大人が怖かった。

 違う、正確に言うなら"貴族"が怖かった。私なんかでは到底抗えない力を持っているオトナが怖かった。
 私よりもうんと身体が大きくて、口が巧くて、何でも知っている顔をした、私を責め立てる振りをして私を生かそうとするオトナが堪らなく怖かった。

 それは死覇装に袖を通してからもしばらく変わらなくて、私は曳舟隊長の背に隠れてばかりの日々を長く過ごした。
 当時から他の女性の隊長は卯ノ花隊長と四楓院隊長だけだったから、他所の隊長を前にした時も私はかなり、恐らく過剰に見えるほど緊張し、彼らの一挙手一投足に怯えていたと記憶している。
 多分それが相手にも伝わったから、公の場以外で話しかけられることは当時あまりなかった。呼び止められて、世間話が出来るようになるまでに数年かかったと思う。

 曳舟隊長の多少スパルタな指導もあって、今ではしっかり恐ろしいオトナとそうでないオトナの区別はついている。


 その線引きがまだ自分で出来なかった頃に、一度だけ、朽木隊長に呼び止められたことがある。
 朽木銀嶺――四大貴族・朽木家二十六代目当主。彼の人と言葉を交わしたのは、後にも先にもその時だけだ。

 きっと、直接的な関わりが何もない私にどう話を切り出したものか、考えてくださったんだろう。けれど、私の怯えように回りくどい話を諦めて。
 擦れ違いざまに、一言。


「困っていることは無いか」


 たすけてください。
 なんて、言えるはずも無かった。

寓意暗喩を鏤めて


 ひどい夢を見たもんだ、と眠い目を擦る。
 ひどいと言うのは内容のことではなく、随分昔の夢を、という意味だ。
 空海月に奪われずに残った古い記憶は数が限られてくるので、昔の夢と言えば大抵同じような場面、同じような記憶の追体験に過ぎない。

 過去のことだとわかっていても、主成分が苦しみや悲しみであるそれらを見たあとはしばらく嫌悪感と恐怖に四肢が竦む。
 普段は色褪せ、思い出しもしない記憶が、どうして唐突に色彩を取り戻して迫ってくるのだろう。意味の無い回顧に浸る余裕は今の私には無いと思うのだけど。
 ――逆に見たくもない過去を脳が繰り返し再生している事実が、私の無意識が現実を拒絶し朧げで穴だらけの過去に逃避しようとしている証左であるように思えてならなかった。


「あ、涅さん。丁度いいところに」

 正面から歩いてきた白と黒のお化粧の施された顔を見上げ、ぱっと微笑む。一瞬で無表情から心底嫌そうな表情に様変わりした涅さんの様子には構わず、右手に持っていた資料を差し出した。

「今八番隊の隊士が来ていて。納涼会の開催担当が今年は八番隊なんだそうで、出席確認の書類を持ってきてくれたんですけど」
「不参加だ」
「いや涅さん個人の出席確認してるんじゃないですよ」

 思わずずっこけそうになる。肩を落としながら、「なら何だ」とばかりに眉を顰める涅さんと一緒に資料を見るために少しだけ身を寄せた。
 涅さんは一瞬目だけで私を窺い身動ぎをしたけれど、すぐ諦めたのか距離を取ることなく隣に並ぶことを許してくれた。何枚かの資料を私が指さすままに流し見ていく。

「今年はほら……色々あって、まだ他所の隊も人事が虫食い状態か新任ばかりですから、交流の意味も含めて出来るだけ参加者が欲しいみたいですよ。ちなみに参加者から一人五〇〇環ずつ各隊で集金して八番隊の担当に渡すそうです」
「ハァ」
「心底興味のないお返事ありがとうございます。ええと、じゃあ涅さんのところには不参加印入れておきますか?」
「是非そうしてくれ給え」

