勿論怒りもあったけれど、それがすべてではない。むしろ、比率としては付属品に過ぎなかったかもしれない。
ただ探究心と、ほんの少しの不安に駆られて過去を探っていた自分を責め立てる気も起きない。
それまで色々な思いが湧き上がり、波打っていたはずの心は静まり返り、その湖面にぽつんと残ったのは失望、落胆、その類だった。
ああ。
また一つ、誰かを犠牲にした世界の歯車が此処にも在ったのか、と。
その日の夜、ボクは偶然夜一さんと遭遇した。
探偵ごっこに熱中しすぎて自分がどこに居たのかもわからなくなっていたボクを見て、大きな月を背負った黒猫は、それはもう愉快そうに笑ったのだった。
曰く、「変わりないようで何より」と。
ボクが調べ上げた内容とそれで判ったこと、そこから想像できうる、水月乙子のすべてを話すと、夜一さんはううん、と曖昧な唸りとも頷きともとれない声を上げたのだった。
「一応確認しますけど、四楓院家はこの件に関わってませんよね?」
「莫迦を言うな、都合の悪い者が居れば正々堂々真正面からぶん殴っとるわ! 消すまでも無いぞ、拳ひとつでハイもイイエも気の向くままじゃ」
「そ、それはそれで問題っスけど…」
そもそも、この貴族らしからぬ暴君…もとい自由人な四楓院家二十二代当主がその場に居合わせたなら、何も知らないこども一人が醜い貴族の思惑によって食い物にされることなど許しはしなかっただろう。
思えば、きっとそれが性質の似たボクと乙子サンを隔てた決定的な違いだった。
変われないボクを引っ張ってくれる夜一さんが、きっとそれが必要だった彼女には居なかった。
だから、必要のない罪悪感で泣いていただろう過去の彼女は、永遠に泣いたままで。
「それにしてもよく調べ上げたのう、乙子が聞いたら卒倒しかねんぞ、あ奴、意外と秘密主義じゃからの。私生活に踏み込んだら最後、この儂でさえも笑顔でそれとなーく拒絶されたものじゃ」
「それは日頃の行いじゃないスか」
「何を言うか、可愛がっとるじゃろ」
「背骨が砕けるとか腰が無くなるとか悲鳴が結構な頻度であがってますけど」
「ほ〜う初耳じゃの〜、陰ではそんな事言っとったのか〜ほ〜ん…」
スイマセン乙子サン、余計なこと言ってしまいました…。
「……で。可愛い乙子にしがみついて汚い益を貪る輩共に目星はついておるのか」
「…それはまあ、ハイ。おおよそは」
「それは何より。家名だけでよいぞ、議題に上げてとことん追い詰めてやろう」
「………」
「…喜助?」
「いや…それは止しましょう、夜一さん」
ボクの態度が悪事を黙認する姿勢に見えたのか、夜一さんはむっとしてボクを睨み付ける。
金色の大きな目がじろりとこちらを睨んでくるのには圧力を感じるけれど、それでもボクは立派な犯罪行為…人ひとりの心を踏み躙って生きる醜い奴らを告発しようという気にはならない。
それは無理言って立ち入った書架を出た時から決めていたことだった。
夜一さんの納得のいっていない表情が、それでもそれ以上不服を示すことなく続きを促すので、大人しく思っていることを口にする。
「それじゃきっと、乙子サンは幸せにはなれないと思うから」
ボクの答えに、夜一さんは大きく息を吐いた。そのまま片手を額にあてて、困ったように柳眉を下げる。
そのまま物思いにふけりながら、しあわせ、と妙に拙い口調で呟いたりする。
「そうか。……乙子を幸せにしたいのか、おぬしは」
「その言い方だと何かちょっと語弊ありますけど…まあ、そもそもが気持ちいい話じゃないですし、それに部下が巻き込まれてるなら何とかしてあげたいと思うじゃないスか」
「相当懐いとるのう。いや、この場合乙子が上手くおぬしを懐柔したと言うべきか」
言いながら、ふと猫のような瞳が鋭さを増す。
冷たい光を宿した双眸がじろりとこちらを見上げて、この人の下でなくなったにも関わらず、ボクはほんの少しだけ身震いをした。
ボクが言われたくないことをそうと解っていて口にする時の、研ぎ澄まされた刃のような眼差しだった。
「上官の職務には部下の幸福を願う、などと高尚な内容は含まれておらぬぞ」
「…耳の痛い話っスね」
