひとりで死ね、と囁く怨嗟の裏側で、ほんの少しだけ。
 死にたくない、生きていたいという根源の願いが息を吹き返している。

「私が擦り減っているように見えるなら、それは当然の報いだから気にしないで。私はただ、今までしてきた悪いことの報いをこうして受けているだけなんだから……」

 ――怖い。恐ろしい。死は恐ろしい。
 ――あの怖い手が伸びて、私を殺そうとするのは恐ろしい。

 でも、皆が私のせいで酷い思いをするのはもっと怖い。
 だから―――


「だが、それは水月のせいではない」


 ―――それは、ある意味、決定的な言葉だった。

 俯かせていた顔を上げる。爪が食い込むほど握りしめていた手の力が自然と抜ける。
 頭のてっぺんから血の気が引いていくような奇妙な錯覚に襲われた。

「水月が悪いことをしたと言うのなら、その是非は此処では問わない。本当に君が悪事を働いたのなら、いつか報いがあるだろう。
 けれど、今君が直面している苦しみは、君のせいではないと、私は思う」

 駄目だ、いけない、頷いてはいけない。
 いくら十二番隊を、涅さんを護りたいからって、目の前の彼を犠牲にしていい理由なんて、そんなものは存在しないんだから。

「君がどんな事情を抱えていても、君に決意があるのなら私はそれを受け入れる。それくらいの甲斐性が無ければ、隊長は目指せない。それに……」
「……、……それに……?」

 だってそれは、人に優先順位をつけること。そんなのは駄目だ、人としていけないことだ。
 なのに、それなのに。

「君とはそれなりに長い付き合いだ。君が困っていると言うのなら、力にならない理由が無い」

 東仙くんの語る友情みたいなものは、たぶん、美しい。
 でも私にとってそれは些事だ。今はもう影も形もない十二番隊――浦原十二番隊に対する愛を前にすれば、すべてが些事だ。
 だから私は、長い付き合いの東仙要を信頼したから頷くのではない。
 ただ、十二番隊を護るための手段として、彼を利用しようとしている。


 いいの?
 私は君や君の大切なモノを利用して、私の護りたいものを護るよ。
 それでもいいって言うの?


 胃の腑から込み上げてくる吐き気に促されるように、私はそう囁きかけた。

「ああ。君が本当にどうしようもないところで間違えた時は私が止めるさ」

 ほんとうに、救いようが無い。


 考えてみるね、と断り、東仙くんとは食堂で別れた。
 そもそも彼の隊首試験はまだ先の話だ。九番隊の隊長が東仙くんに決まらなければ、私は何処にも行けない訳だし。

 別れ際、東仙くんは一言私に「待っているのか?」と問いかけた。
 私はそれに、「ううん。私が先に進むのが怖いだけ」と答えて微笑んだ。

 ただ、綺麗に拵えられた暗室の箱庭から出るのが惜しくて、恐ろしいだけ。
 もうそこには誰もいないのに、私だけがずっと取り残されて。いつも忘れて、置いて行く側だったはずの私が、いつの間にか置いていかれて。
 その現実が全身に突き刺さった時の深い絶望は、今はもう薄れてしまったけれど、暗室に差した一筋の光の温もりだけは、今もこの空っぽの胸の底にある。

 その思い出を護るためなら、私はきっとどんな悪いことだってするし、どんな罰も受けるだろう。


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