「まああのお人ならそうなるでしょうね」と頷いた私の淡々とした反応には、流石に噂話好きの隊士も同意するしかなかった。
穏やかで部下を気遣える優しいひと。上司の鑑みたいな、良心の権化みたいなひと。
そういう人が空席に腰を据えるのなら五番隊はもう大丈夫だろう、と安堵と妙な罪悪感のなかで思った。
たとえこの罪悪感が私が抱くには不当な感慨だったとしても、事件の発端らしい浦原喜助が所属していた隊の者としては、お門違いだとしても多少の罪悪感を抱いてしまうのは仕方のないことだと思っていたいのだと思う。
今の私を十二番隊所属の模範的な死神として繋ぎとめてくれているのは、守れる望みなど無かった約束を破って消えた薄情なあの人への憎悪だけ。それはとても空しいことだから。
だからせめて、権利も資格も持ち合わせていないはずの身勝手な罪悪感でも、上乗せできるものはしておきたかった。
人らしくありたかった。
「藍染隊長、このたびはおめでとうございます。…と、私が言ってもいいのか微妙ですけど」
笑みに曖昧さを混ぜ込んだ私を正面から見据え、その人はお手本のような微笑みを湛えて頷いた。
嘘を吐きにまたおいで
「こんな形での昇進だからね、僕もそうあって然るべきとは理解しているけど、ほら。誰も彼も"おめでとう"なんて言いづらいだろう」
そう言って藍染隊長は眉を下げた。所在なげに頬を掻く手は、白い羽織の袖から覗いている。
私はそうですよね、と頷きながらその様をぼんやりと眺めた。
白い壁、差し込む白っぽい光。空気はどこか煮詰まった飴のような甘さを含み、それに足を取られて時間さえも歪んでいるような錯覚さえある。
五番隊の隊舎は、こんな場所だっただろうか。ここのところ記憶が曖昧で、違和感が本当に形のあるものなのか些細な錯覚なのか、そんな区別さえも胡乱だ。
隊長格・鬼道衆副鬼道長八名――うちの隊長と失踪した四楓院隊長を含めれば十名の不在という事態を受けて、中央四十六室はその場しのぎの代理ではなく新たな隊長を目下検討中だと言うのがここ最近の話題だ。
もちろん実際に試験を行うのは総隊長や他の隊長格なのだけど、瀞霊廷守護の任を仰せつかっている護廷十三隊の筆頭戦力の半数以上が一度に欠けたことに最も危機感を抱いたのは現場で働く私達ではなく、守護される側の人々であったらしい。
結局あの事件についてどのような処理が行われたのか、事の顛末すらも胡乱なまま。
多分、護廷十三隊が甚大な被害を被ったという事実が重要なのであって、どうしてあの人が事件の渦中に身を置くことになったのか、どういう過程があったのか、お偉方は別に興味が無いのだろう。
"虚化"の事件とは無関係と決定されたとは言え、十二番隊にはいまだに監視の目があるし、新隊長の検討が為されるのは恐らくまだまだ先のこと。
隊長昇格試験だって甘くないし、この抜けた穴がすべて塞がるまでには恐らく年単位の時間を要することだろう。
そんなことを考えながら、隊長手ずから淹れていただいたありがたいお茶を口に含む。熱さとほのかな苦みで舌が痺れていった。
ちょっと廊下ですれ違っただけなのに、久しぶりに会ったからと隊舎にまであげていただいて、何故だか断ることもせずにのこのこついてきてしまったのだ。
「まさかこんな形でこの羽織に袖を通すことになるとはね。もちろん任された責務は果たすつもりだけど、平子隊長の代わりが僕に務まるかどうか」
「珍しい。藍染隊長でも不安に思うことがあるんですね」
「それは勿論。…水月くんに聞かせていい話でもなかったね。ごめんよ、忘れてくれ」
苦笑を浮かべる眦を見つめながら、できた人だなぁ、としみじみ思う。
恐らく隊長不在の窮地に陥らずとも、藍染隊長ならば近いうちに昇進の検討が為されていただろう。部下からの信頼が篤いことはもちろん、上層部からも一目置かれる優秀な人だ。
