「十二番隊四席、水月です。――失礼します」

 ほの暗い光が一と書かれた大きな門戸を弱く照らし上げている。
 今にも雨が降り出しそうな空模様だ。小耳に挟んだ予報では、午後からは大降りになるとか。
 雨独特の湿ったにおいで肺をいっぱいに満たしながら、一番隊舎――総隊長のいらっしゃる執務室へと足を踏み入れた。

 室内もやはり薄暗く、奥にいる総隊長の姿もどこかぼんやりして見えた。
 老いてなお鋭い眼差しがほんの少し緩められる。私も応えるように微笑みを浮かべると、総隊長は近くの机に立てかけてあった杖を手に取って立ち上がった。

「水月、ちと痩せたな」
「……はい、情けない限りです」

 総隊長にまで言われてしまうとなると、本当に私は目に見えて痩せてしまったらしい。しかも他のみんなの言い方からして、不健康な感じの減量だ。
 自己管理がなっていないのは誤魔化しようのない事実だったので、特に言い訳はせずに小さく項垂れる。けれど総隊長はそれを責めることはなく呵々と笑った。

「やはり負担が大きいようじゃな。今日は涅も呼ぶべきであった、……と今言っても遅いがの」
「……隊運営についてのお話、でしたよね?」 

 総隊長の前に出るのは、例の事件の臨時隊首会以来だ。
 唐突に私だけが総隊長から招集を受けたので、本格的に何か取り返しのつかないことを十二番隊がやらかしてしまったか、もしくは十二番隊・技術開発局再始動許可の決定が何かしらの理由で取り消しになったか、なんてところまで想像して胃を痛めていた。
 けれど総隊長の様子を見ると、どうもそういった暗い話ではないようだ。

 首を傾げつつ懐から手帳を取り出すと、総隊長は顎髭を擦ってふむ、と息を吐いた。

「十二番隊と技術開発局の運営をお主と涅に一任してから三月が経った。そろそろ査定を行い、人事を整備するよう、と人事局から催促が来たのじゃ」

できるなら貴方の幸福にだけなりたかった


「人事案……申し訳ありません、すっかり忘れていました……」

 思わず額に手を当てて俯いた私を総隊長が制する。
 やたらめったら忙しい原因が現在の人事の滅茶苦茶さなのに、今の穴あきズタボロ状態でもなんとか仕事が回ってしまっているせいですっかりそれを失念してしまっていた……。

 人事――つまりは、隊長副隊長が依然不在なままの十二番隊の空白の席次を埋めるよう催促が来たということだ。
 十二番隊うちに人事再編成の催促が来たということは、恐らく他所の隊も隊長、副隊長宛てに同じような申し送りがされていることだろう。
 ただ、普通は人事局からの申し送りは書面で済む内容がほとんどだ。こうしてわざわざ呼び出され、総隊長直々に打診を受けることはほとんどないと言っていい。

 隊長格がどちらも不在、という点では九番隊も同じだ。それなら九番隊の席官が私と一緒に呼び出されていてもおかしくない。
 十二番隊――というか涅さん三席ではなく四席が招集されたというのも引っかかる。

 最近のごたごたで完全に後ろ暗い方向へ妄想が進んでしまい、よほど不安な顔をしてしまっていたのだろう。私が訊くよりも先に総隊長が「お主を呼びつけたのは十二番隊の人事が技術開発局と重複しているからじゃ」と理由を明かしてくださった。

「ああ……なるほど。涅さんが開発局副局長と十二番隊第三席を重複して務めているように、ですね」
「然様。ただの人事査定ならば書面通知で事足りるが、そのあたりの人事局とのやり取りは前隊長が完全に独断で手続きを済ませていたと聞く。お主は査定については知らぬじゃろう?」
「そうですね。曳舟隊長の頃から人事関連は隊長が行っていたので……。面談の肩代わりくらいはしたことがあるんですが」
「恐らく涅も人事査定については知らぬじゃろうが、涅を呼び出して同じ話をしても最終的には水月に話が行くと思うてな……」
「……申し訳ありません……」

 ちなみに涅さんが人事査定の話を聞く、そういう事務仕事は水月の担当だ私は研究で忙しい、何も知らない私のもとに唐突に人事局から連絡が来る、私がびっくりする、の流れである。
 正直回りくどい方向から突然身に覚えのない話が舞い込んでくるのは心臓に悪いので、予め総隊長がそれを予見して私の方を先に呼び出してくださったのは英断と言うほか無い。
 涅さんには後から私が説明しておけばいいだろう。きっと「開発局長の名前を私に書き変えておくのを忘れないように」しか言われないはずだから。

 ぺこぺこ頭を下げると「母でもあるまいに、上司の奔放不羈を部下が謝るものでないわ」と苦笑混じりに制されてしまう。

 結局、総隊長から人事査定に関するあれこれを簡単に説明していただき、それと共に人事局の担当者の名前を書き留めた。
 この後涅さんと(形ばかり)相談しつつ、人事局にこちらから連絡を入れて十二番隊と開発局の扱いについて協議してある程度ルールを作っておく……という流れになるだろう。
 最後に"……以上、人事査定の件"と締め、手帳を閉じた。

「承知しました。涅さんと話をまとめて私が窓口になりますので、今後も何か隊運営についてのお話があれば私を直接お呼びください」
「うむ。何かあれば十三番隊を頼りなさい。十四郎もお主に頼られればいらんことまで教えてくれるじゃろう」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」



 前回の人事再編と言えば、技術開発局創設時だ。あの時も結局人事編成案と手続きはあの人がほとんど一人で済ませて、私は席次と名前の把握がてら確定案に目を通しただけだった。
 死神になってから結構な年月が経っているけれど、まだ覚えなければいけない仕事があるのか、と若干げんなりしながら一番隊舎の門戸を後にした。

 関係書類は一番隊がまとめて預かってくれているみたいだから、このあとうちに届くとして。
 書類を用意してからの方が話が早いだろうか? 涅さん、曖昧なこと言うと「私はこんなにも忙しいと言うのにその曖昧模糊な説明で時間を浪費させようと?」みたいな顔をするからなぁ。
 前はあまりそんなことはなかったのだけど、やっぱりまだ肩書が追いついていないとはいえ実質局長になったから言葉通り本当に忙しいんだろうな。


 外からしとしと、という音が染み込んでくる。雨が降り出したようだった。
 渡り廊下から天を見上げると、行きよりも真っ黒になった雲がすっかり重く空を覆い隠してしまっている。
 雨、嫌だな。置き傘の余りは隊舎にあったっけ。

 そう思案しながら顎に指を添えたとき、ふと背筋に悪寒が走る。
 湿ったにおいに混じる――微かな沈香の臭い。

 途端に色彩を失い焦点の合わなくなった両目で必死に周囲をぐるぐると見回す。本能に最も近いところが私に危機を告げている。だって言うのに、身体は凍り付いてしまったように動かない。

 すぐに渡り廊下の奥に見覚えのある人影が、こちらにやって来ているのが見えた。
 普段と比べ従え歩く供回りの数が少ないように見えたけれど、恐怖で脳幹まで凍り付いてしまっている私にとっては些事だった。
 激しい嫌悪感で頭皮がぐっと縮むような感覚を堪えながら、必死に浅くなる呼吸を整えていた。

 ……なにせ、こんな場所で遭遇することなんて想像していなかったから。

「おお。奇遇だな、乙子」

 綱彌代時灘という、最大の恐怖対象に。


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