「――時灘、……さま……」

 時灘様は、私が自分を認識したのを知るとぱっと笑みを浮かべた。
 まるで親しい間柄の友人でも見つけたような自然さで、私の名前を呼んで歩み寄ってくる。
 私は呼吸すらままならない。笛の音のような頼りない喘鳴が洩れるのを防ぐために、必死に唇を噛みしめてその場に立ち尽くしていた。

 ……普段、この男と会うのはいつも官庁街か貴族街だ。そこへはいつも苦手としている貴族達がいるのをわかったうえで、ある程度の覚悟を固めて行くから、こんな風に立っているのがやっとになるほどの恐怖は感じない。
 心を意識的に麻痺させているとでも言うのか、そういうワザを私は体得していた。

 けれど此処は一番隊舎。貴族と遭遇することなんて考えてもいない。
 もちろん例外として貴族が自ら総隊長に用向きを果たすために供回りを連れてやってくることはあるかもしれないけれど、そんなのは五十年に一度あるかないかの話。
 ということは、私はその五十年に一度あるかないかの不運――それも最悪な相手を引き当ててしまったということで。

「心配していたぞ。あの大犯罪者――何と言ったかな、ほら、お前が慕っていた男は」

 わざとらしい言い回しに心臓が跳ねる。
 以前までの「この男から十二番隊を護らなければならない」と覚悟を決めていた私と、「あの人は最早私が護らなければならない十二番隊ではない」と否定する私が摩擦して、うなじの辺りがビリビリと痺れた。
 浦原喜助です、と蚊の鳴くような声で私が答えると、時灘様は手をぽんと叩いて「そうだった、浦原喜助だ」と頷いた。

「その浦原喜助のせいで、副隊長や親しかった他の隊長格まで一度に失っただろう? お前の心労を思うと心が痛んだよ。乙子があんなにも身を尽くしていたと言うのにそれを容易く裏切るだなんて惨く冷酷な男だった。私がもっと早くに浦原喜助の本性を見抜いていれば、お前が傷付く前に引き離してやれたのに、お前には申し訳ないことをしたな」
「……い、え。……そんなお言葉をかけていただけるだけで、……身に余る光栄でございます」

 小さく首を振ると、時灘様は気遣わしげな表情を浮かべながら足を止めた。そっと私の肩に手を添え、「すまなかったな」ともう一度繰り返す。

「あれには人の心など端から無かったのだろう。乙子が気に病むことは何も無いのだ。……こんなに痩せては心配だ。一度休隊して静養するべきではないか? ああ、顔色も悪い。ここに居るのだから総隊長と会って来たのだろう? 奴はこんなにもお前をやつれさせておきながら何も手を打っていないのか? どれ、私が口添えをしてやろうな」
「っいいえ、いいえ私なら大丈夫です時灘様。忙しさにかまけて自己管理を疎かにしていた私の責任です。悪いのは私です、何も問題はありません」

 やめて、やめて、誰の話もしないでください。
 その口から誰かの名前が出るたびに、私のせいで誰かがつらい思いをするんじゃないかと恐ろしくなるんです。
 私のそばから私の大好きな人達がいなくなるんじゃないかと恐ろしくなるんです。

 やめて、やめて、あの人の話をしないでください。
 私のなかにある、私だけのあの人の記憶が恐怖で上塗りされてしまうから。
 楽しくて、おかしくて、不安で、期待して、驚いて、怒って、悩んで、笑って、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて――今は憎い、そんな日々たちを、失いたくはないのです。

 もう二度と戻らないものだけど、それは確かに私だけのもののはずで。
 だからどうかお願いです、


 私の記憶こころを、これ以上穢さないで。

ずるずると奈落まで


 激しく首を振ると、時灘様は「そうか、けれど辛くなったならいつでも言いなさい」と肩から手を放した。
 本気なのか冗談なのかわからない笑みに鳥肌が立つ。この人は本当にやりかねない。そうすれば私が昔のように泣き叫ぶと判断したら、きっと迷いなくすべてを遂行するだろう。

 ひとまずその絶望が波を引いたと感じて、止まっていた呼吸を微かに再開させた。


「だが、涅マユリは別だ」


 ――まるで私の気が緩んだ瞬間を待っていたように、時灘様は涼しげに言った。
 私は言われた言葉が一瞬理解出来なくて、思わず気を削がれ「え……?」と首を傾げる。

 今、この人はなんて言った?
 涅マユリハ、別ダ―――?

「は………」
「私とて鬼ではない。いくら総隊長と言えど乙子はあくまで十二番隊の隊士だ。奴もそこまで細かく目は届くまいよ。
 だが涅マユリはお前の上司だろう。お前が疲弊し、やつれていくのを止められたはずだ。そうだろう? お前はその状態でも常に上司である涅マユリを気遣い、部下の状態に気を配り、そうして隊長格不在の十二番隊を何とか回してきたのだ。お前はよくやった、他の隊の席官でもお前と同じことを出来る者はそうはおるまいよ。
 それならば、涅マユリも上司として、乙子が部下に対してしてきたことを、同じように、お前にするべきだろう? なァ、乙子」

「涅マユリはお前のそばに置くに値しない者だ」サッと血の気が引いていく。「お前は一度もそうだと感じなかったか?」
 思わず私が半歩分後退ると、女郎花色の羽織がその半歩を容易く詰めてくる。
 その後ろには供回りが数人いるのに、まるでこの空間には私と綱彌代時灘しかいないかのような窒息感と閉塞感があった。

