「乙子さん! 他の隊の席官集めて飲み会しようって話になってるんですけど、乙子さん来ませんか?」

 本当に久しぶりに隊舎から出て食堂にやってきた私を引き留める声に、首だけで振り返る。
 入口から上半身を廊下に覗かせているのは顔見知りの男の子だ。入隊時期的には私の後輩にあたるけれど、人懐っこくて明るい、他人に気が遣えるいい子。確か彼は五番隊所属のはずだ。

「飲み会? また幹事やってるの、きみ」
「いやぁ自然とそうなっちゃうんですよねぇ。で、どうですか? 乙子さんが来てくれるって言ったらもう十人くらいは余裕で集まりそうなんですけど」

 うーん、と考える素振りを見せながら、背中で隠した胃のあたりを右手で擦る。
 お酒。そもそも好きでも嫌いでもなかったけれど、今の体でお酒なんて入れようものなら本当に内臓がどうにかなってしまいそうな予感があった。何なら居酒屋の空気やにおいを想像しただけで少し目眩がする。
 それに、私が行ったら否が応でも皆に気を遣わせてしまうだろう。

「ごめんね、今回はパス。また誘って下さい」
「え〜っ」

 がやがや騒がしい食堂の中から明らかに残念がる声が聞こえた。耳が良いのか、全員私の声に聞き耳を立てていたのか。
 「うるさいぞお前ら! 飯食ったなら散れ散れ!」とそれぞれ落胆の声を挙げる子達を追い払いながら、五番隊の彼はにこにこと人懐っこい笑みを浮かべて手を振った。

「でも乙子さん、最近心配っすよ俺。そりゃあ…あんな事件あったら落ち込むのも隊が大変なのも察して余りあるって感じですけどね、それでもここ最近は本当に十二番隊舎に籠ったまま出て来ないし、見間違いじゃなく痩せましたよね…」
「そりゃあ隊長格二名不在の穴が大きいからです。でも、心配されるようなことはほとんどないよ、大丈夫。また誘ってね」

 笑顔で手を振り返す。

「本当かなぁ。乙子さん忘れっぽいから、次誘った時にはまたこの会話忘れて"また誘って下さい"って言いそうっすよ」

 うふふ。そんなまさか。ちゃんと手帳を見るよ。確認するし、今日あったことはすべて書き記し残すよ。
 ついでにきみの名前がどうしても思い出せないので、それもしっかり捜しておくね。

帰りを待つのが夢でした


 隊舎に戻ると、待ってましたと言わんばかりに隊士達に執務室に引き摺り込まれた。
 現世に駐在する隊士達からの報告書の確認などの仕事が山積みなのですぐに戻るつもりでいたのだけど、どうやら廊下で立ち話をしている間にまた書類仕事が追加されたらしかった。

 初めは隊長格二名の不在で仕事中も半泣きだった隊士も今では慣れが勝るらしく、顔色ひとつ変えずに的確かつ簡潔に質問部分だけを一度にまとめて持ってきてくれるので大変ありがたい。
 色々審議した結果、まともな隊運営が再開されるまでは資料や書類が仕舞ってある隊首室を十二番隊関係者に限って常時開放しておこうという流れになったので、いちいち私や涅さんに許可を取らずとも仕事が捗ると隊士達には好評だ。私達にとっても仕事の手を止める回数が減ったはいいことだ。

 まぁ、中には管理の厳しいものや隊長格の許可なく閲覧してはいけないものが混じっていたりするのだけど、他所にバレなければ不正は無いのと同じである。
 苦笑混じりそう言った時の、隊士達の信じられないものを見る目といったら、筆舌に尽くしがたいほど面白いものだった。


「乙子さん、すいません、これやっぱり計算合わなくて…」

 申し訳なさそうに眉を下げた女性隊士が報告書と決算書を抱えてやってきた。

「あぁ、午前中に言ってたやつだ。結局三人同じものを見て計算したはずなのに合わないのはちょっとしたホラーですね、ちょっと誰か裏紙でいいので書けるもの貸してもらえます?」

 少し書類量が多すぎるので、机を空けようとしてくれた部下に手を振って床に座り込んだ。
 全員私に合わせて席を立とうとするのが面白いけれど、全員床で仕事をさせていたら私が滅茶苦茶な上司扱いされてしまいそうだったのでそちらも丁重に断る。

 速さを重視して懐の手帳からペンだけを抜き取ると、左手で数字の羅列を追いながら右手を裏紙の上に置いた。こういう単調な計算には昔から強かった。
 ほとんど反射で数字を処理しながら、せっかく隊士が揃っているのだからと口を開く。

「そういえば、井口さん、言っていた前年度の書類って見つかりましたか?」
「あっありました! 隊首室にも無かったのでだいぶ探したんですけど、開発局の方に間違って持っていかれたみたいで」
「それはよかった。寺門くん、人事の件考えてくれました?」
「いや、俺には無理ですよぉ!」
「うふふ、私でよければいつでも道場行き、お付き合いしますからね」

 ええと、これが終わったら一度回覧書類に目を通して、涅さんにも回して。

「このあと涅さんに会いに行く予定なので、書き仕損じがあった書類で訂正印が欲しい人は私がここを出るまでにくださいねー」

 判子を貰ったら十三番隊に回して、それから駐在隊士の入れ替え案を涅さんに一応訊いて。…いや、その前にこっちで何個か案を作って提案した方がはやいのでは。

 つきん、と頭が痛む。

「大丈夫なんですか? その、最近涅三席に遭遇したら途端に殴られてません?」
「殴られてませんよぉ、間一髪で躱してます。隊内暴力は避けていきたいですからね。気持ち悪いとか気味が悪いとかは以前にも増して言われるけど」
「それはそれでどうなのかなぁ」
「いやでも、涅三席と水月四席はずっとああだから…」

 ぼやくような隊士達の声にうんうんと頷いた。
 むしろ、空元気でなんとか回っている今の十二番隊にとっては私と涅さんが程よく仲が悪い方が都合がいいんじゃないだろうか。
 私としては頭を締めつけられたり後頭部を殴りぬかれたりするのは心臓に悪いけれど、隊士のほとんどはそんな私達の様子を見て安堵の表情を浮かべることを、私はすでに知っている。

 にこにこ笑いながら、計算の手を止めて報告書を取り出した。

「合いました! このまま訂正印も私が押しちゃいますね」

 五桁の数字、末尾の一桁の数字が間違っていた黒い文字列に二重線を引く。
 誰にどう扱われようが、十二番隊がこれまで通り私のそばに在るのならそれでよかった。

「はい、じゃあ今日も舌打ちのお手本を聞きに行ってきまーす」
「軽いなぁ」「水月四席、最近なんかちょっとおかしくないか?」「もしかして変な性癖が…」
「いやいや、何の心配してるんです貴方達。被虐趣味はありませんよ」

 この後無事涅さんと出会うことが出来、事務的な会話に執務室での話を差し込むと「あまりにも不愉快すぎて脳が茹る」とよくわからない理由で頭を鷲掴みにされた後乱暴に研究室から追い出された。
 重い音を立てて閉まろうとする扉を、床に転がったまま見上げる。

「あの! 判子ください!」

 閉まりかけていた扉が一瞬大きく開いたかと思うと、涅さんに渡した分とおなじ分だけの紙束がばらばらと散らばる。
 しっかり訂正印や確認印を押されたうえで投げて寄越された書類を床から回収しながら思わず笑みが薄れそうになってしまった。
 こういう時にも笑っているから"虐められて喜んでる"みたいなよくわからない噂が立ってしまうんだろうな。気をつけよう。


- ナノ -