そう思うので、蟄居が解けてからの十二番隊・技術開発局の面々には余計な話はせずにただ黙々と仕事を行うこと、と恐らく初めて席官命令を出した。
特に、浦原喜助がよりによって逃亡なんて真似をしてくれたおかげで技術開発局の信用は地に落ちたと言ってもいいだろう。
もともと彼が創設してつい最近まで牽引してきた組織であったから、その代表が涅さんになったからと言って、一夜にして上塗りされた期待と信頼が元に戻る訳でも無い。あれらは積み重ねるのは大変だけれど壊れるのは一瞬という、目に見えないくせに儚く脆いつくりをしているのである。
今回の件に関して十二番隊は全力で被害者面を貫く約束をしているので、そういう些細な不満と疲労を表に出すことはないけれど。
ああ、目に見えないという有意性を持っているのなら、せめて何者にも疵付けられない完全性にまで昇華してしまえばよかったのに。
意思の無い概念でさえも不自由を愉しんでいるのかな、などと無意味な思考あそびをしながら頭の半分くらいは休ませておかなければならないほど、日常を装う非日常に疲弊していることも確かだった。
この恋がきみを傷つけなかったときがあったなら
このところめっきり食事を摂る機会が減った。いや、嘘だ。タイミングは忙しいなりにあったと思う。
ただ、食事にわざわざまとまった時間を割くのが勿体なく感じてしまうと言うか。他の隊からも多くの人が集まる食堂には、何となく足が向かなかったと言うか。端的に食欲が無い日が連続したと言うか。
正確に告白するのであれば、食べる行為を若干嫌悪すらし始めている。
どうしてなのかは考えたくないので、曖昧にぼかして誤魔化し続けていた。
「乙子さん、ちょっといいですか」
「はぁい、どうぞ」
現在の十二番隊は隊長副隊長ともに不在のため、隊士達は書類の確認や質問、職務上必要な形ばかりの許可の申請を得るためには隊舎をうろうろしなければならない。
別にどこかの誰かのように定位置が無く捜し回る、ということではなくて、涅さんは技術開発局の研究棟の一室に籠りっきり、私は十二番隊舎の執務室に籠りっきり、という具合でお互いの居場所にかなりの物理的距離があるからである。
それもどちらか片方が居れば大体のことは大丈夫、なんて便利な感じであればよかったのだけれど、前隊長が消えてからの十二番隊は初期の頃のように隊務と局の運営に距離ができてしまっている。
なので隊務と十三隊の運営に関わる事柄は私へ、開発局への業務依頼や相談は涅さんへ、という具合に分かれてしまったのだ。
別に仲が悪いとかそういうことでは無くて元々私達はそういう距離感だったんですよ、と何度説明しても、隊外の人達には前隊長の蒸発で十二番隊の内側が未だ混乱状態にあると思われてしまうので、私としてはこれ以上何を補足すべきなのか悩みどころではあるのだけれど。
「この書類なんですが、最終確認と署名は乙子さんにお願いしたくて…すいません、忙しいのに」
「いいんですよ、隊長格が不在ですから、その分のお仕事が席官に回ってくるのは当然のことです。でも、そうですね。もう少し落ち着いたら、人事を少し整えないと」
笑いながら、差し出された書類をぺらぺらと捲る。
肝心の中身については流石この混沌期の真っ只中にある十二番隊で悲鳴を上げずに仕事をこなす隊士達なだけあって、特に空欄も無く記入されていた。
一枚目の右上には隊長・副隊長と並ぶ署名欄が確かにあったので、これは後で目を通したら開発局に行って涅さんにも署名を貰おう。
「…ええ、はい。了解しました。後で私の方から一番隊に提出しておくね。ご苦労様です、もう少し頑張りましょう」
ええと、と乾いた唇をひと舐め。
「………乙子さん?」
「あ、何でもないですよ。頑張りましょうね、山崎くん」
首を傾げる彼に片手を振って微笑んだ。
執務室の扉が閉まったのを見届けると、手にしていた書類を潰さないよう気を遣いながら机に額をあてて背中を丸めた。
「はー……」
危なかった、と息を吐く。意味もなく汗を拭う素振りをしたいくらいだった。
頭の一部に靄がかかってしまったように、話していた彼の名前が思い出せなかったからだ。
しかも、顔を正視するまではそのことに疑問すら抱いていなかった。これは危なかった。というか、継続される危険だ。
こうして意識できない部分から突然虫食いに忘却の波が迫ってくるのは何故なんだろうか。
空海月の影響と言えばそうかもしれないけれど、幾度となく記録と忘却を繰り返してきた私の頭がすでに破損してしまっていると思えば、それが正しい気もしてくる。