 完全に言葉を失くした私を更に追い立てるように、人らしい機微を蘇らせた私で遊ぶような仕草で目を細め、叩きつけるような強さで断定する。
 私がそれに反論するよりも早く、続きを語る。

「安心しなさい、いなくなるのは涅の方だ。お前は今迄通り十二番隊で楽しく仕事を続ければいい。すぐに私が口添えをして、お前を最大限支援出来る面子で十二番隊の人事を整えさせよう」
「―――」
「乙子、よかったな、私は"お前の愛する"十二番隊には何一つ手を触れないぞ。ただ、涅マユリというお前を苦しめる異分子をお前の箱庭から消し去るだけだ。嬉しいか、嬉しいだろう、お前が愛しているのは十二番隊だ、涅マユリでは――浦原喜助ではないのだものなァ?」

 ひ、と泣き声のような音が唇から零れた。
 無意識に震える両手が顔を覆って、まるで涙を隠すような体勢を形づくる。涙など流れていないのに、無意味な行為だ。けれどそれが私の今出来る拒絶の姿勢でもあった。
 目の前の男が吹き込んでくる一言一句、そのすべてを拒絶したかった。


 この男は私に「涅マユリを愛している」と言わせたいのだ。別に浦原隊長でもひよ里ちゃんでも、リサちゃんだって構わない。
 ただ私に他人を愛してしまった事実を認めさせ、そのうえでそれを奪って今度こそ私の心が完全に壊れるのを見届けたいのだろう。
 そうすれば今度こそ私の心が完全に壊れると確信している。私がそれほどまでに、崩壊してしまった過去の十二番隊を愛していたと確信している。

 そして、私がそれを矛盾として拒絶し、頑なに認められずにいることすらも、すべて解っている。

 ただ、いま私を苦しませることのできる手札のうち一番強いものが涅さんだったというだけだ。
 もしも時灘様の気分が少しでも変わっていたら、私の目の前に生贄よろしく吊り下げられるのは浦原隊長だったかもしれないし、ひよ里ちゃんだったかもしれない。
 手札は沢山ある。何度でも切って、私の反応を楽しめた。今まではそうだった。

 けれど手札のほとんどがいなくなった今、残りは一枚だけ。
 意思に反して親しかった、好きだった人達をほとんど失った今が、その最後の手札を切る絶好の好機だと確信したから、きっと今この人は此処にいる。

「あれほど慕っていた浦原喜助には救ってもらえず、涅マユリには護ってもらえず、あれほど身を尽くしてきたにも関わらず何一つ報われることがなく……実に哀れだ、実に愚かだ! お前が何故歯を食いしばり私達から受ける仕打ちの全てに耐え、何故一度たりとも助けを求めなかったのか、奴らはとんと知らぬのだ! こんなに愉快なことが他にあるか?」

 ……ああ。また、私のせいで誰かが不幸になるのか。
 私のせいで、誰かがいなくなるのか。

 しんとした冷たい思いが広がっていく。
 思えば、私は『魂魄消失事件』の容疑者として浦原隊長が捕縛されたと聞いたとき、真っ先にこの人を疑ったっけ。
 私への嫌がらせだと思った。この人ならやりかねないと思った。……結局、真偽はわからないまま、先に浦原隊長がいなくなってしまったけれど。

「何故そうまでして水月乙子が十二番隊を護りたかったのか、奴らは知らぬ、知ろうともせぬ。……なァ乙子、それでもお前は傷付いてなどいないよな? 誰も愛さないお前は、誰も愛さないがゆえ、己のせいで誰が消えようと傷付くことはないのだな?」

 けど――もし。

 浦原隊長が約束を違え、ひよ里ちゃんがいなくなり、私の愛した十二番隊が壊れたのが、他ならぬ私のせいだったと言うのなら。
 今が再び訪れた、その瀬戸際だと言うのなら―――


 短く息を吸う。
 平気な振りをする。いつも通り、大丈夫、恐怖の順位付けが出来れば、あとは感情を麻痺させればいい。
 口角を上げる。思い出すのはあの人の笑顔。大丈夫。最近は自分の本当の笑い方を忘れるくらい、馴染んできた表情の作り方だ。

 ただ一つの命令を水月乙子に下す。
 全細胞に、ただ、「笑え」と。


「ありませんよ。傷なんて、どこにも」


 ―――護りたいと思った。
 初めて、自分以外のものを護らなければならないと、恐怖に膝を抱え身を硬くする以外のことを択んだ。
 本当はあの人が手を差し伸べてくれたとき、択ぶべきだった選択肢。

 水月乙子は、生まれて初めて、自分に嘘を吐くのをやめて、目の前のオトナに嘘と吐く。
 一世一代の嘘。たぶんもう、こんなに鮮烈に誰かを護りたいと思うことは二度とあるまい。

 そう痛感しながら、同時に自分が嫌になる。
 私はずっと、こんなことを認められなかったんだ。
 ……数十年出来なかったことをこんな一瞬の決意に突き動かされて成してしまうくらい、私はみんなが大好きだったんだって、そんな単純なことを。


「……、……乙子」

 再び私の名を呼んだ時灘様の顔から笑みは消えていた。
 きょとんと、不意を突かれたような気の抜けた表情を浮かべて――それから静かに目を細める。
 私に泣いてほしかったんだろう。憐れっぽく足元に縋り付いて宛先のない許しを乞う姿が見たかったんだろう。

 でも、まだそれはしない。
 目の前の男の指先が、研ぎ澄まされた悪意の矛先が再び私の喉元だけを据えるまで、私はまだ折れてはやらない。

 恐怖に押し潰され、惨めったらしく壊れて死んでいいのは、その後だ。


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