私もそう在れればいいな、という気持ちがある。困ったことに、そういう気持ちは人並みにあった。
別に昇進したいだとかそういうことではないのだけど、藍染隊長の死神としての在り方は、私が理想として抱き続ける偶像に近いものがあったのだ。
模範的で、正義感と実力が伴った、多くの隊士の手本となる死神。誰かを護るひと。
唯一私のなかに確固として残る、夢の残骸だ。
そういう一方的な羨望とも尊敬ともとれない胡乱な感情を抱いているので、この藍染惣右介という人を前にした時にだけ、自分が酷くちっぽけな生き物に思える。
この人の人となり――その清廉潔白を体現したような佇まいを目にするたび、これまでの長いながい時間の間に塗り固められてきた思想みたいなものが軒並み漂白されていくような感覚に襲われる。
私は笑みを絶やさないようにするだけで精一杯だった。
「五番隊を大切に思われているんですね」
「それは勿論。五番隊の皆は大切だ」
つきん、と頭が痛む。
「水月くんの方はどうだい? 最近は十二番隊も技術開発局も静かだから、皆心配しているよ」
藍染隊長も湯飲みに手を伸ばした。
へらりと笑ってみせると、優しい新隊長は心配げな目つきになる。
誰も彼も私ばかりを心配するからしょうがない。十二番隊から出てくるのがほとんど私だけというのもあるんだろうけれど、それにしたってあまりに心配されすぎてそろそろ居心地が悪かった。
何となく口を閉ざして目を伏せる。握ったままの湯飲みを見下ろすと、顔色の悪い自分が映っている。
滅茶苦茶な改装をされたままのうちの隊首室と違って、日当たりのいい隊首室。少しだけ開けられた窓から吹き込む微風で結んだ髪がそよぐ。
他の隊士達の息遣いはどこか遠く、箱庭と呼べるほどの圧縮された閉塞感は微塵も無い、開かれたばしょ。
何もかもが決定的に違うこの場所に腰を下ろしながら、息を吸って、嘘を吐く。
真っ青になって今もどこかで震えている本音を塗り潰せるくらいに、強かで真っ赤な嘘を。
「何も。いつも通りの日々で、顔ぶれですよ」
自分の短所については認識を改めざるを得なかったけれど、自ら掲げる長所は今も変わりない。
誰が居なくなったって、誰が恋しくたって、誰が憎くたって、いつも通りの仕事ができる。人を愛していないから、と毒づく声が今は無い。
気味の悪い笑みをやめられない私を叱る声が、今は無い。
他愛もない世間話を切り上げ、穏やかに手を振る藍染隊長に会釈をして五番隊舎を後にする。
人の好い藍染隊長はしきりに私や十二番隊のことまで心配して下さるけれど、隊長を失って忙しいのは五番隊も同じだ。
むしろ、護廷十三隊を混乱の渦に叩き込んだ諸悪の根源を輩出した隊、として邪険にされても文句は言えないのに、隊長格は皆揃って人が好すぎる。
そんなことを考えながら、明るく暖かい五番隊舎を出て、静かな十二番隊に私は帰る。
執務室に戻ると、隊士達がそれぞれ「お帰りなさい」と迎えてくれた。
「どこ行ってたんです?」
「ちょっと五番隊に」
「時間的にちょっとじゃなかったですよ、珍しく誰も行き先知らないから心配しました」
うーん、と曖昧に答えを濁しながら首を捻る。行き先を知らせないって、子供じゃないんだから。
思ったことを口に出すと、隊士達は一様に顔を見合わせて眉を下げた。
「でも、涅三席が捜してましたよ。予算案のことで話があるとかなんとか…」
「あーーそれは困ります、わたしが悪かったです、わたしも用事があるんです、うわー涅さーん」
執務室を再び飛び出したわたしに、後ろから隊士が「そんなに急がなくても」と苦笑混じりに言うのを聞きながら開発棟の方へ向かった。
案の定涅さんには「遅い」と頭蓋骨を複雑骨折させる勢いで頭を鷲掴みにされた。