「乙子の何に負い目を感じておるのかは知らんが、深入りしすぎておぬしまで身動きを取れなくなっては元も子もないのだぞ」
わかっている。
これは、隊長と部下という関係のままで居るのなら踏み込むべきではない領域の話だ。
水月乙子――彼女を思い通り幸せにするには、彼女の背後についている貴族を、何とかして彼女から引き剥がさなければならない。
往々にして、貴族の起こした不祥事は関係者ごと闇に葬られやすい傾向にある。もしこの問題が公のものになった場合、彼女自身もただでは済まないことは想像に難くない。
そして恐らく、それを持ち出したボク自身についても。
「……本当はまだ少し、乙子サンのことは苦手っス。だって彼女、知れば知るほど似てるんスもん。行き着く結論は同じなのに、彼女は巧く優しい選択をするから、それがボクには羨ましく映ってしょうがない」
「…」
「でも、それと同じくらい申し訳ないと思ってるんです。意思に関わらず記憶を失くしてしまう彼女にとって、今居る環境がどれくらい重要なものかを思い知って、ようやくボクが十二番隊を変えてしまった意味が見えてきたんス。それはすごく…彼女にとっては、恐ろしいことだったんじゃないかって。それなのに――」
――浦原隊長も十二番隊の皆さんですよ…
「――…沢山奪ってしまったから、少しでも多くのモノを与えて笑ってもらおうと思ってたんス。でも駄目でした。返したいと思ったモノ、結局全部忘れちゃうんスもんね。これじゃ採算合いませんよ」
「そも、与えてやろうという思考が傲慢じゃ。乙子は部下であっておぬしの子供でもなければ伴侶でもない。履き違えるなよ、喜助」
ボクだって、夜一さんが言っていることは解っている。
けれど、それではあまりにも。
「……じゃあ、誰にも護ってもらえなかった、叱ってもらえなかった少女は、誰が救うんですか」
「誰にも救えぬし、救ってはならん。例えそれが乙子の在り方にどう影響を及ぼそうとも、その悲しみは過去のもの。それをおぬしが現在に呼び起こして何とする」
解っている。
それがどんなに間違っているとしても、乙子サンは過去の救われなかった自分を折り合いをつけて、今は普通の死神として生きている。
過去の救済や罪の消化を持ち出してそれを歪めてしまうのは、彼女がやっとの思いで苦痛を耐えて築き上げた日々に石を投げる行為に他ならない。
彼女を救う為には、どうしたって過去を呼び起こしてもう一度世界と彼女の罪を確かめる必要がある。
それによって、彼女の日常は必ず壊れてしまう。
きっと、短くない時間拷問のような日々に耐えてきた彼女にとっては、新しい傷を与えられるより古い傷跡を大事に抱えていく方が心安らかでいられる。
それでも――。
臆病と強さが同居する彼女の柔らかい眼差しは、きっと全てを暴くボクを許してしまうから。
…事ここに至って、ボクは自分がどうすべきなのか解らなくなってしまった。
「…ま、結局はおぬしの部下じゃ。好きにするがいい。先手を打たれ覚えのない罪状で吊るし上げられた時は見送ってやるから招待状を出せ」
「抹殺される前提スか、酷いんだか律義なんだか…」
話はそれで終わりだった。
ボクが乙子サンの上司であるように、もうボクは夜一さんの部下ではないから、在り方の是非を問う問答はここまで。
最後に、と立ち上がった夜一さんが振り返る。
「他人の気持ちなど最終的に捨て置くお前らしからぬ悩みじゃな。問答無用で総てを暴き立て、あの怒りとは無縁そうな四席に永遠に恨まれるくらいのことを想像していたが」
「ボクのことなんだと思ってるんスかアナタって人は…」
「少なくとも思いやりとは無縁の男と認識しておる」
「……思いやりなんて殊勝なことは無かったスね、確かに」
言って、顔を伏せる。
思いやり。彼女の今と、過去と、それから続く未来を、ほんの少し、赤の他人よりは考えている。これが思いやりと言うのなら、成程、ボクは随分と人間性みたいなものをこの短期間で獲得したらしい。
けれど、多分事はもっと単純明快だ。
浦原喜助という一人の男は、水月乙子に受けた恩を仇で返すようなことだけはしたくないだけなのだ。
「けれど、だからこそ、夜一さん。ボクはね――」