矛盾を認めた私は、これまで以上に空ろになった。
 もともとがらんどうで確固たる自我がほとんどなかった私という存在を包み覆い隠してそれらしく見せていた『外殻』を自ら否定したのだから、ますます自己が稀薄になるのは当然の帰結だと、どこか他人事のように思う。

 それでも私が今まで壊れずにいて、そして今もあと一歩のところで壊れずにいるのは、ひとえに『水月乙子は死神である』という唯一揺るがない自己認識のおかげだろう。
 私はつまり死神でさえあれば水月乙子という存在の要件は満たしていることになるから、あとは何がどう壊れようと砕けようとあまり関係はなかった。
 死ぬのは死神でいられなくなった時。それは死神であった水月乙子がただの罪人に戻る――あの暗い曇天の下に還る時だ。

 死なない限りは崩れない自己定義と、自己定義の支柱となる手帳。
 裏を返せば、私はそのたった二つの事柄で構成されたモノだった。


 ――そうしてある意味漂白された思考回路のなかで、ふと考え至る。
 十二番隊から離れる、なんていうのは手緩い自己愛に塗れた選択だ。
 本当に己でなく他人を護ると言うのなら、死んでしまった方が話が早い。

 つまるところ、私がいなければ大体のことは丸く収まるのである。


 解に辿り着いてしまった頃から、耳奥で誰かが「はやく死ね」と囁いてくるようになった。
 背後に憑りついた怨嗟の声に、私は。

正気狂気が詰りあう


「――水月四席、少しお時間いいですか?」

 顔を上げると、何枚かの書類と紐で綴じられた過去の月末書類の複写を抱えた女性隊士がこちらを窺っていた。手を止めてそちらに身体を向ける。

「この月末処理と報告書類の作り方を教えてもらいたくて」
「あら。いいんですよ、別に無理してそこまで手を広げなくても……。先月は例外的に私の手が回らなかっただけですから」

 確かに、私と涅さんの二人体制で十二番隊の運営がばらけた影響で、普段は私だけで間に合っていた処理をほんの少し他の隊士達にお願いしたことはあった。
 例の事件が落ち着いた今でこそ若干の余裕が生まれてはいるからこの要望に応える時間自体はあるけれど、彼女が持ってきたものは本来であれば上位席官か副隊長が担当するべき領分だ。新たな負担を増やすことになってしまうのに、とちょっと眉を下げてどこか緊張した面持ちの彼女の顔を見上げる。

 最近、こういう申し出をしてくる隊士が多い。
 今まで私が一人で、あるいは涅さんと協力して処理してきた領分を知りたい、覚えたいと私のもとへやってくるのだ。
 ……あるいは、勇気のある隊士の何名かは涅さんの方に同じ質問をしに行っている可能性がある。そんな強い心臓の持ち主に心当たりはないけれど、絶対にいないとも言い切れない。
 それに涅さんは言葉は強いけど訊いたことは何だかんだで教えてくださるからなぁ。

「いえ、水月四席の負担を少しでも減らせるなら、って他のみんなとも相談したんです。私達だけで出来ることが増えれば、そのぶん水月四席を休ませてあげられるので」
「それはそうでしょうけど、私のことなんていいんですよ。それより新体制に皆さんが慣れることの方が……」

 私の言葉の途中で女性隊士が首を横に振った。苦笑を湛えたまま一度口を閉ざすと、「……乙子さん、私達心配なんです」と砕けた呼称の方を使って彼女がぎゅっと眉を寄せる。
 公私混同を嫌い、律義に呼び方を変える彼女らしくない行為に、彼女の言っていることが心からの言葉であることを理解させられる。

「いつまでも乙子さんに頼りきりじゃ駄目だって、皆で決めたんです。もちろん私達に出来ることなんてたかが知れているでしょうけど、……それでも」
「――それでも?」
「……今、誰よりも傷付いていて、休息が必要なのは貴方だと思うから」

 淀みなく継続していた呼吸が、一瞬、乱れる。

 目を丸くし、きょとんとしたまま「私……ですか?」と自分を指さした。
 彼女にはそれが何故か痛々しい仕草に見えたらしく、ぎゅっと眉を寄せ苦しそうな眼差しで一つ頷く。

 最近、十二番隊の隊士達と私の思考がズレつつあるのを感じている。それを強く確信したのは人事査定の申し送りが総隊長からあった頃だ。
 それまでは相手のことを忘れることがあっても手帳を読めば大体のことは理解出来たし、忘れる回数よりも話す回数の方が多い十二番隊の面々については隊長達よりも理解している気さえしていた。

 けれど今は、皆の言うことが時々わからない。手帳を読み返しても答えが載っていない。ヒントもない。
 ただ、目の前の彼女の表情にだけは覚えがある。これは本当に誰かを案じる貌だ。私もよく、この表情をつくっていた気がする。
 今は笑うばかりだから、少しやり方を忘れてしまっているけど。
 私にもそういう感情があったことだけは、まだ忘れていない。

「乙子さん、……副隊長達がいなくなってから、ずっと笑い方がヘンです。昔はそんな、強張った笑い方はしてなかった」

 微かな後ろめたさを含んだ声音に苦笑を深くする。そんなことはないと思うけど、もしそうだとしたってそれは貴方のせいじゃない。
 気に病む必要なんかどこにもないのに、優しい部下だ。



 月末処理は時間に余裕が出来たら、という条件で一部の隊士にやり方を教えることになった。私の私的な時間を無理矢理削らない、という条件つきでだ。
 他の隊士達の負担が増えると思って初めはあまり乗り気ではなかったけれど、よく考えれば私は一刻も早く十二番隊から離れなければならない身だ。それの準備として、仕事の引継ぎは最重要な項目と言える。