 ふむ、と息を吐きながら涅さんの名前の横にバツ印を書き込んだ。
 正直うちの隊からの参加者はそう多くないだろうな。京楽隊長が名簿を見たら残念がりそうだ。

 溜め息交じりにどうしようかな、と自分の名前の横にある空白を見ていると、涅さんがふと「参加するのか」と問いかけてきた。
 思わぬ言葉に顔を上げると、眼鏡のレンズ越しに金色の瞳と視線が合う。正面から見つめ合うのはいつ振りだったろうか。
 ずっとお互い抱えている仕事が片付かなくて忙しかったから、普段以上に話をしていなかった。

「正直あまり気乗りはしてないです。まだちょっと、……食べ物とお酒の匂いで気持ち悪くなってしまうので」
「だろうネ。現時点でまだマイナス3キロといったところか」
「え……? 何で私の体重ご存知なんです……?」
「目測でわかる」

 思わず両腕で自分の身体を抱きしめた私は悪くないと思う。すぐに思考を読まれ頭を鷲掴みにギリギリされたけど、いくら嫌いな相手だからと言って女の体重の話を容赦なく持ち込んでくるのは如何なものか。
 涅さんだからと言ってしまえばそれまでなのだけど、他の女性隊士に同じことを言ったら下手をすれば訴えられかねないぞ……。

 色々な意味で身の危険を感じつつ、応接室で待たせている八番隊所属の後輩の方へ顔だけを覗かせた。

「ごめんね、私も今回は不参加にします。〆切日になったら回覧書類と一緒に持っていってもらうから、わざわざ集金には来なくていいですよ」
「えーっ!? 乙子さん不参加!?」
「参加希望者の三割は減っちゃいますよ!」
「いやいや減らない減らない」

 両肩を掴まれがっくんがっくん揺らされる。
 至極残念がってくれている彼女らには悪いけれど、まだ飲み会だ食事会だと人の集まる場に相応しい精神状態には戻れていない。
 まだ他所の隊の人を前にすると、宛先のない罪悪感が胸を衝いて上手く笑えなくなってしまう。
 そんな心境を吐露する相手も時間も無いわけだし。


 駄々を捏ねる後輩達の背を押して半ば無理矢理見送ると、途端に廊下は静かになった。
 珍しく他に隊士の姿はなく、ほの白い光に照らし上げられる板張りの廊下にいるのは私と涅さんだけだ。

「局の外に出られてるのは久し振りですね。ちゃんと食事はしてますか? 睡眠時間は削ってませんか?」
「その言葉そのまま返すヨ。君にだけは言われたく無い台詞だ」
「うーん、否定出来ない」

 苦笑しながら納涼会のお知らせを脇に抱えていた書類束に挟む。代わりに何枚かの開発局行きの書類を差し出した。

 開発局への依頼は検査書類等は開発局へ直接回すよう今はお願いしているのだけど、以前の十二番隊が窓口になっていた体制の名残で未だに十二番隊──というか私のもとに関係書類が届いてしまう。
 私は別にそれでもいいと言ったのだけど、局員達が気遣ってくれるので今は局のお仕事からは離れている。「ささやかな運動不足解消になります」と言いながら、毎回封筒やら書類やらを回収しに来てくれるのだ。
 研究棟と隊舎はかなりの距離がある(お互いにそれなりの規模の建物なので)ので、開発局から人が出てきてくれることによってコミュニケーションもとれる。他所から頂いたお菓子なんかもその時に受け渡しをしていた。

 今回はたまたま涅さん宛の急ぎの書類があったので、「ささやかな運動不足解消」を待たずに涅さんを探そうとしていたところだった。

「確認し次第返事が欲しいそうです。かなり急いでるみたいでしたよ」
「私には関係の無い要素だな」
「そう言われればそうですけど……」

 このところ涅さんはいつにも増して忙しそうだ。
 その理由をぼんやりと局員から聞いている私は、そっと涅さんが佩いている斬魄刀に視線を向けた。

「斬魄刀、改造してるって聞きました」
「耳が早いネ。いや、この場合は部下の口が軽いのか」

 別に内緒にしなければならないことでもない。涅さんは少し肩を竦めると、柄を握って斬魄刀を持ち上げた。
 涅さんが斬魄刀を使うところはあまり見たことがなかった。私もそこまで出撃頻度が多い訳ではないけれど、涅さんが私の卍解までを知っているのに対して私は彼の斬魄刀についてほとんど何も知らないままだった。