結局自問自答の末の結論は「どちらでも構わない」という曖昧かつ弱腰なものだ。自分でもどうかと思うけれど、生憎私にこんなことを相談できるような人は居ない。
リサちゃんならいつか、或いはと思ったこともあったけれど、…彼女ももう、居ないのだし。
ともかく、私自身が弱っていることは事実だろう。仕事に影響が出なければいいやと思っていたけれど、こんな突拍子もない物忘れが頻発していては仕事にならない。
よろよろと手帳を取り出して、半分程度が埋まった今日の分のページにペンを走らせる。
"笑えない物忘れ再発の傾向あり。心身共に健康を心がけること。"
「"涅さんに月末隊務報告書の確認と署名を貰いに行った後、一番隊に提出すること。"…」
……開発局、他所の隊舎を目指すほどじゃないけど遠いんだよなぁ。
涅さんから無事署名と確認を頂けたあとは、他の隊外向けの書類とまとめて提出してしまうことにした。
今は十二番隊の状況も鑑みるとあまり長い時間外をうろついている訳にもいかないから、できるだけ早く戻ってくるつもりで、執務室に『外出中』の札をさげて十二番隊舎から出てきた。
――と、最後の一番隊舎の廊下で京楽隊長と鉢合った。
「久し振りだね、乙子ちゃん。大丈夫なの?」
どうやら総隊長に用があったらしい。ほんの少しだけ疲れているような顔をしていたから、もしかしたら何か総隊長に叱られるようなことがあったのかもしれない。
こういう時、リサちゃんがしょんぼりした京楽隊長の背中を蹴っ飛ばしてどたばたして、結局元気になったんだ。
意味の無い懐古を嚥下して頭を下げた。
「お久し振りです京楽隊長。お蔭様で十二番隊は何とかなってます、今のところ。と言うかこれ以上壊れるところが無いですからね、うちは」
「微妙な自虐は止しなさいよ……それに、見た感じ大丈夫じゃなさそうだし」
「はい?」
「いや、ボクの訊き方も悪かったよ。"大丈夫じゃない"って答えられるほど簡単な子じゃないものね、乙子ちゃんは」
苦笑を浮かべた京楽隊長は肩を竦める。言われている言葉の意味をいまいち捉えきれていない私は厚みのない紙束を胸に抱いたまま首を捻った。
大丈夫に見えないなんて、私に限ってそんなことあるだろうか。だってあれからずっと微笑みを絶やさないように努めてきた。
おかげでほぼ毎日涅さんに「気色悪い」だの「不愉快の権化」だの散々なことを言われているのに。権化って相当だ。
「じゃあ、京楽隊長は大丈夫なんですか?」
「ボクかい? ボクは寂しいよ。寂しいけど、隊長だからねェ、彼女が居ないから寂しいってずっと塞ぎ込んでる訳にもいかないさ」
「ええと、私も同じです。いえ、私はあまりそういうことは思っていませんが、一応残った席官ですから」
そう言うと、京楽隊長はいよいよ困った顔をした。私も同じような顔をする。察しの悪い私は京楽隊長の言わんとしていることがわからないからだ。
ふと、目の前のオトナは笑みを浮かべる。
困ったこどもを見るような眼差しだった。
「気持ちはある程度察するけどね、無理しすぎちゃいけないよ。…そんなに痩せたら、皆心配になるからさ」
大きな手が私の頭めがけて伸ばされる。
私はその何気ない動作をじっと見つめていて。
――何か、知らない記憶が、慣れ親しんだ感情を呼び起こす。
「………あ」
驚きの声をあげたのは私だった。
と言っても、お互いに困惑の表情を浮かべている状況は変わらない。
何気なく、私の頭を撫でようとした優しい手を、私は反射的に避けてしまった。
何より避けた私が理解不能という感情をありありと顔に出してしまっているせいか、対照的に京楽隊長はだいぶ落ち着いている。こうなることを予想していたようにさえ見えた。
驚いたまま自分の頭に片手をやる私を見下ろして、京楽隊長は緩やかに首を振った。
「いや、ごめんね。今のはボクが悪かったよ。気にしないでね、乙子ちゃん」
「え……いや、あの……、……はい」
私が頷いたのを見届けると、京楽隊長はまたねと手を振って廊下を進んでいった。
ほんの少しの立ち話。何気ない会話、だったはずだ。
「――」
子供じゃないんだから、自分が何を苦手としていて、何を潜在的に恐れているかくらいの自己分析はできる。
自分で認めたくはないけれど、今の一瞬、私は遠く胡乱な記憶の底で澱のように溜まっている恐怖を、京楽隊長の手に透かし見ていた。
不覚だ、こんな過去と現在の区別をつけられないで何が"大丈夫"だろうか。隊長に気を遣わせてしまった。
大きな手が怖い、だなんて。
突然現れる記憶の穴と、普段は見えないはずの記憶の疵。
…自分で思っているよりも、損壊が激しいのかもしれなかった。