魂魄消失事件――そして、死神計七名、鬼道衆一名を失う極悪事件と犯人の逃亡を経て。
 こちらが拍子抜けする……いっそ不気味に思うほどの早さで、十二番隊及び技術開発局は蟄居を解かれた。もともと想定していた廃絶という結末を回避する形で、である。

 考えられる理由は二つ。
 一つは浦原、…浦原喜助と握菱鉄裁が尸魂界に残っている可能性が限りなく低いこと。協力者と思われる四楓院夜一を伴い、何らかの方法で現世へ脱したものと思われる。
 "虚化"の被害を受け、あとは虚として厳正に処理されるのみだった八人の隊長格を連れて。
 というのが、二番隊・隠密機動の調査結果だ。

 もう一つは、八人、逃亡した浦原喜助も含めれば九人の隊長格が一気に抜けている以上、多少内通の線がまだ残っているとは言え限りなく白に近い十二番隊わたしたちを謹慎させている余裕は無い、という判断だ。
 これについては私達の想像の域を出ず、他に何かの要因があったのかもしれないけれど、現状諸悪の根源が長を務めていた隊を庇い立てする物好きに心当たりはなかった。


「あのう、これはどこに置いておけば危なくないですか?」
「何すかその訊き方」

 両腕に抱えた木箱越しに問いかけると、振り返った局員達は一様に微妙な笑みを浮かべた。

 中央四十六室の権限のもとで捜査が行われたのは主に技術開発局だ。
 浦原喜助は確かに十二番隊の長であったけれど、日々の時間を過ごしていたのは隊首室ではなくほとんど技術開発局・開発棟の研究室だったからだ。
 "虚化"などという危険で非人道的な研究の痕跡を十二番隊に残すはずがない。それがあるとすれば、隊長就任以降手ずから創りあげた技術開発局内に違いない、という考えだ。

 その影響で開発局は開発棟だけでなく全体的に隠密機動の捜査の手が入れられ備え付けの設備機器以外はほぼ全てが一度外に持ち出され、戻ってきたと思ったらすべてバラバラに箱詰めをされた状態。
 更に私達十二番隊の隊士と局員達は謹慎と共に立入禁止を言いつけられていたから、何よりも優先して土足で踏み入られ荒らされた開発局の片付けから手をつけなければならなかった。
 押収物の返還はまだ緩やかに続いているので、きっともうしばらくは局全体の整理整頓を兼ねた片付けが続くことになるだろう。

 私達が等しく受けた傷を平穏で上塗りする為には、まずその土台を綺麗にしなければならなかった。

望むことが恋ならば


 技術開発局の人員は元々そう多くはない。
 今いる局員は全員前隊長が選りすぐった元囚人達で、逆にその人数の少なさが囚人を護廷十三隊に引き入れるという行為をギリギリ許容できる妥協点だったのかもしれない。

 局員の少なさの割に建物は大きく立派だ。返還された押収物の片付けを局員だけに任せていたら再配置だけで日が暮れるのを三日ほど繰り返しそうなほどに、開発局は広い。
 本当は隊士と局員が協力して片付け出来ればいいのだけど、私達十二番隊側の死神は(私でさえも)正直開発局の全貌を把握しきれてはいないので、局員の指示をいちいち仰ぎながらスローペースで片付けのお手伝いをする必要があった。

 そういうわけで隊士の半数は滞っていた隊務の見直し、残りの半数は開発局で大掃除のお手伝い、という形で人員が分けられ、十二番隊・技術開発局再始動の初日が始まったのだった。

 ちなみに前隊長が使っていた部屋のほとんどはそのまま涅さんが引き継ぐことで落ち着いたらしい。
 備え付けられた機材以外のすべて――前隊長の私物を含む――を文字通り部屋から放り投げ火をつけようとした涅さんを何とか押しとどめ、ゴミ箱代わりの段ボールを山ほど組み立て直したのは、まあ、……一周回って元気が出た気がする。
 それは掃除ではなく投棄です、許可のない廃棄物の焼却だけはどうか、と何度涅さんに縋りついたか解らないけれど。