 今まで私が隊務をほとんど一手に引き受けてきた弊害を清算しなければ、今度こそ十二番隊の運営に支障が出てしまうだろう。それを回避するためにも、仕事の引継ぎは必須だった。
 そのうち時間を作ってマニュアルか何かを作ってあげなければ、と手帳の余白にメモをする。
 十二番隊は他の隊と違って技術開発局という付属機関がある。そのぶん仕事も複雑化するから、私がいなくなっても困らないように。

 十二番隊を離れることについて、まだ涅さんには何も伝えていない。
 何をどう説明すればいいかわからなかったのだ。


* * *


 久々に開発局に用事があって開発棟に顔を出すと、いつも一人で研究をしている小さな背中が今日は机に向かって事務仕事をしているのが目に留まった。

「阿近くん、お疲れ様です」
「乙子さん」

 ぺこ、と会釈をしてくれた阿近くんの隣に座り、「見てもいいですか?」と阿近くんの目の前に広がっている書類の一枚を指さす。
 阿近くんは確と頷いて視線を手元に戻した。

「乙子さんが見ちゃいけない書類なんて十二番隊にはないだろ」
「いや、そうでもないよ。涅さんのお部屋のなんかは見ただけで火あぶりにされそうじゃないですか?」
「局長は例外だと思う」

 人事査定はまだ涅さんと協議中なので、開発局含め十二番隊の人事は確定していない。
 ……いないのだけど、涅さんが技術開発局二代目局長になることは最早誰も異議を唱えない確定事項なので、開発局の皆は彼のことをすでに「局長」と呼んでいた。
 今更「局長」と呼んだら気味悪がられるかと思って、私は相変わらず涅さんのことは「涅さん」と呼んでいる。

「阿近くんは最近事務仕事続きだね」
「局長が、俺を副局長にって」

 あら、と私は思わず口許に手を添えて目を丸くした。私の言葉と彼の返答は一見咬み合っていなかったけれど、その少ない情報で大体のことを察してしまったのだ。
 ここにも引継ぎの動きがある、と何だか感慨深くなり、同時に何でもないようにそのことを口にしながらも、一生懸命慣れない書類仕事と向き合っている姿に途方もない愛しさを感じながら小さな頭のつむじを見つめた。
 そっか、と顔が柔らかくほころぶ。

「涅さんのこと本当に尊敬してるものね」
「うん」
「じゃあ、頑張らないとだね」
「うん」

 こく、こく、と頷く阿近くんを眺めて小さく息を吐いた。
 私はきっと彼が副局長の座に就くところを見られないだろうけど、涅さんと阿近くんがこれからも開発局を支えていくなら心配はいらなさそう。

 此処から私が消えて困るのは私だけだ。
 そう何度も心のなかで繰り返し、そっと黒く短い髪を撫でる。穏やかな心地だった。
 今までの長い長い時間の中で、こんなに穏やかで静かな心でいられた時があっただろうか。
 自分のことを自分で決められることの、なんと心強いことか。
 今まで水月乙子が私のものであった時なんてなかった。記憶は空海月に、それ以外のすべては恐ろしいオトナ達に消費されるモノだった。
 でも、終わりくらいは自分で選べそうだという予感が、恐怖に擦り減った私の心を弱く支えてくれている。


 ――今なら私の生き方を「ひどい間違い」だと断じたあの人の言葉がよくわかる気がする。
 確かに間違いだ。私の人生は間違いだらけだった。
 初めからこちらを選んでいれば、心が擦り切れるほどの恐怖に身を浸すこともなかった。

 死にたくないと思いさえしなければ。


「……じゃあ、阿近くんはもう少し字を綺麗に書く練習をした方がいいですねぇ」
「……む」
「身内同士のやり取りは別にいいですけど、開発局の皆さんは忙しさで"読めればいい"みたいな字を書く人が多いですから」
「乙子さんみたいな字を書くのは時間がもったいない」
「面倒くさがりなこと言うのはこのお口ですかー?」
「むぎゅ」

 後ろから薄い肩に腕を回し、まろい両頬をぶにぶにと指で揉む。子供特有の肌の柔らかさと、周囲の大人に混じり不健康不摂生の道をゆく阿近くんらしい体温の低さに目を閉じた。

 ちょっと乱暴な字を書く彼の筆運びが綺麗なものになるまでを見守れないのは、……悲しい、と思う。
 けれど私の独り善がりの恐怖にこれ以上誰も巻き込みたくないから――誰かを巻き込む方がつらいから、仕方がない。

 もはや抵抗することを諦めているのか、ぼんやり顔のまま阿近くんは小さく肩を竦めながらこちらを見上げた。

「じゃ、乙子さんのお眼鏡に適う字になったら言ってください」
「うん?」
「それまで、出来るだけ丁寧に書くことにするので」

 何も言えなくなって、こつりと阿近くんの小さな頭に額をあてた。
 心臓がぎゅうと締め付けられたような感覚に襲われる。

 未だに離れがたいと感じている自分が、途方もなく嫌になる……。

「……乙子さん?」
「……私が眼鏡かけてるから、お眼鏡に適う、ですか?」
「は?」
「おや、違ったみたい」

 わざとらしく惚けて眉を下げると、阿近くんは「まったくこの人は」みたいな顔をしながらそっぽを向いてしまった。
 私はくすくす笑いながら、再び黒い髪を撫ぜた。
 その感触を指に、脳に刻み込むように、何度も、何度も。


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