「あの邪魔な男はもう居ない。そうなれば開発局だけでなく十二番隊諸共を支配下に置いた方が効率が良いというだけの話だヨ」
「―――」

 相変わらずの冷たい物言いに笑みが零れた。
 確かに、死んだら局は涅さんのものだって、いつかに言っていましたものね。
 暗に技術開発局だけでなく十二番隊の長にも成ると、彼は言っている。本当の意味で、浦原喜助の跡をすべて継ごうとしているのだ。

 涅さんは、ほんとうに、怖いほど変わらない。
 強い野心も、あの人に対する敵愾心も、私への激しい嫌悪も、何一つ劣化しない。変わらない。
 私には持ち得ない"それ"は、涅さんの黄金色の瞳を覗けばいつでも変わらずそこにある。そのことが私の擦り減り凍えきった胸の内側をほんの少しだけ温める。

 この人を変えることは何人たりとも出来やしない。
 絶対に、私でさえも。それが何より喜ばしい。

 ああでも、その喜びが涅マユリという人に対する純粋な称賛なのか、私が持つことの出来ない永遠不変の安息を他人に見出そうとしているだけなのか区別がつけられない。自己愛と他者愛の境目がわからない。
 自分の好意が、愛が今ではあまりに朧で、本当は水月乙子という存在を現実に繋ぎとめる錨が欲しいのではないかと言う予感が喉元に忍び寄ってくる。
 私は私という存在が生きていく為の指標が欲しいだけで、浦原喜助が消えた今、今度は涅マユリをそう・・しようとしているだけなのではないか。


 自分の悍ましさにぞっとする。


「……涅さんの十二番隊、きっと楽しいでしょうね」
「君には死なないギリギリのラインで馬車馬のように働いて貰う予定だ」
「つまりいつも通りじゃないですか」

 「おや、私が今まで君に過労死寸前を求めたことがあったか?」と私に視線も向けないで涅さんは言った。
 きっと他所の席官に同じものを求めたら寸前どころか過労死待ったなしですよ、とは言えないので笑って答えを濁す。「笑うな気色悪い」と髪を掴んで引っ張られる。

 どうせなら過労死してしまいたい。本当にそれで死ねるなら、十二番隊の水月乙子のまま死にたかった。

 ――ああ、私は死にたいのか。

「すいません、もともとこういう顔なんです」

 微笑みに困った風な色を混ぜ込んで、そういえば十二番隊はやっぱり整形には手を出さないんだろうかと過去の記憶に思いを馳せた。
 まだ忘れていない。覚えている。私を詰る冷たい声も、おかしそうに笑う明るい声も、明るい廊下の白さまで。
 容赦なく掴まれ引っ張られた髪を片手で梳きながら、首を傾けて涅さんの少し細められた瞳を見る。

 やっぱり涅さんは優しい。いい上司だ。
 私のことが心底嫌いなくせに、これから自分のつくる新しい十二番隊に私がいることを当然のように許してくれている。
 嫌悪と受容、矛盾しているようでどうやら涅さんの中には何か規則性があるらしい。私にそれは理解出来ないけれど、それでも涅さんが私が在ることを認めてくれていることだけが現実だ。
 だから、……涅さんはやっぱり優しい人だ。

「じゃあ、書類はお渡ししたので後のやり取りは涅さんに一任しますね」
「ああ」
「長々引き留めてすいませんでした。納涼会の方も以降の処理はこちらでしておきますから」
「ああ」

 涅さんが開発棟の方へ戻っていく。私はその背中が見えなくなるまで見送る。

 ――ふと、涅さんが足を止め顔だけで振り返る。

「私が隊長になれば君の身柄すらも私のものだ。……あまり余計な企みはしないことだヨ」
「あら。何のお話かわかりませんけど、ええ、わかりました」

 淀みなく頷くと、涅さんは再び嫌悪で顔を歪めたのち、足音もなく薄暗い方へと廊下を歩いていった。

 思慮深く、勘のいい貴方。
 どうか貴方の狂気に終わりがありませんように。
 どうか貴方の世界に終わりをもたらすのが私ではありませんように。


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