「失礼します、涅さぁん、もう一箱持って来ましたけど、スペース空いてますか?」
「まだ配置が決まらん。そこら辺に置いておけ」
「わかりました。棚とか机とか動かすのであればお手伝いしますけど、……何ですかそれ」

 顔だけで振り返った涅さんの手には両手で抱えるほどの大きさの硝子瓶があった。透明な液体で満たされたそれの中央には、糸くずのような何かが浮かんでいる。
 何か特別な素材か何かなのかな、と見当違いな推測をする私に、涅さんは一言「失敗作だ」と端的に告げた。

「しっぱいさく。涅さんも失敗はするんですね」
「失敗そのものは悪ではないからネ。……発音の拙さからしてすでに理解の低さが伺える君に一からこれについて説明するのは面倒極まり無いのだが……」
「あ、お手数なら別に大丈夫です」

 首を横に振るけれど、私のことなんか端から見ていないのか片目を眇めた涅さんが尚もそうだな、と言葉を続けようとする。
 言い方はさておき会話を続ける気があるのなら聞き役くらいはしておこうかと、とりあえず足元に置いた段ボールを開封しながら待つことにした。

「今後また似たような事態が起こらないとも限らない。すでに私のものとなった技術開発局に余所者の無粋な手を挿し入れる隙を許す気など毛頭ないが、障壁は多い方がいい。今回の経験を経て君にもある程度規則マニュアル定型文テンプレートを超える思考能力が有ることが証明されてしまったからネ。軽く概要だけは説明しておくから、万が一の場合は全力で局の財産たるこの『被造魂魄計画』を護り給え」
「万が一でも不吉なこと言わないで下さいよ、こんな心臓に悪い上司の蒸発はもう懲り懲りです」
「私があの男と同じ失敗を犯すものか。馬鹿にしているのか?」
「自分で言い出したのに…あぶなっ」

 よくわからないけれど先端の鋭利な何かが飛んで来た。首筋ギリギリに飛来したそれを間一髪で躱しながら話の続きを促す。
 開封した段ボールからまず出て来たのは薄茶色の瓶に並々注がれた保存溶液だ。

「これだけ迷惑を被っておきながら自分でもどうかと思うが、今回の魂魄消失事件で学ぶことも多少はあった。魂魄に関する実験は否応なしに"非人道的"と非難されるからネ。瀞霊廷の守護を建前に人斬りの術ばかりを高め合う戦闘集団に人道も何もあったものじゃァないと私は思うが」
「はぁ……」

 そこで一旦涅さんは言葉を切る。
 黄金色のぎょろりとした双眸に何か眩いものが揺らめいた気がして、私はその眼差しをじっと窺った。


「――私は、全くの無から有を造り上げる」


 手を止めた。持ち上げた重い瓶の中でちゃぷんと液体が揺れる。
 冷たいリノリウムの床に両膝をついたままで、私は満たされた硝子瓶を持つ涅さんをじっと見つめる。まるでなにか尊いものを大事に抱きかかえるような、……そう、生まれたての赤子を幻視しているかのような手つき。
 その横顔はどこか朧だ。けれど途轍もない強い光を灯している。

 私には、よくわからない光。

「有とは命だ。魂だ。一からそれを造ることは全科学者、全死神の夢だろう。ならば私はそれを以てあの男を超える」
「――」
「義骸技術と義魂技術を結集させ、必ず、浦原喜助よりも優れたものを造るのだ。私はそれを『被造魂魄計画"眠"』と名付けた」

 浦原喜助を超える。浦原喜助よりも優れたものを。浦原喜助より。
 浦原喜助。

「……」

 顔を俯かせた拍子に滑り落ちてきた前髪の一束が頬を撫でる。
 それを掬い上げ耳に掛けながら、呻くように、血を吐くように問いかける。

「……あの人が、何処かでまだ研究を続けていると?」
「あァ」
「……あの人が悪人かどうかを度外視しても、これだけの事態の中心にいて、真偽はともかく色々なものを引っ掻き回して、……壊して。――それでも尚、造り上げたいものが、あるって言うんですか?」
「無論。科学者とはそういう生き物だ」

 何気なく、どうして空は青いのかと頻りに問うこどもに答えるような、妙な穏やかさのある声で涅さんは解を口にする。

「何かを造りたいから生きているのではない。生きている以上何かを造らずにはいられない。自己を蔑ろにしても知的欲求を止められない、そういったものの成れの果てが科学者という生き物だ」

 自己を蔑ろにしても停まれない。……心を棄てても止められない。
 ああ、ああ。知っている。私はそれを知っている。
 そんなことはとうの昔に承知していて、だって言うのに私は今更それを認められなくて―――


 ―――思わず顔を掻き毟りたくなるような、酷い苛立ちに襲われた。


 それはもはや一種の信頼だ。
 涅さんの、浦原喜助に対する認知は同族嫌悪の枠を超えている。
 涅マユリという、他に比肩する者がいない程の頭脳と手腕を持つ人が、更にその上を往く浦原喜助という男はたとえ人道を逸れ此岸に根を下ろそうとも、自分と同じモノをこれからも見続け、造り続けるだろうと信じている。

 常日頃あれほど嫌悪していた相手を、誰に言われるでもなく正視している。此処にはもう姿かたちも無いあの人の背が、今も彼には見えている。
 あの人とはまったく別の方法で、けれどもあの人もいずれ辿り着くだろうモノに、涅さんもまた辿り着き、そしてそれを超えようとしている。

 なんて強い信頼だ。なんて恐ろしい確信だろうか。
 こんなのは酷い。こんなのはあんまりだ。

 だって私には"それ"がわからない。もうあの人の背中なんて見えない。
 私にはわからない"それ"を追って此処から姿を消した浦原喜助の背を追うことは、涅さんが同じものを見ているということは、……涅さんだって私の目の前から跡形も無く消えてしまう可能性があるということで。
 それは、許せない。それは嫌だ。ぜったいに。


 ――許せるはずない、のに。

「君は人でなしわれわれのその性質をとうに承知しているものだと思っていたが、私の過信だったかネ? 心の善性と人間性を露ほども理解出来ない者の集まりを――君は"君の"十二番隊の構成要素だと認めたのではなかったのか?」

 ……涅さんは意地の悪いことばかり言う。職場には恵まれてきた私だけれど、上司に関してはその限りじゃないのかもしれない。
 涅さんはきっと私のことをほとんど理解しきっている。だからこうして、わざと優しげな物言いで酷いことを言ったりする。

 常々涅さんが言っている通り、私は他者を愛さない。
 私が愛せるのは私が薄情でこう在ることを許してくれる十二番隊であって、それを構成する個人個人ではない。
 他者を愛さないから、それを失うことは恐ろしくない。簡単な式だ。
 本当に恐ろしいのは、平然とそれを受け入れている心無い私自身と、そんな私自身を支配せんと遥かな天で根腐りするばかりのオトナ達だけだ。
 ――だと言うのに、唯一喪失だけは恐れないはずだった私が、けれど今この瞬間喪失を恐れているだなんて。

 愛していないから失うことも怖くない、という絶対の法則が綻んでしまう。

 どうせ忘れてしまうなら。どうせ忘れてしまうから。忘れてしまえるから。
 悲しみは私を動かせない。心は私を支配しない。ずっとそう信じていたのに。
 そうやって、私は私を護ってきたのに。

 たった九年、積み重ねてきた取り留めもない記憶が、見過ごせない矛盾となって私の忘却生き方を否定する。
 そんな酷い矛盾を、私は受け止められない。

「…、……」

 私は他者を愛せない。消して短くない時間を共に過ごしてきた朋との離別にさえ、私は涙出来ない。
 だから、決して壊れることも疵付くこともない、外殻としての十二番隊に執着してしまうのは、多分当然のことなのだ。

 ――そして、当然その外殻たる十二番隊を護りたいと思うから、殻の内側にいる涅さんの言葉を、私は否定出来ない。
 心身が朽ち果てるような、死に物狂いで壊さないように大事に抱えてきた夢の一部である、涅さんの言葉を、私は、……拒絶出来ない。
 いつか私を置いていくかもしれない、「永遠になってくれる」なんて馬鹿げた約束は嘘でも口にしてくれない彼のことを、私は拒絶出来ない。

 目の前にいるこの人を殻の外に弾き出すことは、私の決めた在り方と矛盾してしまう。

 そもそもいつかは跡形も無く忘れてしまうのだから、涅さんの言葉にも、いずれどこかで再会を果たすかもしれないあの人を思考から排そうとする今の私の無駄な行為にも意味は無い。
 無い。そう、無いのだけれど――止めてしまったら、私のなかの致命的な何かが、壊れてしまう気がして。

「……、……涅さんの言っていることは、いつも難しいです。なので、どうお返しするのが適切かはわかりませんが」
「あァ」
「私、事ここに至ってあの人が――浦原喜助が憎い」

 微笑みを形作れない。
 今の私にあるのは戸惑いと苛立ち、そしてそれらの無意味さを嘆く冷え切った気持ちだけだ。こんな醜い顔は見られたくない。
 そっと顔を逸らしながら、血を吐くような思いでそう答えた。


 私はようやく、今になって浦原喜助に対する認知を正しく更新出来た。
 永遠でいて、などという愚昧な願いに軽々しく頷いて。そこに居るだけだった私に、『十二番隊ボク達を見守る者』なんて定義付けをして。
 此処に居てもいい、なんて優しい許しを与えておきながら、居なくなってしまった。

 勿論、何も言わずに消えたことを恨んでいる訳ではなくて。
 訳の分からない事件に巻き込まれて、十二番隊そのものが廃絶の危機に陥ったことを恨んでいる訳でもなくて。
 ああ、けれど、それでも、一方的で妄執的な約束は、呆気なく破られたのである。

 私の内側にこの無意味が芽吹くよう仕向けたのは浦原喜助だ。
 ずっと一人のままであれば絶対にこんな矛盾は生まれなかったのに、あの人が現れたせいで、私は、水月乙子は壊れてしまった。

 それが何より許せなくて、……殻の内側に入り込み、『無意味』を育て上げた浦原喜助が、心の底から憎い。


「……そうか」

 涅さんは少しだけ黙考した後、そう呟いた。
 否定も肯定も含まない三文字が少し意外で、思わず目を正面に向ける。

 涅さんは笑っていた。にんまりと細められた金色の目は三日月のよう。
 何が愉しいのか、何が嬉しいのか、化粧の施された顔が笑みにくゆる。

「よかったじゃないか、恐怖以外の感情が蘇生しているヨ」
「……何もよくありません。誰も憎まず、嫌わずにいることが理想なのに、こんなのあんまりです」
「そんな薄ら寒い理想論は捨ててしまえ。どれ、もっとその顔をよく見せろ。普段の非人間的な表情より、今の方がよっぽど人間的だぞ、水月」

 笑うような口調とは裏腹に、涅さんは容赦の無い手つきで私の顔を掴んだ。
 目を逸らす私の顔を無理矢理上げさせて、白っぽい明かりに照らされる壊れた女の顔をまじまじと観察し、乾いた笑みを浮かべる。
 本当に私の憎悪が喜ばしいものであるかのような、そんな仕草で。

 ……よくわからない。
 自分の汚点をまじまじと観察され、しかもそれを褒められるというのは中々に収まりが悪かった。
 泥のように次々沈み込んでくる重いモノを誤魔化すように、そして目の前の涅さんに反抗するように微笑んでみせると、「それは模倣の分余計に質が悪い」と叱られてしまった。
 強く掴まれていたぶん、涅さんの指が頬に突き刺さっていた感触がまだ鮮明に残っている。
 両手で顔を揉みながら、小さく息を吐いた。
 今の私のこの内面の狂い具合と猿真似で取り繕った外面、……どちらがマシかなんてことは議論するまでもないだろう。

 だからいいんだ、これでいいんだと崩れかける自分を肯定する。
 回避も誤魔化しもできない矛盾を直視して総崩れするよりは、こうして別のモノで誤魔化す方がマシだ。だって私は生きていたい。こんな自己を認識したくない。

 何が起きても、どんな悲劇に見舞われようとも、いつまでも間違えたままでいられる。人を愛さないことは、きっとひととして間違っているだろうけれど、それでも私はその方がうまく生きていける。
 ようやく安堵の笑みを浮かべながら、矛盾を隅に追いやった。


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